大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年05月31日 | 写詩・写歌・写俳

<637> 帰 郷

        故郷に ふるさと香る 夏の海

 今日は我が故郷、瀬戸内の田舎町で父母の法要があり、久しぶりに帰郷した。海辺にある故郷は子供のころに比べると随分変質して見えるが、それでも随所に面影が残っている。灘よれ入り組んだ湾の奥のところ、周囲を小高い山に囲まれた所謂盆地状の跼るようなところに集落が点在している。

 車で出かけたのであったが、到着が法要の時刻より少し早かったので、昔の記憶を辿るべく、湾から湾へ巡航する船の発着場だった海辺に行ってみた。巡航船は廃航になって相当の年月が経ち、今は桟橋もなく、護岸工事が行なわれ、高い防潮堤になっている。少しの時間であったが、車を停めて降りてみた。

 海岸べりでは今もケミカル工場が操業しているが、私が子供の時分の方が活気に満ちていた。出入りする船も多く、近くの島には小さいながらも造船所があり、溶接の火花が見えたり、作業による鉄の音などが聞かれたりした。今はレジャーボトが停泊する光景に変わり、都市部の遊興族にその場を提供して、物静かで海に何か他人行儀なものが感じられる。

                     

 それでも、海に近づくと浜辺に打ち寄せられた海藻から生じているのだろう、潮の香が漂っているのがわかり、懐かしさが込み上げて来た。ハゼを釣った。フグを釣った。イイダコを釣った。白い巡航船は白波を蹴立てて勢いよくやって来た。暫く、そんなことを思い出しながら立った。

  半身を海に沈めて傾ける廃船 父の時代の形見

  半身を海に沈めて傾ける廃船オブジェのごとくにも見ゆ

 少し推敲して言葉を換えているが、以前、このような歌を作ったことがある。久しく船尾を海に沈めた木造船が島の砂浜に見えていたが、今はすっかり消え去っている。これは年月の力というものだろう。父はこの巡航船発着場近くの工場に勤める兼業農家の主だった。働き者であった父の時代は労働の時代であった。写真は故郷瀬戸内の海。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年05月30日 | 万葉の花

<636> 万葉の花 (92) すもも (李) = スモモ (李)

        ここもまた そらみつ大和 すもも咲く

   吾が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも                         巻十九 (4140)  大伴家持

 この歌は「天平勝宝二年三月一日の暮(ゆふべ)に、春の苑の桃李の花を眺瞩(なが)めて作る二首」の詞書をもって巻十九の巻頭を飾る二首中の一首で、一首目には「春の苑紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(をとめ)」が掲げられ、ともに家持の代表作として知られる。集中にスモモの登場を見るのはこの一首のみで、この二首から察するに、モモもスモモも家持の好きな花の木であったことがうかがえる。

 二首とも一読してわかる歌で、モモもスモモもウメと同様、古くに中国から渡来したバラ科の落葉高木で、みな春に五弁花を咲かせ、どこか似るところがあるが、中国ではモモとスモモは「桃李」と呼ばれ、詩文などに多くとりあげられている。だが、『万葉集』にはウメの百十九首に対し、モモもスモモも極端に登場数の少ないのがわかる。これはウメが季節の先がけの早春に咲くからだろうことは以前に触れたとおりである。

 家持は天平十八年六月より天平勝宝三年八月までの五年間を越中国守として越の国(富山県)に在住していたので、この歌は任地での作ということになるが、早春に咲くウメと違って、任国は北国であるから旧暦にしても三月一日にモモやスモモの花が咲くのは少し早いと言え、この二首は都の自邸の花を詠んだものではないかということが想像される。

                                                                                     

  思うに、家持は都の自邸の花を思い描きながら詠んだのではないかということがまず考えられる。そうでないとすれば、このとき一時、帰京していたということも考えられる。もし、任国にあって詠んだものであるならば、望郷の念に駆られて詠んだものとの想像も出来る。また、任国の花を都の時期に合わせ、詞書にある日付を『万葉集』編纂時にずらしたということも考えられるが、この点は全くはっきりしない。

 スモモは酸桃の意で、新井白石の『東雅』によれば、「李 スモモ、スは酸なり、モモは桃なり、その実酸くして多きをいふなり」という。『日本書紀』には推古紀と舒明紀に桃李の花と実のことが記されているので、スモモはモモとともにその時代既に我が国にもたらされ、実が実用に供せられていたことになる。

 歌は薄っすらと積もった斑な雪とスモモの散り敷いた花が見紛うさまを詠んでいるわけであるが、これは家持の父旅人が大宰府の自邸において催した宴席で詠んだ『万葉集』巻五822番の散りつつあるウメの花と降る雪とを見紛う設定の歌、「吾が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」に影響を受けた歌として、同工異曲と見る向きもある。だが、個人的嗜好で言わせてもらえば、私は家持のスモモの歌を採る。三句切れの調べがいい。  写真は左からスモモ、モモ、ウメ。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年05月29日 | 写詩・写歌・写俳

<635> 続・抜歯に思う

          万緑に 抜かれし歯一つ 旅立たす

  奥歯の抜歯で縫っていた糸をこのほど取ってもらった。血液さらさらの薬を飲んでいるので、一時出血があったが、医師から傷口は治癒に向って順調であると告げられ、何とか一段落したという気分になった。この奥歯の抜歯で、今もそうであるが、抜いた側の歯は使わず、右側の歯だけで噛むようにしている。

  これは医師の指導にもよるが、自分でも本能的に傷口をかばい、抜いた側では噛まないようにしている。こういう仕儀に至って既に十日が過ぎたのであるが、この口の中の状況によって、一つの発見をしたのであった。発見とは大袈裟かも知れないが、私にはちょっとした発見に思えた。

                     

 というのは、右の歯でしか噛まないようになって、右で噛むのと、左で噛むのとでは微妙に味の違いが感じられるのに気づいたことである。噛まないと言っても食物は左側にも多少は移動する。そのときに、ふと感じたのである。甘いものでも、辛いものでも口の左右で微妙に違う。

  普段、両方で噛んでいるときは、そのような違いは感じず、無意識に食事をし、口全体で味わっていたことが言える。だが、奥歯一本失って口の中にトラブルが生じ、これがきっかけで、これに気づいたのである。言わば、味というのは口全体で味わっているわけであるが、全体というのは細部の集まりであって、その総体をいうものにほかならず、今回のことで言えば、右での味わいと、左での味わいが合わさって総合的に口の中の味覚が成り立っているということになる。口の左右、全体でどのように味が違うかということは説明し難いが、とにかく、その味は微妙に違うと言える。

                         

 これは何も口の中のことだけでなく、手でも足でも、体全体で言えることではないかと思う。例えば、同じ傷でも、右手と左手ではその痛みが微妙に違う。痒さにおいても体の部分によって微妙な違いがある。これは、センサーである神経がそれぞれ違うから当然と言えば当然であるが、その違いが今回感じられた次第で、発見に思えたのである。

  私は奥歯一本を抜いて以上のことに気づいたのであったが、このことは一つの経験によって得たもので、このことに照らしてみると、私たちの周囲にはいろいろと見えて来るものがある。例えば、この間、撮影したニガナの花であるが、私たちは私たちの目線で見ている。つまり、草丈三十センチほどを上から見ることをしている。これが通常のことであるが、花に寄り集まって来る虫たちは花の高さの目線でニガナの花を見ている。同じ花ながら虫たちは私たちと違った感じを抱いてニガナの花を見ていることになる。

 このことは、ものを右だけで噛むのでなく、左でも噛むことによって味覚が成り立っていることに通じる。目線を変えれば、ニガナの花はいろんな表情を見せてくれることになり、大きく言えば、ニガナの花の世界観に近づくことが出来る。このことは私たちの進歩に大切なことで、マイナスをプラスに生かすことに繋がり、私たちのものの考え方を真理に近づけることにもなると言ってよい。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年05月28日 | 写詩・写歌・写俳

<634> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (22)

        [碑文]        妹が見し棟の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに                    山上憶良

 この歌は、『万葉集』巻五の「日本挽歌一首」の詞書をもって見える長歌の反歌五首中の一首798番の歌で、左注に「神亀五年七月二十一日 筑前國守山上憶良上(たてまつ)る」という説明が付されている。原文では「伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尒」とある歌で、楝(あふち)の花に寄せて、妹の死を悲しんで詠んだ悲歌であるのがわかる。

 原文の「阿布知」は「あふち」と読み、これは棟(あふち)のことで、今いうところのセンダン(栴檀)に当たる。センダンはセンダン科の落葉高木で、西日本の海岸地方に多く自生しているが、庭などにも植えられ、海には縁遠い大和でも各地に見られる。多分、大和の個体は植栽起源のもので、貴族の邸などにも植えられたものと推察出来る。『万葉集』にはこの憶良の歌を含め、棟(あふち)は四首に登場するが、みな植えられたものを詠んだと思われる。

  大きいものは高さが二十メートル以上にもなり、枝を広げて細かい葉を繁らせるので、樹冠はよく目につく。五、六月ごろ、微かに芳香のある淡紫色の花を枝木の花序いっぱいに咲かせる。実は子供の小指の先ほどの大きさで、秋に熟し、黄色を帯びる。その実は冬になって葉が散った後も枝木に残るのでよく目につき、冬の風情をなす。また、実は苦練子と呼ばれ、昔は虫下しにし、しもやけやあかぎれなどにも用いられたという。

                           

 万葉時代には端午の節供(旧暦)に花を糸に通して災いを取り除くための飾りにしたことで知られ、『万葉集』の四首中、大伴家持の歌をはじめ二首にこの薬玉が詠まれている。これは中国の影響によるもので、棟のセンダンは吉木であった。四首はほかの歌もみな花に関わる歌で、この憶良の碑文の歌も花の散ることをこよなき妹の死に重ねて詠んでいる。

  その意は「妹(いも)が見たセンダンの花は散る気配を見せるが、散れば、思い出のよすがを失ってしまう。まだ、妹を亡くして悲しみの涙が乾かないのに」となる。「妹」というのは、妻や愛しい女性に対して使う言葉で、この歌は自分の妻が亡くなったときの歌であるとする説がある一方、この歌の直前に神亀五年六月二十三日の日付のある大宰府帥で親友の大伴旅人の悲嘆に暮れる一首が長い左注とともに載せられていることから、憶良が旅人の心情を汲んでその悲しみを歌にしたとする説も根強くある。果たしてどちらの説が正しいのであろうか。私は後者の方で、旅人の妻の訃報に接して、憶良が悲嘆の旅人に代わって詠んだと見る。

 思うに、人というのは極度な悲しみに見舞われると、言葉を失うものであるが、このときの歌における旅人と憶良を比すると、憶良の歌は饒舌過ぎる気がする。これに対し、旅人は「世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり」と、その悲しみの思いをやっと一首にしているという感じがあり、歌の良し悪しは別にして、こちらの方が悲痛の極みにあると思われる。よって、前述したように、憶良の日本挽歌は、憶良が旅人の心情を汲み、旅人になり代わって詠んだという見方の方に私は傾く。ゆえに、この「妹」は憶良の妻ではなく、旅人の妻ということになる。

 この碑は、棟のセンダンの花に寄せて、橿原市の天香久山にある万葉の森に建てられているもので、傍らには棟のセンダンが植えられている。この棟のセンダンについては、時代的に評価の変遷が見られ、時代によって、吉凶が逆転して見られたこともあったが、これについては、このブログの<266>万葉の花(5)において触れているので、参照願いたい。写真はセンダンの花と憶良の歌碑。    淡きこと ほのかに見ゆる 花棟


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年05月27日 | 植物

<633> ニガナに思うこと

        踏まれても その身の上に 花苦菜

 この時期、山野を歩くと、黄色い小さな花が群をなして咲いているのを見かける。殊に日当たりのよい野原や原野には一面地を被うほど咲くのに出会うことがある。高さが二十センチから五十センチほどになるキク科ニガナ属のニガナ(苦菜)で、茎を切ると苦味のある乳状の液が出るのでこの名がある多年草である。山地には変種で白い花をつけるシロバナニガナが見られるが、今年のニガナは花数が多いように思われる。

 ニガナは冬に地上部が枯れるけれども、地下の根で命脈を保つ仕組みで自然に向きあって、春になると、その根から芽を出し、改めて一年の営みを始める。まず、春に花を咲かせ、その後、実をつけて、秋にはその実を地上に落として地上部は枯れて行く。このようにニガナは毎年この営みを繰り返し生き継いでいる。つまり、親株と子である実の両方によって子孫を繁栄させるようなやり方をしている。

 顕花植物では、この多年草に対して一年草とか二年草というのが見られる。この前少し触れたが、こちらは、一、二年の間に芽を出し、花を咲かせ、実をつけ、親株の方は花が咲くと根を残すことなく全草が枯死してしまい、命脈を子である実の中の種子に託すというやり方で子孫を繋いで行くような仕組みになっている。

                    

 ほかにも、地下の球根や株を増やして行くやり方をするものも見られる。ユリ科やヒガンバナ科の植物がこれに当たるが、これらは個体の種によって異なる。一、二年草よりも多年草の方が子孫を継いで行くには確率的によいような気がするが、マメ科やアブラナ科の草花には一、二年草が目につく。

 これはなぜなのだろうか。何か理由があるはずと思われるが、定かでない。一方、樹木には主に雌雄別株(雌雄異株)、雌雄同株(雌雄異花同株)、雌雄同花といった樹木自体の構造上の違いがある。雌雄別株は雌雄の花が別々の木につくタイプで、ヤナギ科やカエデ科に多く見られ、雌雄同株は同じ木に雄花と雌花が別々につくタイプで、ブナ科やカバノキ科がこれに属している。また、雌雄同花は花自体に雌雄が混生しているタイプで、バラ科やツツジ科の木がこの部類に入る。

 この樹木の場合も、一番効率的なのは雌雄同花の木であろうが、自家受粉を嫌うから、これが決定的によいとは言えない。だが、雌雄別株のアオキの例で、雄株だけを植えたため、期待していた赤い実がならなかったということがある。これはアオキが雌雄別株であるという認識がなかったためだった。花は雌雄が離れれば離れるほど、その合体に難しさが生じるわけで、子孫繁栄には不利になる。

 またの例で言えば、シダレヤナギがある。シダレヤナギは古くに中国から渡来した中国原産の外来種で、最近のことはどうだかわからないが、我が国のものは雄株のみで、雌株は存在しないと以前聞いたことがある。これなども雌雄別株の話が絡んでいるわけで、最初に導入したとき、花つきのよい雄株のみを持ち来たったからではないかと思われる。それが差し木か何かで増えて行ったと考えられるわけである。つまり、我が国のシダレヤナギは、花から実へ、実から芽ぶきへという本来の過程によらず増えて行ったということになる。

 何はともあれ、植物の子孫繁栄のやり方にはさまざまあって、さまざまにあることはそれで別段問題のあるわけではないが、合理的にあるのが一番よいとすれば、みな一致した方法で花を咲かせると思われるが、実際には、そのようにはなっていない。これは、そこに何らかの理由があるはずで、自然、つまり、天(神)の配剤のようなことも思われて来たりする。 写真は一面に咲くニガナ(橿原市の藤原宮跡で)。