<2970> 作歌ノート 感と知の来歴 喩の仲間たち
思ふ身の心に沿ひて働きとならねばならぬ喩の仲間たち
我が感と知の来歴にして思うに、思い考えるということは、生本来のもので、私たちにとって生きる上に欠かせないことで、思い考えることなく生を全うすることはまず難しい。以前どこかで触れたと思うが、この思いや考えは言葉によっているところがある。物には名があり、例えば、山は「やま」、川は「かわ」である。つまり、言葉によって山や川は認識され、私たちの思いや考えの中で働きとなり、作用する。
英語圏では英語によって思い考えることをし、中国語圏では中国語に従って思い考え、日本語圏では日本語によって思い考えるということが概して行われる。岡倉天心の『茶の本』について、日本の文化を勉強するに「いい本だ」と言ったら、原文は英語で、私には日本語でしか読んでいないが、「原文で読むともっと素晴らしい」という御仁がいた。私には未だ比較して読んだことがないので、何とも言えないが、その御仁の言うことは理解不十分ながらわかる気がする。
要するに、岡倉天心には、日本語で書いて英語に翻訳されたものでなく、英語で書いて、日本語に翻訳されたもので、所謂、『茶の本』の主体は英語であり、英語によって表現しているわけである。つまり、『茶の本』は英語で読まなければ、天心の言いたい真の内容はわからない。ということで、御仁がいう原文重視の見解に理解が及ぶことになる。
これは、英語と日本語の違いの現われであるが、私たちの思い考えることに言葉を当てはめようとして、その思い考える内容にぴったり来る言葉がないということが間々起きる。このようなとき、私たちの知恵は譬えの言葉を用いる。この譬えによって思い考えることに言葉の上で近づけんとする。所謂、譬喩によるということ。譬も喩も「たとえ」という意である。
自分の思いを表現する短詩形の五七五七七の短歌に譬喩歌があるが、この三十一字の言葉の中に譬えの言葉が用いられている歌をいう。短歌初源の詞華集である『万葉集』にもこの譬喩歌は多く見られる。現代短歌にも譬喩の歌は多く、これはやはり短い詩形の中で、自分の思いや考えを表現しようとすることに起因していると見なせる。
しかし、万葉当時の譬喩歌と現代短歌における譬喩歌の事情には微妙な異なりが考えられる。万葉当時は語彙が少なく、自分の思いや考えを短歌に反映させて伝えようとするとき、それを表現する言葉がなく、譬えの言葉をもって一首をまとめた。その譬えに植物の名を用いているケースが多く見られるが、その植物の特質をもって自らの思いや考えを表現したのである。
これに対し、現代短歌における譬喩歌は万葉当時と異なり、言葉が豊富になるとともにその言葉に影響される思い考えることが複雑、輻輳するに及び、この条件下において、その短い言葉による短詩形の宿命として譬喩の言葉が用いられることになった。譬喩には直喩と暗喩があり、短歌初期の万葉時代は直接的で、わかりやすい直喩の譬喩歌だったが、現代短歌では、心の中の思いや考えが複雑になるとともに、語彙の豊かになった関係もあって、直喩だけではその思いや考えを短歌に表出しづらくなり、もっと複雑な直接的でない暗喩の方法を生み出すに至った。
このように短歌の内容が複雑になると、その短歌を鑑賞する読み手の側も、それなりの知識や教養をもって対処しなければならず、そこのところが、また、問われたりすることになったりして来た。しかし、思うのであるが、人間における感情や思いとしての喜怒哀楽や悲喜苦楽というような心の姿は昔も今もそれほど変わっているものではなかろうから、短歌で言えば、言葉を駆使して詠まれた譬喩歌においても、その思い考えるところの心模様は案外、身近に見られる感情と同じ感情、即ち、心持ちを言っているというごとくにも思えるところがある。
それにしても、短詩形の抒情歌の短歌に譬喩の譬え言葉が用いられていることは涙ぐましい感があり、私も作歌する立場にある身として、「喩の仲間たち」に思いを込め、ここに「喩の仲間たち」の我が短歌をあげてみた次第である。 写真はイメージで、ビワの花(左)と地球儀(右)。
貫かばよけれその意志その思ひ一枝に「うむ」の納得が欲し
手と手と手繋がれてゐる確かさとぎこちなさとの歩幅の姿
堰き止めし水位にあれば起き伏しの胸の嵩なる貯水のひかり
岸に立つ 思ひは波の間の千鳥 千鳥に感じ詩歌は生るる 詩歌(うた)
林には大人の秘事がにおひたつ行方不明の我が夢日記
内灘の凪の水面の輝きに船一つ見ゆ受胎を告げて
深海の魚に己なぞらへし海人明石の燈火の声
ゆく川の流れは何処 あこがれてゐる身もあるに水底の石
平和とは幻想なりや今日の今世界人口七十五億
開けゆく眺望確かな半歩の身登り一日の即ち歩み 一日(ひとひ)
春の日の川の流れのかがやきにカメラカバンを肩より提げて
行く船は眼に形を成し行くに描けぬ海の彼方の岸辺
家具店の奥へ奥へと導かれ恃むは一つ心の居場所
毀誉一日褒貶一日臘月の室に置かれし地球儀一つ 一日(ひとひ)
見んとして見えず見えざるゆゑなほも見んとするなり乏しき器
逆光にありて羽ばたくその瞬時詩魂のやうに冬の鶺鴒
底冷えの日に見し枇杷の花それは何に譬へるべくもなく意志
この冬も耐へて絶やさぬ命なる裸木立ちゐる意志のごとくに
雪雲が黄昏てゆく 詩はそして詩人の感性より生まれ出づ
鉄塔に西日が差してゐる眺めこのさびしさの理由は何か
あるは願ひあるは祈りを潤すか深き亀裂の地に降れる雨