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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

見尻坂について

2016-09-24 08:57:17 | 日記
山下ふ頭入口から、JR石川町駅に向う河岸通りを歩いていくと「シドモア桜」を右に眺めながら行くと増徳院跡があります。これから左に入る道が、見尻坂であります。横浜の坂著者 小寺 篤 発行 今野繁光」には次のようなことが記述れていましたので、投稿いたします。
さて、この見尻坂というのは、どの地図にも無名のまゝになっていて、たった一つ、明治30年代のものだという地図だけにそれが出ている。
その名のように急な坂なのであるが、急な坂を「見尻坂」と名付けた例はしらない。ただ下りるときの急な坂を「尻こすり坂」というのがあるそうだから、上がるときに前の人の尻がすぐ眼のさきにくるほどの傾斜を「見尻坂」と称してもおかしくない。あまりひとの通らないところであるが、まれに上る人達は、等しく息をきらして途中で一息いれている。ほんの短い坂ではあるが、まさに急な坂である。
これを上りきると外人墓地入口門にでて、左側にはアメリカ山公園にはいりますが、さらに進むと、左に横浜地方気象台へ、山手本通りを左に折れて海に向って行けば、ゲーテ座跡や港が見える丘公園へと繋がります。とありました。


(元町公園見取り図 現在地表示の左上から 見尻坂に繋がります)

(見尻坂の入り口)

(階段前の途中)

(見尻坂の階段 横浜の坂著者より緩やかな坂であった)

(アメリカ山公園入口)

(アメリカ山公園内)

額坂について

2016-09-17 08:49:25 | 日記
 JR石川町駅から、山下ふ頭入口に向って歩いていくと元町公園プールへ向かう道を歩いていくと「ジェラールの瓦工場跡」の標示板の立っているすぐ前の石段のみちがあります。これが額坂であります。
「横浜の坂著者 小寺 篤 発行 今野繁光」には次のようなことが記述れていましたので、投稿いたします。
 さて、額坂の語源でありますが、フランス人ジラウが池を掘り、池の上にへ自分で焼いた煉瓦と瓦で上屋を造り、水質純良の水がこんこんと湧き出て水屋敷として、これを居留地に、また着船場への給水管にも自分の製造した土管を利用して売り込み等を始めた。そこで「額坂」であるが、明治30年代の地図に出ているだけなのだが、多分「ひたいざか」と読むのではなかろうか。両側の谷にはさまれて額のように突き出した崎の高いところを二つに分けて通じている坂、たとえば笹下町に「うとふ坂」というのがあって、「江戸の坂東京の坂」の著者によると「とにかく「うとう」は「鳥頭」であって善知鳥(うとう)の「くちばし」に似たような地形、すなわち、山や海辺の出崎を言ったのであろう。」というような例もあって、これにならえば「ひたいざか」もおかしくはない。
 この坂は、石段の坂ではあるけれども。二・三歩は敷石でつぎに一段上る繰り返しなので、その点とんとん急がしい運動をつづけなくともむすむようになっていて、この工事はなるほどあまり立派なものではないが、年月を経た古さにどこか親しめるものがある。と云うような記述がありましたので、投稿したします。

(額坂の上りきったところに 坂の標識)

((額坂の上り口付近)

(階段坂が二つに分か右がプール方向へ左側が上り口方向へ)

(ここが、語源の「鳥頭」であって善知鳥(うとう)の「くちばし」に似たような地形「ひたいざか」)

(フランス人ジラウの池)

(元町公園の水屋敷と云われる公園入口)

潮汲坂について

2016-09-11 08:25:04 | 日記
 横浜ミナトマプに基づき、JR石川町駅から元町ショッピングストリートを歩いていくと厳島神社の鳥居を見過ごし初めての丁字路が潮汲み坂でありました。「横浜元町140年史 編著者 元町の歴史編纂委員会 発行 杉島和三郎」によるとによると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 坂の名の由来ははっきりしないが、文字通り、山手の丘に住む住人が塩を求めて海水を汲みに降りた坂と考えるのが普通だろう。戦災で焼けるまで、この坂の両側に女学校(略して横浜高女、いまのフェリスの前身)があった。横浜高等女学校の先生だった中島敦は「かめれおん日記」の中でこの坂を転げ落ちるみかんを追う先生の姿を描いている。坂を上りつめ、反対側の坂を下れば元町小学校の正門にでる。とあった。
 一方、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光に、坂の斜面にある学校のふんいきの出た文章が、その女学校の教師であった「中島敦」の書いたエピソード「かめれおん日記」を紹介すれば、潮汲坂が巧まず浮かんでくるのでその一節に「今年の正月のこと、何処かのクラス会で、生徒が三・四人、密柑や煎餅を買い出しに行った。
 学校の前は山手から降りて来る坂になっているのだが、その坂の途中迄、風呂敷をぶら下げて買い出し係りの生徒等が上って来た時、一人のもっていた風呂敷が解けて、中から密柑がこぼれた。二つ、三つ、四つ・・・・七つ、八つかなり急な坂とて、鮮やかな色をした密柑が続々ところがり出した。その生徒は思わぬ失策に、ひどく顔を赤らめ、風呂敷を結び直すのがやっとで、転がる密柑を追いかけるどころではなかった。
 学校以外の人々の往来も相当にあるので、一寸恥かしかったであろう。丁度その時坂の上に立っていた吉田は、之を見るいなや猛烈な勢いで駆け下り始めた。小石を蹴飛ばし、砂利で滑りそうになり、つんのめりそうになり、途中に立つ生徒を突き飛ばして、短足の彼は、背中を丸くして、密柑を追いかけた。一度転んだが直ぐに起き上がり砂も払わずに又駆け出し、到頭十五、六の密柑を悉く拾い上げ、坂の片側の溝に転げ落ちるのを防いだのである。
 生徒等も通行人も呆気にとられて立ち止まり、彼の猛烈な勢いに見とれていた。吉田は密柑を手に持ち、ホケットにも入れて、『みんなポーと見とっちゃ駄目やないか』と生徒等に叱言を言いながら、又登って来た。」(「かめれおん日記」)であります。この坂が 「潮汲坂」であろうが、「潮見坂」であろうが、どちらでもよろしい。このような小さな事件をもひとつの歴史として、この坂は生きているのである。とあり由来には触れていなかったことを記述し、併せて投稿いたします。

(本町本通りにある潮汲坂表示)

(下校する女子生徒)

(坂の途中ね様子)

(同じ)

(同じ)

(坂の上り口)

(同じ)

(上り口を上から)

(町案内版)

代官坂(箕輪坂、ヘフト坂)について

2016-09-03 08:18:48 | 日記
 横浜の坂一覧図に基づき、山手本通を港の見える丘公園に向っていくと代官坂の道路標識がありました。「横浜本町140年史 編著者 元町の歴史編纂委員会 発行 杉島和三郎」によるとによると次のような記述がありましたので、投稿いたします。1丁目と2丁目の間を車も通れる緩やかな坂がある。この坂を「代官坂」地元では「お代官坂」ともいっている。坂の中腹に、元町の旧家石川家の屋敷がある。開港時、石川家の当主は11代石川徳右衛門で、横浜村の名主であった。のちに町惣年寄になるが、この第11代を含めて石川家の当主が幕府の「代官」であったことはない。だが、元治元年ごろ、幕府が浪人の取締を強化した際、石川徳右衛門宅に代官が立ち寄ったことから、石川家を通称お代官と呼ぶようになった。坂の名もそれに発している。
 代官坂の名で呼ばれるようになったのは、明治17年山手居留地の町名改正のときからで、それ以前は箕輪坂(三ノ輪坂)と呼ばれていた。箕輪坂の名の由来は、「この本の”元町史跡散策”に」山手の丘を越えて北方・本牧へ行く道で箕輪坂と称していましたが、坂の途中この地に横浜村名主石川右衛門が居住していたことから、代官坂と呼ばれています。箕輪家からは久良岐郡郡長を務めていた箕輪三郎も出ている。
 一方、この坂をヘフト坂あるいはヘキ坂と呼ばれたこともあつた。山手が外国人居留地になったとき、蘭人「ノールトフーク・ヘクト」がこの坂の周辺を数ブロック借りて、そこに自分の居邸を建てたことがある。そこへ上る坂を自力で整備したところから、地元民の中でヘフト坂またはヘキ坂と呼んだ。ヘフトは「ゲーテ座」をつくった人としても知られている。
 元街小学校や上野町、本牧へ通ずる代官坂トンネルが開通したのは、昭和7年7月である。

(代官坂付近の見取図)

(石川町駅側の代官坂標識)

(本町本道り入口の代官坂標識)

(坂道の中間付近)