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泉の井について

2017-09-30 08:23:35 | 日記
「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
泉の井は、扇ケ谷の踏切を越した先のT字路を、亀ケ谷方面とは反対の右に曲がれば、泉の井のほとりへ行く。
 古来泉と詩歌はつきものである。鎌倉十井の一つ、泉の井戸についても、詠まれた和歌の一つや二つはある筈で、書庫をあさったが不勉強のため見付けからぬ。そこでシューベルトが登場したのだが、どうもピッタリとゆかぬようである。
 泉のほとり   たてるぼだいじゅ
 こかげもとめて ゆめによいぬ
 みきにきざみぬ むねの想い
 「僕の住む泉ケ谷は鎌倉のなかでも辺鄙な場所の一つでしょう。扇ケ谷という、文字通り扇形にひろがったいくつかの谷のひとつで、駅から歩いて二十分ぐらいですが、バスもなく、自動車もすれちがえぬような泥道が行き止まりの形でついているだけなので、鎌倉に住んでいても知らない人が多いでしょう。道の片側に広いミゾがあり、両側にひっそりした家の並んだ様子も、昭和初年から変わりません」と東京新聞昭和39年12月11日夕刊の古美術礼賛(17)の中で、中村光夫氏は述べている。
 井戸の所在は、浄光明寺より一寸先の左側である。路傍だが、横浜高島屋社長の飯田さんの庭に食い込んだような形になっている。今は水もにごって、使用不可能である。井戸の周囲も苔むしていて、こんこんと清水がわき出た住時の新鮮味はないが、十井中では、原形をよく残している部類に属するであろう。
 泉谷山浄光明寺は、泉ケ谷の中心にあり古義真言宗の寺。京都泉通寺の末寺である。瓦ぶきの本堂は立派で、庭も八百坪余って、さり気ない庭木や池の配置も良い。最近市内の寺院ではじめての「文化財防火収蔵庫」が本堂の後ろに完成した。総工費二百七十万円で、半額は国の補助だというが、お寺さんも相当無理をしただろうと、頭が下がる。
 完全な防火耐震耐湿の設備があり、国宝館に出陳されていた国の重文の阿弥陀三尊がここへお帰りになる。
 阿弥陀如来は極楽浄土の仏様で、印度でも中国でも、我が国でも厚く信仰されている。鎌倉のシンボル長谷の大仏も、実は釈迦牟尼像ではなく阿弥陀如来である。印相によって九種に分けられ、浄光明寺の仏像は両手を胸前にとり上品中生の印相を示すのが特長である。特殊な宋風の作りで、年代も鎌倉末期の正安年間(1299年)と考えられるから貴重であるし、美術的価値も非常に高く、見る人の心を打つ美しさを具えている。本尊の若々しい表情、両脇侍の面長な、小首をかしげた独特のポーズと可愛い姿は拝観するたびに引き付けられるものがある。
 さて、井戸にかえるが、ここで当然起きる疑問は、泉と井戸とは別物ではないかということであろう。しかし、昔の人はそんなことは構わず、水があふれ出るから泉の井戸と名付けたらしい。
 泉ケ谷という名前も、この井戸と関係があるらしいが、ニワトリと卵と何れが先かという類いの問題になってしまう。「鎌倉は極めて水質の悪い土地であり、生水を飲むと下痢をすることが多い。鎌倉十井があり、又五名水が古来有名であるのも、特に飲料に適する良水が少なかったことを物語るものであろう。これらの良水を出す井戸が、特に戦時には確保せられねばならぬものであったと考えられる」十井についての解説は市史でもこの程度しか出ていない。以上のような記述がありました。
 井戸の存在場所
 泉ケ谷 浄光明寺先


(泉の井戸への道)

(泉の井戸の石標)

(井戸)

(泉の井戸の説明標示版)

(浄光明寺山門)

(浄光明寺案内)
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銚子の井について

2017-09-23 09:14:40 | 日記
「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
銚子の井は、名越の踏切をすぎて間もなくの左側のちっと引き込んだところに井戸はあるが、ほこりをかぶった何となく憐れな様子に見受けられる。
 名越の切通しを往来した昔の通行人達は、ちょうどこの辺まで来ると水が欲しくなる頃合だから、きっとこの井戸の水で心行くまで渇をいやしたことであろう。
 銚子の井で通っているが、鎌倉市史など、本によっては「石の井」となっている。名前の示すようにオール石造りであり、銚子のような形をしているのだ。
 分厚い石の蓋の巨大なのが覆っているが、すこしずれているので底が見える。水は青味がかって、とても使えそうもない。そぞろ憐れな風情である。
 かつては一端についている出口から奇麗な水がこんこんとあふれ出ていて、誰か酒飲みがその有様を注視して「これがお酒であったなら・・・」といやしげなことを考え、その欲求不満が昂じて、いつしか銚子の井と名づけてしまったのであろう。
 それでは、銚子とは何か。
 高砂やのときに巫女が新郎新婦に授ける三々九度の盃に注ぐ、柄の長い酒器のことである。昔の酒宴では、お酌をするのに必ずあれを使ったらしい。字引にもちょうし(銚子)①酒宴に用いる具。酒を盃に注ぎうつすに用いるための具で、柄を長くしたもの。木製または金属制で近世は多く婚姻に用いる。両口と片口のとある。②徳利。(広辞苑)と出ている。徳利のことを「おちょうし」と言うのは間違いとまでは行かなくとも、混同していることになろう。
 銚子のはじめは、三代実録の貞観六年(864年)1月15日のくだりに銚子(さしなべ)の名の見えたのが文献にあらわれた最古のものという。
 〇 足音に 銚子をかくす けちな酒 (安水)
古い百科事典である冨山房の国民百科大事典に下記のように解説している。
 ちょうし(銚子) 注子ノ転訛。酒ヲ入レテ盃ニ注グ器デ、昔ハ瓶子ヲ同ジヤウニ呼ンデヰタガ、現今銚子ト称スルノハ土瓶ノ如ク口ノ付イタモノデ、鉄・銅・錫・稀ニハ漆器ノモノモアリ、同質ノ手ガ付イテヰル。而シテ注口ガ一方ニアルノヲ片口、両方ニアルノヲ諸口ノ銚子トイフ。柄ノ長イノガ本来デ、之ヲ長柄の銚子トイヒ堤子即チ鉉付ノモノヲ加へノ銚子トイフ。極めメテ鄭重ナ儀式ニハ本酌人ガ長柄ノ銚子ヲ捧ゲ、次酌人ガ堤子ヲ捧ゲテ、一献毎ニ酒ヲ長柄ノ銚子ニ加ヘルノデ此名ガアル。略式ノ銚子ハ底ガ丸ク鍋形デアルカラ酣(燗)鍋トモイフ。更ニ略シテ徳利ト猪口トヲ用ヰル場合ニモ尚、オ銚子ト呼ブ。之等ハ新年祝賀ノ場合ソノ他各種賀宴ノ場合及ビ懐石料理等ノ時ニ用ヰル。正式ノ祝賀ノ宴ニハ、銚子ニ三ツ組ノ盃ヲ用ヰルノガ正シイ。此ノ如キ場合ハ、本酌ト(加ヘ)ノ二ツノ銚子ヲ用ヰテ酌ヲスルノガ作法。コノ場合ニ雄蝶・雌蝶ヲ附ケル時はハ本酌ニ雄蝶ヲ、加ヘニ雄蝶ヲ附ケル。
 まったく故実というやつはやかましい。こんなに物々しくされてはお酒を飲んでも酔っぱらうなどということはおっかなくて出来やしない。
 願わくば、略式のまた略式のそのまた略式に、茶わん酒の無礼講か、おでん屋で一寸一バイと行きたいものだ。以上のような記述がありました。
 井戸の存在場所
 大町五丁目二の十七 石渡政治氏方

(銚子の井戸は、掲示版横から入る)

(銚子の井戸石標)

(民家の建艦横の銚子の井戸)

(同 銚子の井戸)
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瓶の井について

2017-09-16 08:57:51 | 日記

「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
瓶の井は、山ノ内踏切の脇を北鎌倉駅に向かって入って行き、T字路を右へ曲がって小川沿いに三百メイトルほど行けば明月院の石の門柱に行き当たります。
また、北鎌倉を起点とするときは、円覚寺前の細道を線路伝いに鎌倉方面へ向かえば間もなく前述のT字路へ出ますから、そこで小川沿いに左へ行けばよい。
明月院を、多くの人が訪れるのは、初夏の頃・・・・紫陽花の咲く時期です。”あじさい寺”、の別名があるほど有名なこの寺のことですから、数百株の見事な、丹精こめた植え込みが、石の総門から始まって、老い朽ちた山門をくぐりだらだら上りに、左折して本堂前の庭へくるまで、びっしりと左右に並んで夢幻のように花を咲かせます。
まことに幽玄、閑雅、静謐の極致。
あじさいはこの世の花ではない。死者のたましいがよみがえり、乗りうつった花と信じられている。
ユキノシタ科の落葉かんぼく。我国本州の海岸に自生するガクアジサイを母品に、改良育成した、いわば純国産の花。青紫色の花がふつうであるが、白色、淡紅色の品種もある。
欧米で改良されたハイドランジア(ハナアジサイ)は鉢植えで鑑賞され、色は濃くて鮮やかだから「アジサイ娘」なんて素頓狂なシャンソンも作られたりするのでありましょう。
蛇足だが、この寺でかくも盛大に、この植物を栽培するようになったのは、ごく最近数年のことで、お寺さんが積極的に挿し木をして株をふやした結果であると住職様に伺った。明月院のアジサイが有名になったので、鎌倉はもちろん、全国各地、いたるところ、猿真似する寺院その他の庭園や公園が続出している。
そろそろ、瓶の井戸でありますが、所在場所は、瓶の井戸は明月院の奥にある。開山の密室守厳像を安置する宗猷堂の右側にある井戸がそれ、その井戸に相違ありませぬ。断じて地に埋もれたり、廃物となって醜を天下に晒したりはしていない。屋根付きの立派な井戸である。
古い郷土史の文献には、この井戸の名前を釣瓶の井戸(つるべのいど)書き記してあったと記憶する。
また、明月院の由緒を述べますが、当寺は北条時頼公の墓と言われる宝筐印塔があることでもわかるように、北条氏執権第五代の最明寺入道時頼の仏道修行の小堂がはじめであります。名君時頼を記念して時宗は禅興寺を建て、後に廃寺となったが、その名残りのたった一つの塔頭が明月院なのです。以上のような記述がありました。
 井戸の存在場所
 北鎌倉 明月院庫裏前

(明月院総門)

(明月院山水)

(瓶の井のあり方)

(瓶の井戸)
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甘露の井について

2017-09-02 08:48:47 | 日記
「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
甘露の井は、北鎌倉駅前大通りを左に行くとまもなく東慶寺。なおしばらく歩くとGR横須賀線明月院踏切。その手前を右に曲がった突き当りが甘露の井のある浄智寺。鎌倉五山第四位。井戸は総門の手前にある。井戸にはふたがしてあって中の様子はわからない。多分甘露の井から流れ出したと思われる小さい池がある。この池にかかった石橋を渡ると浄智寺の総門である。寶所在近と白い字で書かれた額が掲げてある。この寺は、北向きであるから日当たりはよくない。総じて日陰の濃い寺城環境である。苔むす長い階段の両脇に立ち並ぶ古木。正面には中国風の山門がある。桜門様式で二階に梵鐘を吊るしてあるという大変珍しい建物だ。
その先に雲華殿という偏額が掛かった背丈の低い比較的新しい仏殿がある。一見平凡であるが、なんとも言えない味のある建物である。本尊三世仏坐像が安置されている。阿弥陀如来、釈迦如来、そして彌勒菩薩の三尊である。十五世紀・室町時代の造立。それぞれ過去、現在、未来を象徴する仏様とされる。雲華殿の左側には樹齢七百数十年といわれるビャクシンの大木が三本たっている。鎌倉市の文化財に指定されている名木である。
寺の由来は、正安元年(1299年)執権北条貞時が浄智寺を五山に列した。次いで延慶三年(1310年)建長寺、寿福寺、円覚寺が五山に列位された。京都五山すなわち大徳寺、南禅寺、天竜寺、建仁寺、東福寺の五つの禅寺は1333年後醍醐天皇が指名したものである。鎌倉五山の方が先だったということは注目すべきことだ。
さて、甘露井については、書くべきことはあまりない。現状は惨めなもので、飲用水としては不適当な、多少濁った溜まり水をたたえた古い小型の井戸、というだけのことである。溜まり水は竹の樋を伝わって、細々と池へ注いでいる。お寺さんに聞いたところ以前寺の左脇を通る道路の上の方を工事したさい。甘露井の水脈を痛めてしまったので、それ以来井戸の水は出が悪くなって、飲めなくなってしまったそうである。
第二の甘露井、これもお寺さんに聞いた話。倉庫の裏側の竹やぶの前の狸塚の先、墓地の手前に別の甘露井が実在し、こちらは生水も飲用に適するし、沸かしてお茶をいれると、まさしく甘露水、甘味があって、お茶の味が全然違う。それを知って汲みに来る人達もいる。お寺さんでも、お茶会その他に使用している。
以上のような記述がありました。
 井戸の存在場所
北鎌倉浄智寺総門の前

(浄智寺の案内)

(境内への橋)

(橋の向かって左側に 甘露の井(道路の工事による水脈が壊れ水が出ない井戸)

(浄智寺)


(現在使われている 手押しポンプ井戸)
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