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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

中村汀女先生の碑について

2014-11-27 19:49:34 | 日記
 先に、野毛山公園に行った際に中村汀女先生の碑がありましたが、別途投稿すると約束しました。今回、横浜図書に行って調べたことを投稿いたします、
 中村汀女先生(以下「汀女という。」)は、熊本市に生まれで東京世田谷区下北沢に住まわれていたとなっているのに、何故この横浜野毛山公園に汀女の碑があるのか、その関係を調べてみると次のようなことが分かりました。
 概要「鑑賞現代俳句全集」第8巻著者代表中村汀女によれば、熊本市画図町(明治33年4月11日)に生まれ、旧姓齋藤、本名破魔子。熊本県立高女卒業し、大正9年中村重喜と結婚、大蔵省官吏の夫に従い、東京、仙台、名古屋、大阪、横浜、東京・仙台と任地を転々転居して、その間、二男一女を得て、昭和17年にようやく一家は東京世田谷区下北沢に落ち着いた。
 俳句は、大正7年初めて「九州日日新聞」に投句、「ホトトギス」には翌年から投句。同9年、九州小倉在住の杉田久女を知る。昭和22年に「風花」を創刊、今日に至る。(昭和63年9月20日逝去)
 昭和31年に中国の招きで文化訪問の副団長として、中国を訪問、昭和40年欧州からアメリカへ、同44年再び欧州へ旅。昭和47年勲4等宝冠章を受章、昭和55年「文化功労者」となった。
 著書は、句集「汀女句抄」(昭和19年) 「花影」(昭和23年) 「都鳥」(昭和26年) 「紅白梅」(昭和43年) 「薔薇粧ふ」(昭和54年) 、随筆集は、「おんなの四季」(昭和31年) 「母のこころ」(昭和33年) 「風と花の記」(昭和48年)そのほか「婦人俳句のつくり方」(昭和43年)「俳句をたのしく」 (昭和43年)など多数となっていました。
 また、汀女は、「熊本市画図町上江津」当時は、江津村の村長齋藤平四郎を父に持ち、母は、亭、当時の父は江津村の村長をつとめる名望家であったが、汀女は、幼い小学校の頃から、日曜日には、母からのいいつけで縁側の拭き掃除をしていた。これが続くある日雑巾を持ちながら,ふと前庭に咲いている寒菊を見て「われに返り見直す隅に寒菊赤し」となんだか「俳句」ともおもいたい言葉が浮んだのに、おどろき、また、たのしくて、次々に見ゆるものを17文字にし始めたのが、私の俳句の始まりで18歳であった。
 短く言い得た幸福感、見たもの、感じたものを言葉に託した満足感、そうしたものが私を引っ張ってきたと思っている。ともありました。一日一句を詠い1年通したこともあり、多くは、日常の家庭内からの句が多く詠まれていた。また、故郷に帰るときには、車窓からの景色、欧州等の旅など同様に詠み収めるなど、すべてが俳句であった。
 汀女は、子育ての繁忙期から暫く脱しかけているのに加え、肋膜炎に罹って病臥の生活が続いていた汀女に俳句によびもどしたのは、当時横浜に住んでいたことや詩心を甦らせる上で役に立ったのは、江津湖畔に育った彼女が横浜の海を見て、そぞろ胸中に湧きおこるものを覚え、友人の娘から、星野立子を紹介され立子の主宰する「玉藻」句会に毎月参加することで決定的に彼女は、「ホトトギス」俳句に立もどることが出来たのであった。
 横浜での作「梨食(た)うふ雨後の港のあきらかや」
 この句は、彼女のよく散歩した外人墓地のある山下公園や洋式庭園のある野毛山公園などでもそうした風景はよく見られたことであったろう。「印象派画家」のモネやブーダンのセーヌ河口の画家達の表現した素材のように、格好の素材となって「梨食(た)うふ」の梨の色、形が、雨あがりのさわやかな港の風景とマッチして、口中に噛む梨の歯ごたえ、そのすみずみしい味の広がりという。触覚味覚の世界を加えて、この句を一層爽やかなものに仕上げている。 洋画の世界に日本的なしめりを加えたといえる。この句の空気にはどこか雨後のしめりもひそむもようである。とも評価されている。
 こうした句をみると中村汀女の確かな生を見る思いがするのだ。それは、自然薯の「おのれ信じて」生きてゆく姿勢に通うものである。また、幼時を過ごした農村江津湖周辺への愛着につながるものであり、其の処にこそ、汀女は俳人としての長い根っ子をおろしている人だと今更のように思わせる。と結んであった。
 このように、中村汀女は、横浜にゆかりのある表現豊かな俳人であるとこをしみじみと知らされました。また、野毛山公園に碑があることの歓びさえ感じました。

(野毛山公園の散策路)

(中村汀女先生の碑)

(「鑑賞現代俳句全集」第8巻著者代表中村汀女からの写真)

佐久間象山の石碑について

2014-11-22 08:54:39 | 日記
 先に、掃部山の井伊直弼公について、投稿した際に、横浜港の開港に寄与した佐久間象山の碑がありましたが、別途投稿すると約束しました。今回、横浜図書に行って調べた事を投稿いたします、
 佐久間象山の壮年期までの概要は、「佐久間象山と横浜」編集「横浜の歴史博物館」によれば、次のように記述されておりました。
 佐久間象山は、文化8年(1811年)信州松代に生れ3歳から文字を学び文政11年(1828年)家督を相続し、天保4年(1833年)江戸に遊学して、3年後の1月に帰藩するも天保10年再び江戸へ遊学江川太郎左衛門に入門、天保13年には、藩邸で砲術の稽古や「海防策」を藩主に提出するなど幅広く活動し、嘉永2年(1849年)にはオランダ語辞書を藩費で出版をするがため、翌年の嘉永3年(1850年)40歳、江戸にて辞書出版許可回答を老中阿部正弘に訴えるも出版不許可の回答、同年深川藩邸にて砲術教授、嘉永4年(1851年)松代近郊生萱村で大砲試射を行うなど能動的に範を示しつつも吉田松陰塾にも入り学んでいた。
 嘉永6年(1853年)浦賀にペルー来航時には、藩の軍議役となる。翌年横浜に再来するも同様に軍議役として横浜に応接した。
 さて、佐久間象山は、嘉永6年6月3日(1853年)ペリーの来航に当たっての応接は、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航した折の応接は、久里浜で応接の末 幕府に大統領書を受理させた。ペリーは翌年1月16日軍艦7隻艦の艦隊を率いて横浜に再度来航の際も象山は応接を経て3月3日に日米修好条約が結ばれ、日本は開港することとした。
 象山は、1度目の来航時には、浦賀を視察し、海防の策を藩主や幕府に進言し、2度目の来航時にも軍議役として横浜に赴き、応接所警衛にあたった。
 石碑の建造に当たって、この「佐久間象山と横浜」編集「横浜の歴史博物館」によれば、次のとおりであります。
 明治21年(1888)11月、象山の銅像を東京に、事績を称える碑を横浜伊勢山に建立する計画が立てられました。何らかの理由でこの計画は実現しませんでしたが、それから65年後の昭和29年(1954)開国百年記念を祝し、野毛山公園に「横浜開港の先覚者 佐久間象山の碑」が建立されました。碑文は当時の市長平沼亮三によります。     
 ここでは、象山が「通商条約」のための開港場として横浜を主張、その説をうけて幕府が横浜を開港の地と定めたとされています。しかし、象山が通商条約のために横浜開港を主張したわけではないことは、「省警録」などの記述からも明らかです。さらに幕府が象山の説を受けたという資料的な根拠も確認できません。ではなぜ、碑文がこのような表現となったのでしょう?
 碑文の「国際港横浜の今日の発展の緒を作った」という一節もあげられると考えます。象山の横浜開港説は、開港以降世界的な貿易港となった横浜の繁栄と結びつけられ、象山は貿易港「横浜開港の恩人」として、歴史の中に位置づけ直されてきたのかもしれません。と結ばれています。
 一方、「横浜市史第2巻」によると、安政5年(1858年)に、米国、英国、イタリア、ロシア及びフランスの5ケ国と通商条約を結ぶ運びとなっていた。最初は、米国との条約締結であるが、交渉相手は、ハリスであった。彼の家業が東洋の産物を扱っていたが、大火で罹災し、その後、ニューヨーク市の教育局長や兄弟の経営する商店と転々とし、極東を中心に貨物船船主となって太平洋、インド洋を股にかけ「商業航海」の旅に上がるなどその遍歴ぶりが続いたが、極東貿易を目指す1人であったことから、「日米通商条約」の作成者の履歴として極めて重要であった。
 その時、米国政府が日本駐在の領事館を任命する日が迫っていた。彼の経歴はシナ・インドの各地に居住し、通商問題についての広い知識を持ち、東洋における領事官、外交官としての資格を備えていると認められて、日本との通商条約の締結を第一の使命とさせられた。
 一方、日本側には、将軍徳川家定、中老首席堀田正睦、幕府の全権委員井上清直、岩瀬忠震にして交渉が始まり、先ず、ハリスは、将軍に謁見して、大統領の親書を提出し、中老堀田正睦と2時間に亘る日本の鎖国政策から、抜け出し貿易による課税は、日本に大きな収益となり、立派な海軍を維持する事が可能になることなど、自由貿易の利点を説得、また、国民の必要とする食料の生産に阻害するものでもなく、貿易が富国強兵をもたらすことを説いたことは、確かに幕府の求めるところをつき、人を見て法を説け、ハリスは幕府の好むところを察して貿易の功徳を説いたものと思われるとなっていた。
 最終的には、日本の港の何処を開港するかは、岩瀬忠震の考えに、大阪港を開けば大阪の商人一人勝ちとなることから、横浜港を開港し全国の貨物を集積搬送することにより、江戸の経済的利権となることを幕府に「中興一新」する大業を推し進めようと目論見働きかけ、これが実現し条約調印となった。なお、佐久間象山がこれらに関わる事柄は、何処にも記述されていなかったが、井伊直弼は。調印に当たっての幕府側の決められない困難さやハリスとの交渉の経緯などを掌握し指示していた事柄は記述されていた。
 一方、ハリスは、米国の条約を基に、残る4ケ国の条約締結の推進の基軸とすれば容易であるとか、外国人の日本における居住の制限(長崎の様な出島)や日本国内の行動旅行の制限など事細かく交渉の経緯が記述されていたことを申し添えます。
 この後、英国、イタリア、ロシア及びフランスの4ケ国との条約も正に準拠して、締結されたとなっていた。また、開港した日本の港は、神奈川(横浜)長崎港、神戸港、新潟港(捕鯨船の補給基地)、函館港(捕鯨船の補給基地)、下田(神奈川開港6ケ月後に閉鎖)であることを付け加えます。

(佐久間象山の碑)
長野県の教育委員かいでは、佐久間象山「ぞうざん」としたそうであります。

(園内)

(桜木町駅付近の 「ランドマークタワー」)

伊藤博文金沢別邸に来て

2014-11-15 09:29:46 | 日記
 今日は、横浜市金沢区の野島にある旧伊藤博文金沢別邸にやって来ました。目的は、先に投稿した横浜市の水道の生い立ちで知った、伊藤博文公の執った手段に感心を持ち、やって来たものであります。
 それは。横浜市が始めて公営水道を補助事業として、実施する計画を明治政府に伺いを立てたところ、当時、宮内伊藤博文から、その事業規模が壮大で横浜市の年間予算7万円に対し、100万円の工事費を費やすると云うもので、非常に関心と心配をもたれた。
 当時、内宮伊藤博文は、一旦、これを神奈川県の水道工事として実施させ、これが完成の暁には、横浜市に引き継ぐという大胆な手法で完成させたと云うことを横浜市水道70年史より、知ったので、この伊藤博文別邸に何かあるのでは、と思い来たところであります。
 別邸内は、管理事務に入館を告げて、自由に見学をすることが出来ます。受付でパンフレットをいただき開いて見ると建物が3っに分かれ(客間棟、居間、台所棟)それぞれ廊下で繋がっており、外回りは、回廊になっておりました。
 この別邸は、伊藤博文公が初代の内閣総理大臣を務めた明治31年に建てられ、屋根は茅葺の田舎風の海浜別荘建と書いてありました。この地は、東京近郊の海浜別荘地として、注目され松方正義や井上馨などが別荘を設けたとなっていますが、現在は、この伊藤博文別邸だけが残っており、平成18年11月に横浜市指定有形の文化財に指定されたとなっていました。
 また、平成19年に建物の老朽化が著しいかったので、解体し、当時、別邸を管理していた地元の旧家、松本家に保管されていた古図面に基づき、現存していなかった部分を含めて、平成21年10月に庭園と併せて復元し竣工したとなっていました。
 さて、本題の伊藤博文公の功績として、氏は、山口県の百姓の林十蔵の長男として生まれ幼名は、利助といいましたが、利助が12歳の時、父十蔵が萩藩の中間伊藤直右衛門の養子となり、以降伊藤の性を名乗るようになり、安政4年(1857年)に松下村塾に入り、吉田松陰学び、桂小五郎や高杉晋作、井上馨、山縣有朋らと統幕運動に奔走した。
 維新後は、政府の近代化政策の中心的役割を担い、明治18年(1885年)弱冠44歳で初代内閣 総理大臣に就任し、4度の内閣組閣と枢密院議長、初代韓国総監を経て、明治40年(1907年)公爵を授与、その2年後の明治42年(1909年)10月26日、現中国の黒龍江省ハルピン駅で68歳で生涯を閉じました。となっておりました。
 また横浜金沢ガイドMAPによれば、明治憲法の草案をこの横浜金沢区の料亭「東屋」で草安作りをしていた。
 ある日、その草案資料の入った鞄の盗難事件が起きて、それを機に旧別邸で練り上げられたとありました。
 昭和10年に金子堅太郎により「東屋」の庭に「憲法草創之碑」が建てるが、昭和30年に「東屋」の廃業に伴い現在の場所に移されたとありました。
 一方、前述の松本家に保管されていた古図面に、「赤坂仮皇居御会食所」を移築し、金沢別邸に廊下で繋ぐ案が確認できたとあります。
 伊藤博文公の発想は、一般人には考えられない別邸に「赤坂仮皇居御会食所」を廊下で繋ぐ等奇想天外な事を発案するので、横浜市の水道の補助事業を神奈川県が実施し、完成の後に、横浜市に引き継ぐらい容易に考えられる。とうなずくことが出来ました。
 最後に、別邸内には、内閣総理大臣当時の資料などを各棟の部屋に展示されていました事をお知らせし致します。

(野島公園)

(別邸正面)

(別邸海岸側から)

(回廊)

(見取図)

(展示物)

(展示物)

(展示物)

(展示物)

(説明)

(建物内からの海の眺め)

(隣接する牡丹園)

(同牡丹園)

(憲法草創案記念碑)

(記念碑説明)

野毛山公園に来てみて

2014-11-08 09:40:20 | 日記
 今日は、野毛山公園にきました。ここは、JR桜木町駅で下車して、動物園通りを上って行くと左側に、野毛山公園が見えてきます。
 この公園に来た目的は、先に、投稿した金沢七井の飲料水の不足は甚だしく、一方では、水質悪化による伝染病患者が多数発病し、そのほとんどがコレラ患者であったことから、近代水道建設をイギリスのパーマー氏に託し、明治17年に建設の設計等の契約を取り交し4年後の同21年に完成した。と横浜市水道70年史にあっことから、何処かに銅像があるのではと思い、ネットで検索したところ、この野毛山公園に、近代水道設計技術者パーマーの技術を湛える石造があることを知り、出かけてきたところであります。
 来て見ると70年史にあるとおり、現在もこの野毛山公園の真ん中に配水施設が健在でありました。この場所からは、横浜の街並みを一望できる高さにあり、当時は、水道管の水にポンプ圧を掛けて各家々に配水する技術は困難を極めたことと思いますが、この位置であれば、自然落差で十二分に配水が可能であろうと思われます。
 また、パーマーの象もその配水施設に隣接して、銅像が建てられおり、さぞ本人も満足しておられるのではないでしょうか。他国の技術者をこのように湛えられており、横浜市も捨てたものではないと感心させられました。
 園内を歩いて見ると四季咲きのバラがところ狭と残り少ない晩秋を色鮮やかに存在感をアピールしているかのように見えました。
 場所が場所だけに、もしかすると世界遺産の富士山が眺められるのでと思い、木陰から目を凝らして覗いて見るが、丹沢の山々は見えるが、富士山は、残念ながら発見できませんでした。
 すると先ほど、パーマーの銅像の場所を教えてくれた犬を連れの夫人に再び出逢たので、尋ねると「朝早くであれば、動物公園に入る歩道橋の上から、大パノラマで見えますよ」でも、”この時間では、空気暖まりたなびくから無理かも知れないね”と教えられた。
 折角ここまで来たのでと思い、その歩道橋に上がって見ると本当に大パノラマで丹沢の山々の左端に、綿帽子をかぶった富士山が微かに見ることが出来ました。やはり日本人は、富士山なのでしょうか。????
 また、この公園には、女性俳人で日本芸術院賞を受賞された中村汀女先生の「文化功労の顕彰碑」と横須賀にペリーが来航したのを奇貨として、幕末の江戸幕府に、横浜を開港の適地として唱えた「信州松代藩の藩主であった佐久間象山の功績を湛える顕彰碑が建立」されていましたが、これらについては、機会をみて別途、投稿したいと思っています。

(配水場)

(水道技術者パーマーの象)(正面)

(ハーマーの象)(側面)

(園内の散策路)

(台湾リスの食事時)

(奥は展望台)

(展望台から右ランドマーク)

(園内からランドマーク)

(街並み)

(四季咲きのバラ)

(左奥は大パノラマで富士山の眺望が見える歩道橋)

(左奥に富士山手前右丹沢の山々)

(球技場)

(遊戯施設)

(園内)

(園内)

(俳人中村汀女先生の碑)

(佐久間象山氏の碑)

掃部山公園に行って

2014-11-01 16:07:57 | 日記

 今日は、テレビ、新聞の紅葉前線によれば、本年は、近年にない美しい紅葉が全国的に鑑賞できると報道されていますので、安直に行ける掃部山公園に決め出かけました。
 ここは、JR根岸線桜木町駅から、北西方向の坂道、その名も「紅葉坂」を上り、右に横浜文化会館がある手前の道を右に、200mほど行くと掃部山公園の入口が目の前に出迎えてくれます。
 行って観ると桜、ケヤキの木などが色ついていました。東南東の眼下に横浜港やMM21の街並みが目に飛び込んできて元気を貰った感じになりました。しかし、紅葉には若干早かったようであります。
 それでもお昼時と云うこともあって、公園の芝生の処には、修学旅行生か?一斉に弁当を広げて、楽しげに「わいわいがやがや」と話す生徒や弁当を頬張る生徒の顔(^^♪でありました。
 この公園の北側を下りて行くと日本庭園がありました。此方は、静かで池の周りにも市民がパラパラと紅葉を楽しむ人々や親子ずれの家族が、遊戯施設で楽しんでいました。
 さて、今回は、観風の目的の外に、井伊掃部頭直弼の銅像が建っているとネットで見たので掃部山(カモンヤマ)に来たのですが、銅像の大きさに圧倒されました。
 氏は、皆さんご存知のとおり、近江八幡の第15代播種として、また、幕末の江戸幕府 (大名が詰める席が、大廊下、大広間、溜間、帝艦間、柳間、雁間、菊間広縁の七つ間があったとされる、その間うちの溜間の上席の(「この間では、幕府の重要事について幕閣の諮問を受ける部署」)) の大老を務め、日米修好通商条約の調印に向け尽力されて、その結果、近代日本の発展の端緒つくったと云われていますが、当時、これに反対する勢力の反動を受けて、桜田門外で暗殺されてしまった。
 この井伊直弼の銅像でありますが、今回行って、案内標示を見たり・ネットで調べると幾多の経緯があって、それは、明治14年に旧「彦根藩有志」は、大老の事項に縁故深き横浜戸部町の一岡を掃部山と称して、ここに造園を施し、明治42年園内一角に銅像を建立し、大正3年園地とともに、これを横浜市に寄付され、その後、第二次世界大戦中に、日本政府による強制的な金属回収により、昭和18年に銅像は拠出撤去されてしまった。
 しかし、昭和29年開園100年記念祭の催の一環として、開園に由緒深き井伊直弼(井伊掃部頭直弼)の銅像が再健され併せて、掃山公園の整備をなされたと云う、今回の散歩で、幸運の銅像であったことを始めて知ることがでました。
 なお、井伊直弼公の藩主としては、藩政改革を行い名君と呼ばれていたようであります。これを湛え、彦根市の彦根城金亀公園に井伊直弼公の銅像が建っているそうです。
 最後に、この掃部山公園に隣接して、横浜能楽堂があり、堂内の見学が自由にみる事が出来ました。このことを申し添えます。

(公園の配置図)

(井伊掃部頭直弼象の正面)

(井伊掃部頭直弼象側面)

(井伊掃部頭直弼象背面)

(銅像の裏面の標記)

(銅像の再建の標記)

(日本庭園への路)

(日本庭園)

(日本庭園)

(遊具施設で遊ぶ親子ずれ)

(銅像前の広場)