大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年02月20日 | 祭り

<171> おんだ祭り (御田植祭) (7)
         お田植ゑの 祭りの牛の 所作に見え上がる笑ひに 春が兆せり
  おんだ祭り(御田植祭)には儀式の所作に牛の登場を見るが、今回はこの牛という動物に少し触れてみたいと思う。おんだ祭り(御田植祭)に牛がつきものなのは、牛が役牛として田植えの農耕に欠かせない労働力だったからである。トラックターとかコンバインといった機械が普及した今日では田畑で役牛の働きを見ることはないが、私が子供の時分、昭和二十年代ころまでは見られた。
  鏡作神社の祭りでは茶色の牛が登場するが、昔は役牛にときおりこの茶色い牛が見られた。今や牛と言えば、黒か白黒で、茶色い牛はイメージ出来ず、子供たちには不思議かも知れない。言ってみれば、この茶色い牛は懐かしい牛であるが、田畑で働く役牛も今や思い出の中にある牛ということが出来る

  ライオンは肉食動物であり、人間は雑食動物で、牛は草食動物である。肉食系は敏捷にして凶暴なところがあり、雑食系はその言葉が示すとおり、何でも食べる貪欲さを秘めていると言える。これに対し、草食系は食べることに敏捷且つ凶暴である必要がなく、貪欲でもなくいられる穏やかで、やさしい性質を有するものが多い。殊に牛は典型的な草食で、植物の葉や茎のみを食し、根までは掘り起こして食べることをしない。つまり、牛は殺生をすることなく食生活をなすことが出来るようになっている奇特な動物である。これは牛の天分で、ほかの生きものの命を奪うことなく生きて行ける。牛が聖なる動物として見られるのもこの点にある。
  牛はその歴史を遡るに、古代エジプトの壁画に登場し、我が国では弥生時代の登呂遺跡から牛の骨が出土するなどその昔から人間と親しく関わりのあることがうかがえる動物であって、それは伴侶の動物、家畜であったと考えることが出来る。稲作中心の農耕文化を培って来たインドをはじめとする東洋で牛を大切にして来たのは、農耕の労働力として役立って来たからにほかならない。
                                               
  稲作中心の農耕が盛んな東洋の牛に対して、牛の肉を主に食べ、そのための牧畜が盛んな西洋の牛とでは牛に対する考え方に根本的な違いがある。それに、牛の草食動物としてのやさしさに東洋の人々は聖なるものを見出したことが加わる。これは実利の西洋的合理主義と牛の魂までも見て取る東洋的精神主義の違いであると言ってよく、牛におけるインドはこうした東洋の究極的土地柄で、今も牛を聖なる特別な動物として扱っているところがある。
  また、東洋で言うならば、禅の世界に「十牛図」なる教えがある。これはよく知られるが、中国の宋の時代のものが有名で、牧童が牛を探し求め、牛に出会い、その牛を獲得して一緒に暮らした後、牛を失い、牧童もいなくなって、自然の風景に戻るという一連十枚の絵をもって悟りを示したものと言われる。悟りの世界は深く、一概には語れないが、この「十牛図」には生の縁(えにし)と自然の成り行きが見て取れるように思われる。
  ここで、なぜ牛なのかということが問われるが、これは東洋において牛が役牛として稲作による農耕文化の一端に深く関わっていたからではないかということが思われる。つまり、東洋では、牛という動物は宗教や哲学にも現れているわけで、単なる食用の利に供する西洋の牛と違って、人間と深く関わって来たことを示すのである。
  我が国における牛は今や乳牛も含め、肉牛中心の食用に供する牛であって、使役される役牛は全く見られなくなった。これは明治時代以降の流れによる西洋文明の導入にともなうもので、西洋文明の進展と軌を一にする。そして、その傾向は一辺倒に向かき、戦後の昭和三十年代ごろを境に以後はトラックターに変わり、今に至っているのである。
  私の子供のころ、昭和二十年代の農家には牛小屋があって役牛としての牛が飼われていた。そんな家の多かった中で、母屋の土間の一角に牛の小屋がある家もあり、同じ屋根の下で人と寝起きする家族同然の牛も見られた。しかし、今、牛と言えば、乳牛か肉牛で、食用対象の牛であって、役牛は見なくなった。これは、時代の流れと言えばそのとおりであるが、この牛の変容は私たちの精神上の変容にも影響している。で、おんだ祭り(御田植祭)の牛の所作などに触れると、単なる郷愁だけでなく、祭り自体が持つ精神的なところも大いに考えさせられるのである。
  3・11の大震災後、西洋文明に突っ走って物質的な豊かさを得て来た我が国が半面において失ったもののあることに多少は気づき、「絆」というような言葉も耳にするようになったが、牛という動物に対する西洋と東洋の違いでもわかるように、ここに至って、実利に基づく西洋の合理主義ばかりが正しいとは言えないということが語られるようになり、論議もされるようになって来た。で、岐路に立つと言われる今の我が国(私たち)には、この稲作による農耕文化の一端として細々ながら引き継がれ遺されているおんだ祭り(御田植祭)の牛の所作にも考えさせられるものがあるように思われる次第である。
  写真は左から飛鳥坐神社の牛男、大神神社の木の牛、大和神社の一人牛、六縣神社の牛を演技する所作役、鏡作神社の二人牛。