大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年02月29日 | 写詩・写歌・写俳

<2971>  余聞 余話 「ヒタキの仲間の雌鳥たち」

    鳥たちの円らな眼可愛らしそは鳥たちの言はば持ち前

 山野に草木の花を求めて歩いていると、同属でよく似る花に出会い、ときに間違いそうになることがある。これは野鳥にも当てはめて言えることで、観察するとき注意が必要になる。例えば、ヒタキ科にジョウビタキ、ルリビタキ、コサメビタキ、オジロビタキ、キビタキなどがいて、奈良県の馬見丘陵公園にはこれらの仲間が訪れ、オスははっきり判別出来るが、メスは一見したところよく似るので間違う恐れがある。

         

 しかし、よく見ると、少しずつ相違し、観察に慣れて来ると、間違いなく判別出来るようになる。それではメスたちを写真で比較しつつ見てみたいと思う。まず、冬に姿を見せるジョウビタキ。全長13センチほどで、頭は淡褐色、翼は濃褐色に白い斑紋がある。次にこれも冬に姿を見せるルリビタキ。全長14センチほどで、仲間の中では比較的大きく、上面は緑褐色、体側面は淡黄褐色。

   三番目は夏鳥のコサメビタキ。全長13センチほどで、公園内で繁殖する。写真は子育て中のもので、痩せて見える。オスとメスの判別が難しく、写真はオスかも知れない。目の周囲に不明瞭な白いアイリング(斑紋)が見られ、黒い嘴がほかよりやや長い感じがある。四番目は冬のオジロビタキ。仲間の中では最も小さく全長12センチ。名の通り、尾の下面が白く、枝に止まってときおりその尾を立てる動きを見せる。最後は、夏に姿を見せるキビタキ。全長14センチほど、上面は褐色、腹部は褐色を帯びた白色で、オスの幼鳥に似る。十月末に撮影したもので、渡りの直前と思われる。

   ヒタキの仲間はあまり人を恐れず、飛び回らないので、スズメ大であるが、案外撮影しやすい野鳥である。白いアイリングがある円らな目が可愛らしく、印象的である。この円らな目は自らの内面を映しているのだろう。見ていて癒される。 写真はヒタキ科の仲間のメスたち。左からジョウビタキ、ルリビタキ、コサメビタキ、オジロビタキ、キビタキ(いずれも馬見丘陵公園)。


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2020年02月28日 | 創作

<2970> 作歌ノート 感と知の来歴  喩の仲間たち

      思ふ身の心に沿ひて働きとならねばならぬ喩の仲間たち

 我が感と知の来歴にして思うに、思い考えるということは、生本来のもので、私たちにとって生きる上に欠かせないことで、思い考えることなく生を全うすることはまず難しい。以前どこかで触れたと思うが、この思いや考えは言葉によっているところがある。物には名があり、例えば、山は「やま」、川は「かわ」である。つまり、言葉によって山や川は認識され、私たちの思いや考えの中で働きとなり、作用する。

 英語圏では英語によって思い考えることをし、中国語圏では中国語に従って思い考え、日本語圏では日本語によって思い考えるということが概して行われる。岡倉天心の『茶の本』について、日本の文化を勉強するに「いい本だ」と言ったら、原文は英語で、私には日本語でしか読んでいないが、「原文で読むともっと素晴らしい」という御仁がいた。私には未だ比較して読んだことがないので、何とも言えないが、その御仁の言うことは理解不十分ながらわかる気がする。

 要するに、岡倉天心には、日本語で書いて英語に翻訳されたものでなく、英語で書いて、日本語に翻訳されたもので、所謂、『茶の本』の主体は英語であり、英語によって表現しているわけである。つまり、『茶の本』は英語で読まなければ、天心の言いたい真の内容はわからない。ということで、御仁がいう原文重視の見解に理解が及ぶことになる。

                              

 これは、英語と日本語の違いの現われであるが、私たちの思い考えることに言葉を当てはめようとして、その思い考える内容にぴったり来る言葉がないということが間々起きる。このようなとき、私たちの知恵は譬えの言葉を用いる。この譬えによって思い考えることに言葉の上で近づけんとする。所謂、譬喩によるということ。譬も喩も「たとえ」という意である。

   自分の思いを表現する短詩形の五七五七七の短歌に譬喩歌があるが、この三十一字の言葉の中に譬えの言葉が用いられている歌をいう。短歌初源の詞華集である『万葉集』にもこの譬喩歌は多く見られる。現代短歌にも譬喩の歌は多く、これはやはり短い詩形の中で、自分の思いや考えを表現しようとすることに起因していると見なせる。

   しかし、万葉当時の譬喩歌と現代短歌における譬喩歌の事情には微妙な異なりが考えられる。万葉当時は語彙が少なく、自分の思いや考えを短歌に反映させて伝えようとするとき、それを表現する言葉がなく、譬えの言葉をもって一首をまとめた。その譬えに植物の名を用いているケースが多く見られるが、その植物の特質をもって自らの思いや考えを表現したのである。

   これに対し、現代短歌における譬喩歌は万葉当時と異なり、言葉が豊富になるとともにその言葉に影響される思い考えることが複雑、輻輳するに及び、この条件下において、その短い言葉による短詩形の宿命として譬喩の言葉が用いられることになった。譬喩には直喩と暗喩があり、短歌初期の万葉時代は直接的で、わかりやすい直喩の譬喩歌だったが、現代短歌では、心の中の思いや考えが複雑になるとともに、語彙の豊かになった関係もあって、直喩だけではその思いや考えを短歌に表出しづらくなり、もっと複雑な直接的でない暗喩の方法を生み出すに至った。

   このように短歌の内容が複雑になると、その短歌を鑑賞する読み手の側も、それなりの知識や教養をもって対処しなければならず、そこのところが、また、問われたりすることになったりして来た。しかし、思うのであるが、人間における感情や思いとしての喜怒哀楽や悲喜苦楽というような心の姿は昔も今もそれほど変わっているものではなかろうから、短歌で言えば、言葉を駆使して詠まれた譬喩歌においても、その思い考えるところの心模様は案外、身近に見られる感情と同じ感情、即ち、心持ちを言っているというごとくにも思えるところがある。

   それにしても、短詩形の抒情歌の短歌に譬喩の譬え言葉が用いられていることは涙ぐましい感があり、私も作歌する立場にある身として、「喩の仲間たち」に思いを込め、ここに「喩の仲間たち」の我が短歌をあげてみた次第である。   写真はイメージで、ビワの花(左)と地球儀(右)。

  貫かばよけれその意志その思ひ一枝に「うむ」の納得が欲し

  手と手と手繋がれてゐる確かさとぎこちなさとの歩幅の姿

  堰き止めし水位にあれば起き伏しの胸の嵩なる貯水のひかり

  岸に立つ 思ひは波の間の千鳥 千鳥に感じ詩歌は生るる                        詩歌(うた)

  林には大人の秘事がにおひたつ行方不明の我が夢日記

  内灘の凪の水面の輝きに船一つ見ゆ受胎を告げて

  深海の魚に己なぞらへし海人明石の燈火の声

  ゆく川の流れは何処 あこがれてゐる身もあるに水底の石

  平和とは幻想なりや今日の今世界人口七十五億

  開けゆく眺望確かな半歩の身登り一日の即ち歩み                  一日(ひとひ)

  春の日の川の流れのかがやきにカメラカバンを肩より提げて

  行く船は眼に形を成し行くに描けぬ海の彼方の岸辺

  家具店の奥へ奥へと導かれ恃むは一つ心の居場所

  毀誉一日褒貶一日臘月の室に置かれし地球儀一つ                     一日(ひとひ)

  見んとして見えず見えざるゆゑなほも見んとするなり乏しき器

  逆光にありて羽ばたくその瞬時詩魂のやうに冬の鶺鴒

  底冷えの日に見し枇杷の花それは何に譬へるべくもなく意志

  この冬も耐へて絶やさぬ命なる裸木立ちゐる意志のごとくに

  雪雲が黄昏てゆく 詩はそして詩人の感性より生まれ出づ

  鉄塔に西日が差してゐる眺めこのさびしさの理由は何か

  あるは願ひあるは祈りを潤すか深き亀裂の地に降れる雨


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2020年02月26日 | 植物

<2968>  大和の花 (1005) ハルジオン (春紫苑)                             キク科 ムカシヨモギ属

         

 北アメリカ原産の多年草で、大正年代に観賞用として渡来した帰化植物で、野生化して全国各地に広がり、今は雑草然として田畑の畦などで普通に見られる。茎は中空で、高さ30センチから1メートルほどに直立する。葉は根生葉と茎葉からなり、根生葉は長楕円形乃至はへら形で、翼を有する柄がある。茎葉は長楕円形から披針形で基部が耳状に張り出し、茎を抱いて互生する。

 花期は4月から7月ごろで、上部の枝先に頭状花序がつく。頭花は多数の舌状花が中央部に集まる筒状花を取り巻き、直径2センチから2.5センチで、上向きに平開する。花弁は淡紅色から白色まで変化があり、ツボミのときは垂れて下向きになり、花が開くと上向きになる特徴が見られる。冠毛は長く、実は痩果。

 ハルジオン(春紫苑)の名は春に咲くシオン(紫苑)の意で、植物学者牧野富太郎の命名と言われる。大和(奈良県)では各地で普通に見られるが、明日香の里方面に多い印象がある。この花の後に続いて夏から秋にかけてよく似た同属のヒメジョオン(姫女苑)が花を咲かせる。 写真は左から畦道脇で花を咲かせるハルジオン、上方から見た白花タイプの群落の花、淡紅色タイプの花のアップ、花を訪れたシジミチョウの仲間。  散策の歩速に春の眺めかな

<2969>  大和の花 (1006) ヒメジョオン (姫女苑)                            キク科 ムカシヨモギ属

                       

 北アメリカ原産の1、2年草で、明治時代のはじめごろ渡来し、野生化して日本全土に広がり、その旺盛さは平地だけでなく、標高の高い山岳にも及んでいるという。白い髄が詰まった茎は直立し、高さが30センチから1.3メートルほどになる。葉は根生葉と茎葉からなり、根生葉は花のころには枯れてなくなる。茎葉は下部で長い柄を有する卵形で、縁に鋸歯が見られ、上部では披針形になって先が尖り、互生する。

 花期はハルジオンより少し遅く、6月から10月ごろで、上部の枝先に頭花をつける。花は直径2センチほどで、周囲に白色の舌状花を多数つけ、中央部に黄色の筒状花をこれも多数集め、上向きに開く。冠毛は舌状花で短く、筒状花で長い。実は痩果。渡来当時はヤナギバヒメギク(柳葉姫菊)と呼ばれ、珍重されたようであるが、今は雑草として扱われている。なお、北アメリカでは利尿薬に用いるという。

 写真は田の傍の草地に群生し花を咲かせるヒメジョオン(左)と花のアップ(右)。 春の虹我にもありし青春期


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2020年02月25日 | 写詩・写歌・写俳

<2967> 余聞 余話  「ヤマザクラのウメノキゴケ」

     衰へは齢において現はるる五体のまづは脚腰に見え

   西吉野からの帰り、下市町才谷経由で吉野山に回り、まだ、花には早い山域を歩いたのであったが、一つ気になる風景に出会った。上千本の辺り視野に雪が積もったようなヤマザクラの木々が広がりを見せていた。よく見るとウメノキゴケの繁茂によるもので、木々の罹患現象ではなく、老木化による樹勢の衰えを示すものとして知られる。

                   

   寿命は生物の宿命で、人間でも平均寿命が言われるように、ヤマザクラでは普通百二、三十年とされる。つまり、樹木も同じく、いつまでも元気でいられることはなく、いつかは衰え、遂には枯死する。幹や枝にウメノキゴケが生じるということは幹や枝に成長の勢いがなくなることを示すもので、この現象が高じれば、衰えがなお進み、枯死にも至ることになる。

   だからこのヤマザクラが白くなるウメノキゴケによる現象は病気ではなく、樹勢の衰えの指標になるもので、こうした木では枝の先から朽ち枯れて行くことになり、葉や花にも影響を及ぼす。その衰えによって樹木は病気にも罹りやすくなるという。白くなった木々を見ると、細い枝が失われ、全体に武骨な印象を受ける。これは枝の先まで栄養が行き届かない現われで、樹齢とともにこの現象は酷くなることが思われて来る。

                                      

   この現象は私たちの五体に比しても言えるもので、体力の衰えは命そのものにも影響して来る。現在、大騒ぎしている新型コロナウイルスによる肺炎の脅威について、これに感染し陽性になったものでも高齢者ほど重症になりやすく、死亡率が高くなるという報告がある。

   これは樹勢の衰えから来る病気に等しく、高齢者にはその心構えが必要で、この雪が積もったように見えるウメノキゴケの繁茂によるヤマザクラの風景は、私たちの現在直面している新型コロナウイルスに脅かされている社会にも当てはめて考えられる。

   写真上段は白くなったヤマザクラの木々が目立つ吉野山上千本辺りの二景。下段は白くなったヤマザクラの枝木(左)、枯れ始めている太い枝(中)、ヤマザクラの幹を被うウメノキゴケ(右)。


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2020年02月24日 | 写詩・写歌・写俳

<2966>  余聞 余話  「西吉野のフクジュソウ」

    福寿草晴れやかに咲き迎へらる

 フクジュソウの自生地で知られる五條市西吉野町津越を訪ね、遊歩道のある自生地を歩いた。快晴の日で、暖かな日差しの中、フクジュソウは畑の畦などそこここに艶のある黄色の花を咲かせ、迎えてくれた。

                          

   今年は暖冬の影響か、花が早いような気がする。それにしても、冬を凌いで咲き出す明るい花の印象に変わりない。令和の新時代に入ってまだ一年に満たないが、世の中ではいろいろな出来事がある。中でも中国が感染源の肺炎を引き起こす新型コロナウイルスの猛威が世界に広がり、日本にも及んで、今まさに騒然となっている。

 このウイルスの猛威は歴史に残るほどの騒動であるが、明るく暖かな日差しを受けて咲くフクジュソウの明るい花には、そんな騒がしさなど関りのない別世界を思わせ、印象的に見えた。 写真は畦の一隅で咲き盛るフクジュソウ(西吉野の里)。