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下村観山の碑について

2015-05-02 11:38:32 | 日記
 今日は、本牧山頂公園の下村観山の碑を見に行きました。この公園の特徴は、より細長くと本牧から、JR根岸線の山手駅近くまで尾根を帯の如く伸びて伸びて、色々な広場があり、更に、天気がよければ、東京湾・千葉房総半島や富士等の山々と絶交の見晴を堪能でき、お子様ずれにぱ、遊具施設なども備えられ家族ずれの散策にも最高の公園と思いました。
 さて、下村大観の碑でありますが、本牧の入口から直ぐ左の坂道を上って行くと観山広場があり、最南西端の眺望絶好のロケーションの処に、十勝石で造った碑がありました。何でもここは、下村観山のアトリエのあった場所と書かれていました。
 「大観と観山」編集横浜美術館によれば、下村観山は、明治6年(1873)4月10日和歌山県和歌山市小松原通5丁目父下村豊次郎、母壽々の三男(晴三郎)として、誕生したのであります。下村家は、代々小鼓役をもって紀州徳川家につかえた能役者の家系であり、江戸在府、その流儀は幸流・清次郎派であったと伝えられていた。
 観山は、わずか8歳で絵筆を執り始め、16歳で東京美術学校へ入学し、横山大観と首席を争う実力を発揮し、卒業後すぐに母校の助教授となり、教壇に立ち後進の指導に当たるとともに自身も作画に励んでいたが、美術学校の恩師でもあった岡倉天心の排斥事件が起きると学校を辞し、天心や大観とともに日本美術院の設立に参加して、在野の美術団体を拠点として活躍していきます。
 また、「下村観山展」観山と三渓によれば、1873年から1930年は日本美術院の作家の中の岡倉天心がもっとも愛した画家である。とあった。明治末年から多くの日本美術院の作家を支援し始めたのは、生糸貿易商を営んでいた「原三渓」であり、日本美術院の存亡の最大の危機を迎えていた。それは、明治39年(1906)から文部省美術展覧会の開設を経て、体制の立て直しを図ろうとしていた矢先、中枢の橋本雅邦、菱田春草、岡倉天心が相次いでこの世を去ったからであります。
 この時,観山をはじめとする、再興日本美術院の今村紫紅、前田青邨、安田靫彦、小林古径らが、次世代の若手作家を厚く支援した三渓は、まさしく日本美術院の恩人といってもいい存在だった。
 観山が亡くなるまで移り住んでいたのは、三渓の世話で転居した横浜市本牧だったから、観山の画家としての人生の前半は、天心、後半は三渓に、深く関わって展開したと云える。観山にとって、天心は師、三渓はパトロンとしての関係だった。
 一方、「下村大観、川合玉堂」発行 株式会社講談社によれば、明治36年(1903)2月下村観山は、水彩画研究のために2年間英国に留学し、同38年12月にオランダ、ドイツ、イタリーを経て帰国した。丁度その頃、横山大観や菱田春草もアメリカからヨーロッパを旅行していた。 しかし、彼らが帰国して見ると、日本美術院の窮状は一層悪化しており、遂に、岡倉天心は生き残りの残党を集めて、茨城県の北隅の五浦に立て籠もって背水の陣をしくこととなった。世間が日本美術院の都落ちと冷笑したのも無理はない。
 この五浦時代が始まったのは、天心に招かれて五浦に移って来た、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山で、彼等は丘陵の松林の中に天心宅を囲んでそれぞれ居を構え、毎日研究所の画室に通って、互いに啓発しながら制作に専念したので、ここからは、次々と問題作が世に問われ、天心が最後の橋頭堡とした五浦は、はしなくも近代日本画史上のバルビゾン(ネットによると「フランス中北部の都市、フォンテンブローの近郊にある村。 19世紀中頃、テオドール=ルソー、ミレー、コローなど、後にバルビゾン派と呼ばれる画家たちが滞在し、風景や農民の生活を描いたことで知られる。 19世紀中ごろ、パリ近郊フォンテンブローの森の一隅にある小村バルビゾンに滞在して風景などを描いた画家たちの総称」あった。)となったのである。
 しかし、作画としては専念できたが、生活苦は依然として変わらなかった。そうした辛苦は漸く実を結んで社会に認められる日が来た。それは、西園寺内閣の文部大臣「牧野伸顕」が外交官時代から美術に深い関心を持っていたので、従来の小会分立の弊を改めまた審査の公平を期し、国家の主催する展覧会を計画し美術各界の人材を糾合しようとした。それが(文展)であり、その審査員には天心をはじめ観山、大観など6人が14人の中に入ったことは、日本美術院の実力を認めたものと云える。 
 その後の文展においての院展系作家の活躍によって、その勢力には隠然としたものがあった。しかし、その盟主でもあった天心は、当時ボストン美術館の東洋部長を兼ねていた。ところが、大正2年(1917)帰国すると共に病を発し、その9月に波瀾に富んだ52歳の生涯を閉じた。
 遺された弟子達は、それぞれの自身の持ち味として、観山は陣頭に立って叱咤する柄ではなかったが、大観という闘将がいた。観山はむしろその女房役として院中の和を図ることに努めた。観山が再興日本美術院の育成に如何に心を砕いていたかは、安田靫彦、今村紫紅や前田青邨が出品作を製作中、気掛かりの余り、深夜その画室を訪れ激励していることからも知られる。観山の存在は、外面的な華やかさは示さなかったが、その陰において心を巡らせていたのであった。
 観山は、次第に横浜の和田山の画室(観山の碑のある処)に籠って静かに制作を楽しむ心境になった。昭和5年(1931)になると食道癌を患い宋元画を思わせる「竹の子」を絶筆として、58歳と云う円熟した画技を惜しまれつつ世をさった。
 観山の作品には、幼いころの父の職業の影響か、能楽趣味からのヒントを得ての描写と構図、また、作品の顔料には新しい技巧と西洋絵具を併用して、色彩の華やかさを表している。とあったので、申し添えます。

(公園見取り図)

(園内の路風景)

(園内の路風景)

(園内の路風景)

(園内の路風景)

(園内の路風景)

(下村観山の碑)

(下村観山の碑)

(下村観山の碑)

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