<1432> 紅(黄)葉と落葉
紅葉の 日差しに映ゆる美しさ
戦闘が止めどもなく続いている中東の辺りの風景をテレビの映像でみていると、戦闘の背景に広がるその風景に潤いがなく、荒んでいるのがうかがい知れる。こうい中東の戦闘に関わる風景を見ていると、何だかんだと言って、基を質せば、この荒んだ風景、即ち、人が暮らしてゆくに苛酷な環境に左右されていることが思われて来る。そして、水が豊富で、草木(植物)に恵まれた自然環境の下にある日本という国がいかに地球上の好位置にあり、私たちが暮らしてゆくに恵まれているかが思われる。
日本は自然災害の多い国で、よくその被害に直面するが、これが日々におけるわけではなく、それ以上に自然からの恩恵を受け、暮らしてゆけるというありがたさが日本にはある。この環境下に私たちの精神や文化は培われ、伝統的に引き継がれて今に至っている。言わば、私たちの暮らしの根本にはこの自然環境が大きく影響していることが言える。これは、何処の国にも言えることで、国の個性にもなっている。
日本における自然環境の点で言えば、何と言っても、四季の廻りがある。野や山の草木にその移ろいがよく現れると言えるが、四季の春夏秋冬の中で春と秋に私たちの感性はよくその四季の変化を汲み、精神の糧にして来たところがある。
春は作物を植える時期であり、芽生えの新緑がある。これに対し、秋は収穫の時期であり、紅(黄)葉し、落葉して行く彩りが見られる。私たちを取り巻く自然環境の中で、紅(黄)葉し、落葉する落葉樹の存在は実に大きい。これは温帯の特徴で、日本はほぼ温帯に属しているのでこの落葉樹の変化を味わえる。このありがたさを中東の戦闘地域に見る風景に比してみると、やはり、生きてゆくものにとって環境というのは最も大切なことであることが言える。
落葉は単に草木が葉を落とし散らすというだけではない。落葉樹は葉を落とすことによって辺りを明るくし、地面に陽が差し込むようになる。自然林を歩けば自ずとわかるが、夏と冬とでは様相が一変する。四季はこうして廻り、私たち生きとし生けるものをその一年のサイクルの中に置く。そして、私たちは廻りの季節を更新しながら暮らしてゆくのである。
紅(黄)葉や落葉の秋になり、その姿に接すると、その風景に立ち止まってその雰囲気に浸ることが出来る。そんな中に、前述したごとく作物が含まれ、それは、暮らしてゆくに欠かせない収穫に繋がるわけで、そこには恵みの豊穣がある。その豊穣は四季によってもたらされて来たもので、私たちの精神にも及んでいるという次第である。
四季に則る俳句の意味などもこの辺りから考えるのがよかろう。この四季の自然の趣を主に捉える俳句は、いわゆる、日本的な発想によるまことにありがたい一面を持つ詩形であると言ってよい。 今回は、紅(黄)葉と落葉に触発され、環境の大切なことに触れてみた。それでは、今一句を。 落葉ひとつひとつに冬の日差しかな 写真は紅葉のナンキンハゼ(左)と黄葉のクロモジ(中)、山道に敷きつめられた色々な落葉(右)。