スーパーロボット大戦.マクロス二次創作ブログOR日本史教官.長田義家。

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屈辱に耐えながらも日本の航空業界に貢献した空の侍 徳川好敏

2017-07-03 13:19:54 | 世界日本史偉人伝
徳川好敏
【生没】
1884年ー1963年
【学歴】
高等師範学校附属小学校
陸軍地方幼年学校
東京高等師範学校附属中学校
陸軍士官学校(第15期)
アンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校(留学)
【軍歴】
【役割】
・陸軍飛行学校教官
・飛行第一連隊長
・航空兵団長
・航空兵団司令官
【階級】
陸軍中将
【家族】
徳川篤守(父親)
徳川登代子(母親)
吉井貞子(妹 吉井信照夫人)
森保子(妹 森明夫人)
徳川守(弟)
川上明(弟)
小原鈴子(妹 小原十三司夫人)
松尾光(弟)
徳川重子(妹 坪田修吉夫人)
山田雄(弟)
徳川豪英(長男 妻.和嘉子)
徳川輝尚(次男 妻.早知子)
徳川美枝子(長女 早世)  
徳川佐枝子(次女 土屋義弥の妻)
徳川久美子(三女 古月晴の妻)
徳川華子 (四女 高木恭治の妻)
徳川富美子(五女 
徳川慶篤(祖父.水戸藩主)
水谷清子(祖母.慶篤側室)
徳川篤敬(叔父.水戸家当主.イタリア特命全権公使)
徳川圀順(従兄弟.水戸家当主.陸軍少尉.団法人水府明徳会.初代会長)
徳川宗敬(従兄弟.一橋家当主.陸軍少尉.参議院議員)
徳川敬子(松浦陞.妻)
森有正(甥.保子と森明の息子)
【追記】
清水徳川家当主
【解説】
名家出身の若君
徳川篤守と登代子の長男として東京府高田馬場(現在の東京都)で生まれる。
祖父は水戸藩主徳川慶篤で実家の清水徳川家は御三家と並ぶ御三卿と言われる名門中の名門。
江戸の世であったら征夷大将軍の地位につけるかもしれないほどの名家でり父篤守は養子として家に入って当主になっていた。
好敏は小柄ながら強靭な体で運動能力に優れ、剣道は柳生新影流.水泳は向井流を極め。
学力面では理数系、技術系の学科が得意であり、後の飛行機乗りとしての技術に生かされる事になる。
屈辱と批難を浴びながらも軍人へ
好敏は優秀であるのである、皇族・華族の子供が大勢通う陸軍幼年学校に入学する。
ところが・・・・入学して間もなく家の経済的な問題で父篤守は爵位を返上する事件が起きる。
理由は父篤守が家政の経済的な行き詰まりのために融資を受けるが裁判沙汰になり敗訴したためであり。
仕方がなく爵位を返上するが・・・・・最終的に禁固刑になってしまう。
この事件が原因で、徳川一門で大問題になり好敏は批難を浴びる屈辱を味わう事になる。
その後、屈辱や批難に耐えながらも工兵科を進み 東京高等師範学校附属中学校を卒業し翌年に日露戦争が勃発し1年短縮で主席として卒業。
卒業後、日露戦争で第1軍参謀部情報将校として従軍.満州の馬賊をスパイとして育てる諜報活動の責任者となった。
航空機との出会い
その頃、航空機が発明され好敏は好敏は陸軍大尉日野熊蔵と共にフランス・ドイツでの飛行術の習得と飛行機購入の任務を与えて出張を命じられた。
好敏はフランスにわたり、パリの北方約50kmの小さな町・エタンブのファルマンの飛行学校に入学する。
陸軍士官学校で主席を取る程頭の良い好敏はオートバイを買っては毎朝学校に一番乗りしては真っ先に同乗飛行しては技術をどんどん覚え。
そして飛行機操縦免許を取得しファルマン式複葉機などを大金払って帰国する。
初飛行へ
帰国してまもなく日野と共に臨時軍用気球研究会主催のテストフライトを代々木練兵場(現在の代々木公園)を10万人の民衆が見ている中で行われた。
ところが・・・・日野大尉のグラーデ機が飛行準備態勢の際に発動機(エンジン)トラブルが発生し動かない事態が起こる。
臨時軍用気球研究会は好敏のファルマン式複葉機に離陸の許可を出す。
好敏のファルマン式複葉機にもトラブルが発生し硫酸式電池の電気に切り替える。
もしひっくり返したら硫酸を全身に浴びる事になり一生消えない傷を浴びる危険性があった。
それでも無事にフライトに成功、3分間.飛行距離3000m.滑走距離30m.高度70m.着陸距離20mと日本で初めての飛行記録を残す事に成功する。
好敏の初飛行成功は12月19日、日本初飛行の日として記録され清水徳川家は名誉回復する第1歩を築く事になった。
一方日野大尉は没落し山階宮武彦王の飛行機見学をエンジン整備で出迎えを忘れるなど協調性に欠ける行為が目立ち軍に疎まれ。
部下の失敗により軍人を辞め、民間で生活をするも病気もあり生活が困窮。
昭和20年の東京大空襲ですべてを失い、翌年栄養失調で病死する。
それも知らずが好敏は軍の航空機畑の看板として順調に引き立てられ、滋野清武らを排除し順調に出世していく事になった。
多くの日本人は知らない好敏の功績
好敏は独学と職人芸で名機を作ったり多くのパイロットを育て伊藤音次郎に飛行機を飛ぶコツとして。

離陸滑走して地面から離れたら、いっぺんに高所に登ろうとせず、空気の中に階段があると思って、一段登ったら水平にして力を貯え、一段一段と登っていくことだ

と教えたり・・・・
部下で当時陸軍軍曹で航空業界に功績を残す白戸栄之助に自作で航空機を造ったり日本初の民間飛行場を造るなどの功績を残すことになる奈良原三次を紹介して従事させるなど。

空気の階段を登るように登れ

と言う言葉は後の日本名パイロット達の合言葉になる程。
多くのパイロット達の心に刻み込んでいた。
第1次世界大戦と飛行中隊長
欧州で初めて全て根こそぎ動員の総力戦争第1次世界大戦が勃発する。
日本は日英同盟を理由にドイツ帝国に宣戦布告.中国に上陸し青島要塞を攻撃した。
好敏は気球連隊に属しておりモーリス・フールマン式飛行機からなる飛行班を指揮した。
詳細な要塞地図を軍司令部に報告したが参謀たちは航空に無知なためか信用しない。
かえって・・・航空写真の必要だと感じていた好敏は開発に情熱に燃える事になる。
ドイツ降伏後、日本陸軍最初の航空部隊が創設され初代飛行中隊長に主任する。
その後、所沢飛行機学校、陸軍航空学校教官、研究部長を歴任し陸軍航空部隊を育成。
そればかりではなく民間航空業界の発展に取り組むようになる。
名誉回復と戦後・・・そして晩年
昭和3年日本帝国政府より航空業界の功績に対し男爵の位を受け賜る。
華族復帰であり、好敏は喜び既に亡くなっていた父の墓前に報告している。
日本国内だけではなく世界からもバロン徳川.日本航空界の開祖とかつての批難が嘘みたいに人気者になる。
航空兵団司令部の兵団長になり事実上のに日本空軍の頂点になる。
陸軍中将として予備役になるが再び招集、終戦まで陸軍航空士官学校長として勤務。
昭和15年に勲一等旭日大綬章を受賞する。
戦後公職追放になってしまう。
昭和38年、78年の生涯を終えるが・・・・・・・・

その3年前。
第2次世界大戦で敵として戦ったアメリカ空軍(当時はアメリカ陸軍航空軍)から日米修好100年.日本航空50年を記念して招待状が贈られた。
75歳の老体を推して米国・ヨーロッパなどの世界旅行の旅に飛び立つ。
ライト兄弟から直接操縦を教わった事のある米国最年長のパイロット、ベンジャミン・フロア少将が終始付き添って案内される。


日本初飛行と言うけれども・・・
既に大日本帝国陸軍には気球連隊が存在しており、歴史は西南戦争に開発され。
好敏が情報将校として従軍していた日露戦争では旅順攻囲戦に投入され、戦況偵察に活躍していた。
ただ好敏は航空機専門なので別物とみてもいい。

自分の言葉
好敏は長い間死亡事故や大事故を起こさなかった名パイロットであるが、これは周到な準備と繊細な整備点検故であった。
なんたって100時間飛行機が飛ぶとエンジンを分解しエンジンの消耗度を測定し詳しく調査研究する程であるから。
航空への情熱.技術に優れるなど、誉め言葉なのか分からないが航空馬鹿と言っていいほどの飛行機好きであり情熱家です。

好敏は日本人ではあんまり知られていなかった人物ですが。
現在の日本航空業界の大きな源を造った偉大な偉人だと私は思います。
ぜひとも多くの人々に知ってもらいたいです。
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