スーパーロボット大戦.マクロス二次創作ブログOR日本史教官.長田義家。

マクロスやロボット大好きなブログです。二次創作などを主にやります。最近の政治的問題や最近の出来事も更新します。

岡部正綱

2017-10-17 16:28:01 | 戦国武将図鑑
岡部正綱
【諱】
正綱
【苗字】
岡部
【朝臣】
藤原
【生没】
1542年ー1584年
【通称】
次郎右衛門尉
【父親】
岡部久綱
【母親】
不明
【兄弟】
岡部長秋
岡部元信
【子息】
岡部長盛
岡部昌綱
【解説】
今川家家臣岡部久綱の子として生まれる。
少年期の正綱は人質であった徳川家康と仲がよく、北条氏規と並ぶ幼馴染の関係であり。
岡部家も徳川家康が何不自由に過ごさないように支えるなど、好意的な関係であった。
1557年に初陣で首二つを討ち取り、1560年に今川義元が討ち取られた後。
武田信玄が今川に進攻すると頑強に抵抗し、今川家滅亡後その忠節と武勇を認められ武田家の家臣になる。

兄弟である元信と共に武田家の家臣として三方ヶ原の戦いなどの主な戦いに参戦するが。
信玄亡き後、長篠の戦い以後武田家は衰退し高天神城の戦いで元信を失うなどの敗色の濃い状況に追い込まれる。
その後徳川家康に降り家臣になり、本能寺の変で空白地帯になった甲斐国の武田旧臣の調略を行い。
平岩親吉と同格な扱いで甲斐国の支配に当たった。

しかし

戦での負傷と武田旧臣を調略する際の酒宴が原因による急性アルコール中毒により死去する。
これらの功績で孫宣勝に岸和田藩6万石が与えられる。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

武田義統

2017-10-16 23:45:37 | 戦国武将図鑑
武田義統
【諱】
義統
【苗字】
武田
【朝臣】

【生没】
1526年ー1567年
【父親】
武田義豊
【母親】
六角定頼の娘
【兄弟】
武田信方
武田信由
武田信景
【正室】
足利義晴の娘
【子息】
武田元明
【解説】
若狭武田家当主武田義豊の嫡男として生まれる、初名は信統。
将軍足利義晴の娘を正室に向かえる。
弟武田信方を擁立する粟屋勝久や武田義由を擁立する父信豊と対立し逸見昌経が叛乱を起こすなど自力で対処できなくなってしまった。
このため隣国越前の大名朝倉義景の援軍を求めたため若狭における朝倉の影響下が強まった。
妻の兄妹である13代将軍足利義輝が暗殺されると、その弟義昭が訪れた。
出兵したいが内乱のため断念。
翌年、42歳の若さで亡くなる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

織田信広

2017-10-15 21:24:16 | 戦国武将図鑑
織田信広
【諱】
信広
【苗字】
織田
【朝臣】

【生没】
不明ー1574年
【父親】
織田信秀
【母親】
不明
【兄弟】
織田信長
織田信行
織田信治
織田信時
織田信与
織田信照
織田長益
織田信包
織田秀孝
織田秀成
織田長利
お市の方(浅井長政室)
お犬の方(細川昭元室)
犬山殿(織田信清室)
乃夫殿(津田元秀室)
くらの方(大橋重長室)
遠山直廉室
丹羽氏勝室
津田出雲守室
斎藤道三(秀龍)室(側室)
おとくの方(牧長清室)
小田井殿(織田信直室)
稲葉貞通室
飯尾尚清室
小幡殿(織田信成室)
【子息】
深光院(丹羽長秀室)
織田信興
【解説】
織田信秀の長男として生まれるが、正室の子である織田信長らが産まれたため相続権を失う。
信長が尾張のうつけと呼ばれていた頃には父信秀の元で軍事を指揮しており。
小豆坂の戦いで先鋒として出陣するが、今川軍先鋒である松平軍と交戦し敗退。
本隊が岡部長教の伏兵で総崩れになり、撤退。
父から安祥城の防衛任務を任せられ、そのまま尾張へ帰還した。
今川軍配下の太原雪斎の2万人の軍勢に攻められる。
一度は本多忠高を討ち取るなど撃退するが、再度の攻撃を受け取られられてしまう。
この結果、当時松平竹千代こと徳川家康との捕虜交換交渉に使われる道具になる。
織田家は三河での織田勢力を大きく後退させる事になる。
信広は美濃斎藤義龍と手を組み謀反を企む。
斎藤軍が出撃し、信広は留守役の佐脇藤右衛門の守る清州城に入る。
これはいつもの事であるが、信広はこれを利用し乗っ取ろうと企んでいた。
しかし、信長にばれ佐脇に入城を断られ失敗する。
その後も何度かやり合うが、降伏する。

信広は懲りたのかそのまま何事もなく仕え、織田一門のまとめ役として弟信長を支えた。
案外駄目さ加減のある信広だが、京都守備したり公家とのパイプを持ったり。
不和になった信長と将軍足利義昭の和議を纏めるなど、政治家としての能力を発揮していた。
長島一向一揆攻めに参加し信長の命で降伏した願証寺顕忍や下間頼旦を射殺する。
それに激怒した一揆勢の猛攻を受け大木兼能と一騎討ちの末討ち死にした。
なお大木兼能は生き延び佐々成政に仕え、子孫は徳川光圀の家臣佐々宗淳を出している。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

朝倉政元

2017-10-14 19:43:50 | 戦国武将図鑑
朝倉政元
【諱】
政元
【苗字】
朝倉
【朝臣】
日下部
【生没】
1546年ー1629年
【父親】
朝倉政景
【母親】
不明
【兄弟】
近藤綱秀室
【正室】
不明
【子息】
朝倉政明
【解説】
朝倉孝景の次男政景の子。
本家の朝倉義景が自害し滅亡すると北条氏政に仕えた。
北条氏が小田原征伐で滅亡し、豊臣秀次に仕える。
しかし、結局秀次は自害され浪人する羽目になる。
徳川家康に見出され徳川頼宣の家臣になり、その後末子の徳川頼房に仕えた。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

徳川頼房

2017-10-14 13:49:56 | 戦国武将図鑑
徳川頼房
【諱】
頼房
【苗字】
徳川
【朝臣】

【生没】
1603年ー1661年
【父親】
徳川家康
【母親】

【養母】

【兄弟】
徳川信康
結城秀康
徳川秀忠
松平忠吉
武田信吉
松平忠輝
松平松千代
平岩仙千代
徳川義直
徳川頼宣
亀姫(奥平信昌室)
督姫(池田輝政室)
振姫(浅野長晟室)
松姫
市姫
【正室】
なし(側室はいた)
【子息】
松平頼重(高松藩主)
松平亀丸(早世)
徳川光圀(水戸藩主)
松平頼元(額田藩主)
松平頼隆(保内藩主)
松平頼利
松平頼雄(宍戸藩主)
松平頼泰
松平頼以
松平房時
鈴木重義(雑賀鈴木一族養子)
大久保公忠(落胤)
通子(松殿道昭室)
万(太田資正室)
棄(早世)
大姫(前田光高室)
小良(英勝寺住職)
菊(松平康兼室)
千(真木景信室)
利津(山野辺義堅室)
松(早世?)

梅(宇都宮隆綱室)
布里(本多政利室)
犬(細川綱利室)
市(酒井忠治室)
那阿(伊藤友次室)
【解説】
徳川家康の末子として伏見城で生まれる。
兄松平頼将(後の徳川頼宣)が駿河へ転封すると水戸25万石を与えられる。
ただし年少のため代官を派遣し家康の元で育てられる。
しかし後の御三家を創設する兄徳川義直と頼宣よりも半分以上少ない。
その理由は徳川家康が天守閣から飛び降りて無事にいられたら欲しい物をやると言われた時に・・・
天下が欲しい、その後どうなろうと飛び降りて地面に着くまでの間天下人としていられれば武士として最高の名誉
と発言し、既に兄秀忠が2代目将軍との事があり将来謀反を起こす危険性を危惧したためと言われている。
大坂の陣では、駿府城の防衛任務にあたる。
17歳で初めて水戸に就藩するが、青年期は甥徳川家光の学友として置かれたらしい。
そして若い頃の頼房は異様な服装と行儀や節度のない振る舞いが多く、後に2代目水戸藩主になる徳川光圀にも引き継がれる事になる。
家光の上洛に従うが、前田利常・伊達政宗・島津忠恒らが正3位権中納言になった事を不満に持ち。
頼房はその翌年に正3位権中納言となり、同家は以後3位権中納言の官位が与えられる事になる。
水戸藩に就藩し水戸上の修復や城下の造営などの内政に力を入れる。
ただ、兄秀忠がなくなり家光が親政になると就藩が途切れ殆ど戻らない状態が続く。
家光も頼房を信頼しており、兄弟よりも頼りになると言っている。
この頃の家光は弟忠長は改易され高崎に幽閉(後に自害)保科正之は高遠藩にいたた。
そして御三家の義直と頼宣は謀反の疑いがあり、信頼できず。
江戸にずっといてくれる頼房は頼りになる身内であり、後に天下の副将軍と称する由縁となった。
1661年に就藩中に死去。

【初代水戸黄門】
現在BS-TBSで放送中の武田鉄也さん出演の水戸黄門こと徳川光圀の父である事で知られている。
しかし、光圀の父であって水戸黄門の父ではない。





頼房が初代水戸黄門であり。



光圀は2代目水戸黄門である。
黄門とは権中納言の事である、頼房の他にも・・・・・







光圀の養子綱篠(ただし時代劇.徳川吉宗を主人公とする暴れん坊将軍では水戸黄門になっている。)を始めとする5人の水戸徳川家当主らが権中納言の位があるので7人水戸黄門がいた事になる。

【子孫】
徳川慶喜(江戸幕府最後の将軍)
松平容保(会津藩主)
徳川慶勝(尾張藩主)
徳川茂徳(一橋徳川家当主)
松平定敬(桑名藩主)
松平容大(大日本帝国陸軍騎兵大尉)
松平恆雄(外交官)
徳川康久(靖国神社宮司.日本会議所属)
松平一郎(日本銀行会長)
山田英夫(大日本帝国陸軍中佐)
松平健雄(伊佐須美神社宮司)
松平保男(大日本帝国海軍少将)
徳川熙(大日本帝国海軍少佐:ソロモン諸島で戦死)
徳川恒孝(徳川宗家第18代目当主)
徳川圀順(水戸徳川家当主:大日本帝国陸軍少尉.日本赤十字社社長)
徳川宗敬(一橋徳川家当主:大日本帝国陸軍少尉.政治家)
徳川好敏(清水徳川家当主:大日本帝国陸軍中将.日本国内で初めて飛行機を操縦した人物)
松平節子(秩父宮雍仁親王紀)
徳川武定(松戸徳川家当主:大日本帝国海軍中将)
徳川義寛(宮中侍従長)
など他にも結構いるので略。

【日本における保守派の源流の一つ】


光圀治世の時に明国から亡命してきた朱舜水によって水戸学が形成された。
その結果水戸藩は勤皇家の家柄になりもし幕府と朝廷が争ったら

もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇する事なく帝に奉ぜよ

と言う家訓があった。
結果、幕末の尊王志士に影響される事になる。
それが広まり明治から現代にかけて日本における右派の原動力になった。
(なお子孫である徳川康久氏は靖国神社宮司であり、日本会議に所属している。)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

京極高次

2017-10-13 13:48:26 | 戦国武将図鑑
京極高次
【諱】
高次
【苗字】
京極
【朝臣】

【生没】
1563年ー1609年
【父親】
京極高吉
【母親】
京極マリア
【兄弟】
京極高知
京極竜子(武田元明室)
松雲院(氏家行広室)
マグダレナ(朽木宣綱室)
【正室】

【子息】
京極忠高
安毛高政
【解説】
京極高吉と京極マリアの間に浅井氏の居城小谷城京極丸で生まれる。
京極氏は佐々木信綱の末裔であり、近江などの様々な国の守護をしていた一族であった。
それが衰退してしまったが、父高吉は足利義昭に仕えるなど名家としての威厳を保っていた。
しかし対立してしまい、父は出家し高次が信長の人質になる。
槇島城に籠城した足利義昭を攻める織田軍に従軍しその功績で5000石が与えられた。
本能寺の変が起きると妹竜子が嫁いでいた武田元明と共に明智軍に属した。
しかし、光秀は討たれ元明は自害し高次は各地を転々と逃亡し柴田勝家に匿われる事になった。
なんとか助命されて、2500石を与えられ2年後には元の領地程の石高に回復。
九州征伐の功で大溝城1万石を与えられ京極氏は大名として復帰し、亡き浅井長政とお市の方の娘.初を正室として迎えた。
小田原征伐で八幡山城2万8000石となり秀吉が跡に譲った豊臣秀次が関白に就任すると、従五位下侍従に任ぜられ名家京極氏は再興される。
更に秀吉の親族浅野長政が築いた大津城6万石が与えられ、従三位参議になった。
しかし、妻や妹の功績が大きく高次は周りから蛍大名と陰口を言われていた。
秀吉が没すると徳川家康と石田三成は対立、東軍と西軍に分かれて全面戦争が開始される。
高次は西軍に属する事を宣言するが、西軍の動向を東軍に報告していた。
西軍部隊と共に越前東野に向かうが、離脱し大津城に戻り東軍を迎えると徳川家家臣井伊直政に伝えた。
そして西軍は毛利元康ら4万人の兵力を派遣、それを迎える京極軍は3000名で迎える。
奮戦ののち降伏するが、意義が大きく。
西軍部隊が関ケ原の戦いに到着するのを遅らせ、東軍の勝利に貢献する事になったのである。
その功績で高次は若狭1国8万石を与えられた。
1609年、47歳で亡くなる。

◆大津城奮戦した武将
・城下を焼き払う作戦
斉藤勝左衛門
若宮兵助
比良七左衛門
多賀孫左衛門
小川勝太夫
◆寄せ手に夜襲をかけ戦果を得た人物
高宮半四郎
赤尾伊豆守
山田大炊
三田村出雲
三田村吉助
内田太郎左衛門
尼子外記
服部佐渡
鞍智伯耆
若宮平兵助
佐脇作左衛門
斉藤勝左衛門
多賀孫左衛門
今村掃部
箕浦備後
本郷左衛門
丸尾孫五郎
中井治兵衛
服部幸太郎
友国心兵衛
寺西左衛門
伊東長右衛門
井上茂兵衛
石川右衛門
西荘源左衛門
深井長右衛門
上原太郎作和
爾勘左衛門
小川五郎八
小野仁右衛門
小倉心兵衛
広瀬作太夫
◆戦死した者として
小関甚右衛門
磯野八左衛門
石黒又兵衛
山田三左衛門
篠原宗兵衛
小川左近右衛門
三浦五右衛門
新保喜左衛門
中次角兵衛
河上小左衛門
伊藤角助
林五郎兵衛
横山久内
香川又右衛門
篠原右兵衛
山田平兵衛
馬淵隠斎
藤岡又右衛門
石川久右衛門
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

戦国時代最初の天皇 後柏原天皇

2017-10-12 16:24:41 | 戦国武将図鑑


後柏原天皇
【諱】
勝仁
【代目】
第104代目天皇
【生没】
1464年ー1526年
【父親】
後土御門天皇
【母親】
庭田朝子
【御兄弟】 
第二皇子:尊敦親王  =青蓮院
第三皇子:仁尊法親王 =円満院
第四皇子:法蓮院宮  =上乗院
第五皇子:御名前不詳 =夭逝
第一皇女:大慈光院宮
皇女:  御名前不詳 =夭逝 
第二皇女:保安寺宮 =和泉宝安寺
第三皇女:応善女王 =安禅寺
第四皇女:智円女王 =安禅寺
第五皇女:理琇女王 =宝鏡寺
【皇后】
勧修寺藤子
【御子息】
第一皇女:覚鎮女王  =大聖寺門跡
第二皇女:覚音女王  =大慈光院
第一皇子:御名前不詳 =夭逝
第二皇子:知仁親王  =後奈良天皇
第三皇子:覚道法親王
第四皇子:道喜    =仁和寺・上乗院
第五皇子:清彦親王  =天台座主・四天王寺別当
第六皇子:寛恒親王  =彦胤法親王
【解説】
御土御門天皇の第1皇子、後土御門天皇の崩御を受けて践祚し第104代目天皇となる。
応仁の乱が勃発し、父が崩御した時まともに葬儀ができず棺が1ヶ月以上放置される程財政が圧迫しており。
治世は26年に及ぶが、即位の礼を挙げたのは即位から21年後の出来事であった。
将軍足利義澄が参議中将昇任のため献金し即位の礼をあげようとするが、細川政元が反対しならなかった。
朝廷の儀式を中止し節約し、室町幕府と本願寺実如らの献金でようやく即位21年目で即位の礼をあげた。
再び将軍職に就いた足利義稙が細川高国と対立し即位の礼実行が危なくなり。
それに激怒した帝は強行し足利義晴を再び将軍として擁立させた。

公卿が地方へ散らばり朝廷の権威も地に落ちたが、それでもなんとか朝廷の儀式の復興に力を入れる反面。
日本各地で苦しむ民達の事を想い続けるなど、御心の優しい御方でもあった。
自ら筆を取って般若心経を延暦寺と仁和寺に奉納した

1526年、在位中に崩御。

【和歌】
わが身の罪がいかに多いか鏡にはすべて映しだされようがわれはひたすら望む心だけでも浄土を目指そうと
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

姉小路頼綱

2017-10-12 15:45:07 | 戦国武将図鑑
姉小路頼綱
【諱】
頼綱
【苗字】
姉小路
【朝臣】
藤原(三木氏は源朝臣)
【生没】
1540年ー1587年
【父親】
姉小路良頼
【母親】
不明
【兄弟】
三木顕綱
斎藤信利室
【正室】
斎藤道三の娘
【子息】
姉小路信綱
姉小路秀綱
鍋山元綱
森直綱
小島元頼
三木近綱
など
【解説】
京極氏の一族三木氏一族の姉小路良頼の子として生まれる。
父親は三木姓であり、自身は当初三木自綱と名乗っていた。
父が飛騨国の支配の名分を得べく飛騨国司姉小路の名跡を奪取し、姉小路氏を名乗り頼綱も同時に姉小路を名乗った。
織田信長が足利義昭を報じて上洛すると、頼綱は父の名代として上洛し正親町天皇に拝謁した。
織田信長に接近し従うが、上杉謙信にも従属し二重従属の形になる。
そもそも織田信長に接触したのは上洛もあるが、自身の妻が信長の正室である濃姫と姉妹な事も考えられる。
謙信が亡くなると本格的に織田家に従い、越中斎藤氏の斎藤信利・兄弟の斎藤信吉と通ずる。
妻の兄弟である斎藤利治が越中へ侵攻、頼綱は斎藤信利・斎藤信吉と共に支援する。
その間に飛騨統一の軍事行動を開始し謀反の疑いのある嫡男信綱を殺害し親上杉氏の国人を滅ぼしている。
飛騨統一後周囲に斎藤利治と斎藤利堯兄弟が配置される、これは織田家とは斎藤道三の親族としてと朝廷へ顔が利く親族扱いにされる。
織田信長の本能寺の変で死ぬと頼綱は江馬輝盛や弟鍋山顕綱を滅ぼし飛騨統一の野望を成し遂げる。
秀綱に家督を譲り、徳川家康に接近し越中の斎藤兄弟を家臣として推挙する。
織田信孝・柴田勝家や佐々成政が秀吉に敗れると金森長近率いる豊臣軍がかつて滅ぼした勢力の遺児広瀬宗直・牛丸親綱らと共に侵攻。
高堂城を攻められて降伏し嫡男秀綱や小島氏などの一族が討ち死に自害し、頼綱は朝廷の命で助命されるが京都に幽閉され同地で亡くなる。

なお

子の三木近綱は江戸幕府御書院番になり森直綱は尾張藩士になり存続する。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

千葉邦胤

2017-10-12 12:53:51 | 戦国武将図鑑
千葉邦胤
【諱】
邦胤
【苗字】
千葉
【朝臣】

【生没】
1557年ー1585年
【父親】
千葉胤富
【母親】
不明
【兄弟】
千葉良胤
【子息】
千葉重胤
【正室】
北条氏政の娘
【養子】
千葉直重 
【解説】
下総千葉氏当主千葉胤富の次男として生まれる。
兄良胤が家督を継いでいたが、反北条氏の姿勢を取り家臣に追放され邦胤が後を継いだ。
佐倉妙見宮で元服し邦胤と名乗る。
織田信長の重臣である滝川一益が関東に侵攻。
信長への使者を出すように求められるが、邦胤は拒絶し北条氏に従い織田軍と戦った。
武勇に優れ千葉家一族や領民に慕われる名君であった。

しかし

新年の祝賀の席にて、近習の桑田万五郎の放屁を叱責するが恨みを持たれ就寝中に刺されて重傷。
治療が行われたが回復せず、6日後に死去。
僅か29歳の生涯であった。

子の重胤がいたが、氏政の子直重が存続する事になる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

飯富虎昌

2017-10-11 13:04:49 | 戦国武将図鑑
飯富虎昌
【諱】
虎昌
【苗字】
飯富
【朝臣】

【生没】
1504年ー1565年
【父親】
飯富道悦
【母親】
不明
【兄弟】
山県昌景
【正室】
不明
【子息】
古屋昌時
飯富左京亮(藤蔵)
【解説】
武田家臣飯富道悦の嫡男として生まれる。
飯富氏は源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔である、由緒正しき家柄であった。
今井信元・栗原兵庫らともに主君武田信虎に反乱を起こすが、敗北し許され追従する。
今川氏と北条氏の交戦の時、今川軍の援軍として北条軍に打撃を与え。
諏訪頼満・村上義清の連合軍では数で劣る不利な戦いを強いられるが、首97を取る大勝利を得た。
板垣信方、甘利虎泰らと共に信虎の嫡男・晴信を擁立して信虎を追放する。
板垣信方と甘利虎泰が戦死後、武田軍団の中核として活躍する。
第4次川中島の戦いでは、妻女山攻撃の別働隊の大将を務め。
武田信玄の嫡男武田義信の後見人になる。

今川攻めの際で信玄と義信が対立すると弟昌景が義信を担いで謀反をたくらんだと密告し取られられ処断される。
彼の部隊である赤備え部隊は弟昌景に引き継がれる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

大内義隆

2017-10-10 15:04:59 | 戦国武将図鑑
大内義隆
【諱】
義隆
【苗字】
大内
【朝臣】
多々良
【生没】
1507年ー1551年
【父親】
大内義興
【母親】
内藤弘矩の娘
【兄弟】
大宮姫(吉見正頼室)
女(大友義鑑正室)
女(細川持隆正室)
女(一条房冬室)
大内弘興
女(足利義維正室)
【正室】
万里小路貞子
【子息】
珠光
大内義尊
大内義教
大内義胤
【養子】
大内晴持
大内義長
尾崎局(毛利隆元室)
【解説】
周防守護大名大内義興の子として生まれる。
大内氏は朝鮮半島にあった百済国武寧王の孫琳聖太子の末裔である。
聖徳太子に姓を与えられた琳聖太子は日本に帰化し義照と名乗った。
(5代の阿津太子は百済の名を名乗っていた。)
そして琳聖太子の13代末裔の盛房から大内を名乗った。
室町時代になると守護大名になり、高麗や李朝や明国の貿易で栄華を極めた。
義隆は年少児は乳母などの女たちに囲まれながら過ごし。
元服すると従五位下周防介の官位が与えられる守役に杉重矩がついた。
父に従い安芸武田氏の佐東銀山城攻めに参加する。
寧波の乱が起こり、日本における明貿易を独占する事に成功した。
22歳の時、尼子攻めの最中に父義興が亡くなり家督を相続し父と祖父と同じ左京大夫の官位を与えられる。
豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏と争い、松浦氏を従属させるなど九州戦線を展開する。
勝ち続けたが田手畷の戦いで少弐氏の家臣竜造寺家兼に大敗した。
その後、謀略で家兼を離反し少弐氏を弱体化し大友氏と戦うが勢場ヶ原の戦いで失敗。
その失敗を補うべく、九州探題渋川義長を滅亡させる。

一方で朝廷関係では後奈良天皇の即位礼の際に銭2千貫(3億円)を寄進し大宰大弐叙任を申請する。
一時は許可されたが、すぐに取り消されているがなんとか叙任する。
その後九州攻撃の大義名分を得て少弐資元を滅亡し、竜造寺氏を配置する。
12代将軍足利義晴(義輝・義昭の父)の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦九州戦線は一時休戦。
出雲の尼子晴久と戦うようになり、武田信実・信重ら安芸武田氏と友田興藤ら友田氏を滅ぼし戦況を有利に進めた。

月山富田城の戦いで尼子氏を追い詰めるが、敗退。
養子であった大内晴持が撤退中に船が転覆し溺死してしまい、これが原因で政治的にも軍事的にも関心を失う事になった。
これが後の義隆の運命を決めた。

富田城の戦い以後、文治体制を展開。
フランシスコ・ザビエルと謁見し南蛮文化を保護するが。
この頃から陶隆房や内藤興盛らと対立し、謀反の噂が流れるなど政情が不安定になり。
冷泉隆豊は討伐許可を求めたが、義隆はスルーした。
1551年、とうとう陶らが決起。
内藤興盛は陶の反乱を知っていながら、黙認。
襲撃された義隆は吉見正頼を頼るべく移動するが、暴風雨のため身動きできず。
大寧寺で自害。

◆辞世
「討つ者も討たるる者も諸ともに 如露亦如電 応作如是観」

大内義尊らも殺されたり、滞在していた三条公頼(武田信玄正室三条の方・本願寺顕如室如春尼の父)関白で左大臣の二条尹房 ら公家も殺された。
これにより大内氏は事実上滅亡する。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

桂元澄

2017-10-10 13:14:51 | 戦国武将図鑑
桂元澄
【諱】
元澄
【苗字】

【朝臣】
大江
【生没】
1500年ー1569年
【父親】
桂広澄
【母親】
不明
【兄弟】
桂元忠
桂就延
桂保和
【正室】
福原広俊の娘
【子息】
桂元延
桂元貞
桂元親
桂景信
女子(冷泉元豊妻)
桂広繁
桂元盛
桂元時
【解説】
毛利氏庶家坂氏の一族.桂広澄の嫡男。
一族で本家でもある坂広時が失脚、または叔父坂広秀が毛利元就の弟相合元綱を擁立し反乱を起こし失敗。
父は責任を取り自害し、元澄も後を追い自害しようとするが元就に止められ以後は家臣として活躍する事になる。
厳島の戦いでは陶晴賢に偽の内応書を送り、おびき寄せ成功し撃滅。
その功績で桜尾城主として厳島周辺を管理する。
自害を止められ元就の忠臣となった元澄は児玉就忠と共に嫡男毛利隆元の奉行人 赤川元保らと対立する事になる。
子孫は幕末の偉人木戸孝允と内大臣木戸幸一.男系子孫として内閣総理大臣で陸軍大臣.桂小五郎清澄。

【著名な子孫】
◆木戸孝允/桂小太郎
・長州藩士
・文部卿
・内務卿
(実際には天野元政の子孫)

◆桂太郎
・長州藩士
・大日本帝国陸軍.大将
・陸軍大臣
・内大臣
・内務大臣
・文部大臣
・大蔵大臣
・台湾総督
・内閣総理大臣
桂広繁の子孫

◆木戸幸一
・文部大臣
・厚生大臣
・内務大臣
・内大臣
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

織田勝長

2017-10-10 10:47:22 | 戦国武将図鑑
織田勝長
【諱】
勝長
【苗字】
織田
【朝臣】
織田
【生没】
不明ー1582年
【通称】
源三郎
【父親】
織田信長
【母親】
不明
【養父】
遠山景任
武田信玄
【義母】
おつやの方
【兄弟】
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
羽柴秀勝
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
織田信正
徳姫(松平信康室)
相応院(蒲生氏郷室)
秀子(筒井定次室)
永姫(前田利長室)
報恩院(丹羽長重室)
於振(佐治一成継室)
源光院(万里小路充房室)
月明院(徳大寺実久室)
三の丸殿(豊臣秀吉側室・二条昭実後室)
鶴姫(中川秀政室)
慈眼院(北条氏直婚約者)
【正室】
池田恒興の娘
【子息】
津田勝良(子孫.金沢藩士)
【解説】
織田信長の5男として生まれる、生年は不詳。
岩村城主遠山景任の養子となり、岩村城に入る。
養母は信長の叔母おつやの方であり、両属していた遠山氏に信長の子すなわち勝長を入れたのである。
同年武田軍秋山虎繁の攻撃があり、おつやの方は婚姻し勝長は養育されるため甲斐に送られた。
この行為は信長を激怒し、後におつやの方を処断する一因になった。
そして武田家の元で、元服.織田源三郎信房と名乗る。
武田勝頼が長篠の戦で敗れると、兄織田信忠の軍勢に岩村城を奪還。
同時に勝長も奪い返された。
帰還後、父信長に謁見.尾張国犬山城城主に任命された。
武田征伐には兄に従い参陣、大戸浦野氏の従属や上野国衆の従属させるなどの指揮を取った。
本能寺の変で父信長は光秀に討たれ、兄信忠と叔父長利らと共に二条城に籠城。
奮戦のち戦死する。

子孫は金沢藩士として存続する。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

古内重広

2017-10-09 14:38:14 | 戦国武将図鑑
古内重広
【諱】
重広
【苗字】
古内
【朝臣】

【生没】
1588年ー1658年
【父親】
国分盛重
【母親】
不明
【養父】
古内実綱
【兄弟】
国分実永
馬場重吉
【義兄弟】
伊達宣宗(佐竹義久の次男)
【子息】
古内重直
遠藤定富
伊東重門
山口重如室
【養子】
古内重安
【解説】
国分盛重の子として生まれる。
盛重は伊達政宗の父.伊達輝宗とその叔父石川昭光.留守政景の弟であり、重広は政宗の男系従兄弟である。
父が佐竹義重の所へ出奔し、重広は取り残されてしまう。
国分家家臣で伊達家の家臣になっていた古内実綱の養子として育てられる事になる。
重広は利発であり、実綱により伊達政宗に謁見し嫡男忠宗の側近となる。
かなり優秀でありまず最初に28石から始まり、初陣である大坂の陣前には500石になっていた。
大坂の夏の陣の道明寺の戦いに政宗.忠宗.秀宗.宗根らに従い出陣。
豊臣方の首を取る活躍を見せる。
政宗死後、2代目仙台藩主になった忠宗に従い仙台藩奉行職として活躍し。
名取郡岩沼要害を中心に藩政を取り仕切り、4000石まで加増される。
最終的には1万4987石にまでになるが、それぞれに分割され減少する。
70歳の時に忠宗が死去。
重広は忠宗の忠義に報いるべく死後の翌日自害する。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

結城秀康

2017-10-08 21:40:11 | 戦国武将図鑑
結城秀康
【諱】
秀康
【苗字】
結城
【朝臣】
藤原
【別姓】
羽柴秀康
松平秀康
【生没】
1574年ー1607年
【別名】
越前黄門
【父親】
徳川家康
【母親】
長勝院
【養父】
豊臣秀吉
結城晴朝
【正室】
鶴子
【兄弟】
徳川信康
=(信康事件で自害)
徳川秀忠
=(江戸幕府2代目将軍)
松平忠吉
=(松平家忠養子:東条松平氏当主:断絶)
武田信吉
=(穴山信治養子:甲斐武田氏当主:断絶)
松平忠輝
=(松平康忠養子:長沢松平氏当主:改易)
松平松千代
=(松平康忠養子:早世)
平岩仙千代
=(平岩親吉養子:早世・断絶)
徳川義直
=(尾張徳川家初代当主)
徳川頼宣
=(紀伊徳川家初代当主)
徳川頼房
=(水戸徳川家初代当主)
亀姫
=(奥平信昌室)
督姫
=(池田輝政室)
振姫
=(浅野長晟室)
松姫
=(早世)
市姫
=(早世)
【子息】
松平忠直
松平忠昌
松平直政
松平直基
松平直良
喜佐姫(毛利秀就室)
【解説】
犬畜生の子
徳川家康の次男として生まれる。
双子であり兄に永見貞愛がいたが、築山殿からの嫉妬や徳川家康が犬畜生(双子の事)と嫌った事から本多重次に預けられ貞愛は犬畜生は先に処分される方針から家康の子と認められなかった。。
家康とは3歳まで会える事はなかったが、兄信康の取り成しでようやく対面する事ができた。
が武田勝頼と対面しているため、会う機会がなかったのは当然と言える。
豊臣氏への養子
兄信康が武田氏との内通の疑いがあって自害されると秀康が継ぐ流れが決まるかと思われた。
が同年に生まれた長丸後の徳川秀忠が継ぐ事が決まり。
小牧長久手の戦い後、和睦条件であると羽柴秀吉の養子となり羽柴秀康と名乗る事になる。
九州征伐で初陣を飾り岩石城攻めや日向平定でも活躍。
小田原平定や朝鮮出兵に従軍する。
結城氏への養子へ
豊臣と名乗るようになった秀吉に実子鶴松が生まれ後継者指定される事になる。
秀康は用済みとなったため、常陸の大名である結城晴朝の養子となり結城秀康と名乗る。
その理由は父家康が関東へ移った事と更なる加増によるもので。
秀康は11万石の大名となる。
関ヶ原
徳川家康が謀反の疑いのある上杉景勝を討伐すべく出陣する。
すると石田三成が毛利輝元を担ぎ挙兵する。
家康は小山評定で西軍と対峙するために引き返す。
上杉景勝の備えとして平岩親吉と蒲生秀行・小笠原秀政らと共に待機する。
なお江戸守備には武田家を継いでいた武田信吉がいる。

戦後越前62万石が与えられ、松平姓を与えられた。
その後伏見城の留守居として勤務するが病のため帰国。
1607年、34歳の若さで死去する。

【人物】
・武勇抜群であり職業軍人としての素質がある武将の申し子であったと言う。

・ただ軍人としてではなく、人としての敬意の表せる男であり特に堀瀬兵衛の子が亡くなると哀悼の意を評している。

・上杉景勝が徳川秀忠の将軍就任の祝いで秀康に上座に譲ろうとしたが秀康は景勝が先に同じ権中納言の官位を受けていうるので景勝に譲ろうとした。
が譲り合いになり秀忠が、秀康に上座を座るように指示した。
周囲は秀康の礼節や謙譲心の大きさに関心したと言う。

・秀康は伏見城で父家康と共に相撲観戦をしていた。
が観客が興奮しすぎて騒ぎだしていた。
それに腹が立った秀康が立ちあがって観客に睨みつけた。
観客が秀康の睨みに怯え、一緒にいた父家康も驚く程であったと言う。

・黒田官兵衛こと黒田孝高と仲が良く、秀康曰く孝高の屋敷にずっといたい程である。


【越前松平家の分岐】
◆大本
津山松平家
松平忠直子孫
福井松平家
松平忠昌子孫
松江松平家
松平直政子孫
前橋松平家
松平直基子孫
明石松平家
松平直良子孫
◆分枝
糸魚川松平家
福井松平家・松平直堅子孫
広瀬松平家
松江松平家・松平近栄子孫
母里松平家
松江松平家・松平隆政子孫
津山安藤家
津山松平家・安藤国近子孫(松平綱国の子)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加