<3633> 作歌ノート 2021年近作短歌三十五首
生の身はこの世を映しゐたるなり日々にありある水面のやうに
生きてこの世に存在している私たちは、如何ようにあっても、その生はこの世をその身の心身に映して生きている。それは年齢、性別、人種、国家、階級、職業、貧富、強弱、思想、環境等の違いに関わらず、全ての生きる身に等しく、共通して言える。この世に生を得、この世に接し、この世を映して、つまり、私たちは生きている。
この生の様相はそれぞれさまざまで、そこのところも理解されなければならないが、この世を映すという点において言えば、みな等しいということになる、言い換えれば、今の世(現代)に生きている存在者は決して今の世(現代)から抜け出すことは出来ないということであり、私たちはそうした一種の宿命的な存在として生きているということになる。
そして、映すのは心身ということで、映る諸相は心理や心情に反映し、表情や行動に現われることになる。で、映るという意味で言えば、心身を水面に譬えることが出来る。穏やかな水面では映る景色も穏やかであるが、水面が乱れていれば、映る景色も乱れる。それは心理の表情に等しく、「楽は虚に出ず」の言葉が思い起こされる。
この世を映す生きる身にとって、水面に乱れが生じないこと、即ち、「楽は虚に出ず」の虚を保つことが最善で、これが大切に思えて来る。詩歌の要諦などもこの水面の真理に関わっている。思うところ以上。では、以下に2021年近作短歌三十五首。 写真は池の水面に映る景色。穏やかな水面の一景。
生きる身は現実といふ義務を負ふ未来といへる権利を有し
生きものはみな環境に順応し生きゐる言はばウイルスもまた
命題の確たる証うちに秘め立ち枯れてゐる向日葵の花
露草の露草色の露の意味朝な朝なの露のひととき
彼岸花燃える兆しに角ぐめるその勢ひへ母系の大地
悩み持てあるものたちよみな生きてゐるものたちよつまり生とは
「不束に生きて来ました」この身とはとほとほとほとなほもあるべく
我は我の人生を生き来たりしがなほ幾ばくか思ひの旅路
抜け出せぬ生の領域鮒は鮒を生きゐるあるは翼を夢見
薔薇狂になれぬまま来て冬に入る隣家の庭の主が形見
自転車は二輪車二つの脚で漕ぐ漕がねばならぬ自虐のやうに
感性の衰微確かなる齢とはいへど聞く夕暮の鐘
もみぢ葉は紅にしてありながら思ひの丈の夕景に顕つ
如何なるも結果に終はり結果より始まるならひ日々相の生
敗戦に終はりし日本そしてその敗戦よりの戦後の日本
人生は日々の結果の積み重ねみなその日々にありて生きゐる
生きるとはまづは息づき喰らふこと人間は人間の範疇の日々
如何やうに飛ぶもよからむ与かれる翼の特権有するその身
みな等しみな働いてゐるそして働きゐたるゆゑの身の上
二〇二一年の春突き抜けて宇宙の果てへ立花隆
人間が人間の世を汚濁する宇宙旅行に学ぶこととは
大きさか小ささか何宇宙への旅人たちの学びしものは
風景に多少の違ひはあるとして小さき命の日月の灯
安心に勝るものなき日々相の日々の心身齢とともに
誰もみな時を費やし生きてゐるつまり時間軸にある生
不束に生きて来し身に歌があるいろはにほへとのいろはに沿ひて
みなすべて無限の未来に有限の時を費やしながらの旅路
旅の身は何かを残す身ならむに濃淡多少のあるは足跡
生きてゐることの同等さりながら格差のこの世理不尽も見え
あくせくはこの世の言はば常なるにまづ取り合へずお茶など如何
ニヒリズム許さざる世の反作用かも知れぬ放火極悪事件
見えて見えざるもの或るは世の相のその一端の悪弊なども
許容なきすがたの深化現代の許し許されざるその諸相
先々が朧で見えぬ論客の果たして楽観悲観論争
枯れゆくも命のすがた実を掲げゐるよ冬日に温めながら