<3057> 余聞 余話 「許容の風景」
私がこの世に生きてゐられるは許容の風景あるゆゑならむ 私(わたくし)
私は今まで、生ある私たちを「時と所の産物」と、機会あるごとに言って来た。ここでいう時と所は風土と言い換えてもよいように思える。ということは、風土に影響されながら私たちの生はあるということになる。これは日本人が日本の風土において暮らし、生きているという考えに基づく。もちろん、海外に進出して暮らしを立てている御仁もいるから一概には言えないだろうが、概して、日本人は日本の風土においで暮らし、生きている。
言わば、風土は時と所の要素を有し、私たちの五感に触れ、意識無意識を問わず、私たちに影響を及ぼす。つまり、風土は単なる景色というのではなく、総体的風景を意味するものと考えればよいと言えようか。私たちはこの風土の刹那刹那の風景に抱かれ、導かれ、影響されつつ日々刻々を過ごしている。言葉を変えて言えば、私たちは日々刻々においてこの風景を感受し、心に掬い入れながら生きているということになる。
私がこの世に生きていられるのは、きっとこの日々刻々に接して止まないこの風土の風景が私を許容してくれるからだと思う。このことを日々連綿として見られ感じられる風景が意識されるとき、何か言い知れないありがたさのようなものが心の奥から湧いて来るのを感じるということが、慣れ親しんでいる日常にもあるということ。
この風景というのは、心身と結びつき、切りがないほどであるが、例えば、遠くで鳴いている蛙なんかでもその風景の一端にあって、私を感興に導くということがある。この感興こそ許容の証で、私を慰め、勇気づけてくれる。私たちは、こうして生きて来て、今ここにある。そして、こうした風土の風景において私などはこの風景への思い入れを、ありがたいことに、詩歌などに記しているのである。 写真はイメージで、掌。
灯火を掲げてやまず今日もまた許容の風景に立ちつつぞある 風景(けい)
掌は心花の後なる実桜に夏来たれるを触れてゐるなり 掌(て)、後(のち)
掌は我が感性の一端で許容の風景に触るる働き 風景(けい)、 掌(てのひら)