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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

恒川柳作について

2017-03-25 16:13:11 | 日記
 横浜港の七不思議「象の鼻・大桟橋新港埠頭」著者田中祥夫には次のような記述がありましたので、投稿いたします。1894年(明治27年)5月恒川柳作は、横浜船渠会社の用地を踏査する。横浜港との関わりの始まりである。恒川は上京の機会をとらえ立ち寄ったらしい。ドック設計のベースになる地質調査を行なうためである。彼は、必要な指示をして急拠、佐世保へもどっている。この調査について、同社の第1回「営業報告書」「神奈川県史」に記述されている。
 これら実務は、会社が採用した牛島辰五郎らにより、5月14日から6月6日に行なわれる。その結果が9日、恒川のもとに送られた。また、同日の取締役会で、船渠計画を長さ350尺(約106m)と500尺(約151m)の2基(前計画は4基、パーマ―案による)とし、両ドックの設計及び費用算出を行う。埋立区域を当面約2万坪(66、000㎡)(前計画は3万6500坪(120、450㎡))にとどめる。などを決定する。
 ただちに、その旨が佐世保にいる恒川に伝達された。こうして横浜から届けられるデータ類にもとづき、ドックの図面をひいた。同年8月25日、計図6枚、工事予算書1式が横浜船渠へ届く。
 今の「みなとみらい」にある2つの石造ドックの設計図書は、こんなぐあいに1200kもの間を主要な情報が行き来しながら作成された。現在とは格段に違う通信事情を考えると、双方とも随分苦労があったことだろう。
 恒川は「昼間ハ公務ニ服シ、その余暇専ラ夜業」でこの設計に取り組む。軍港の一室、裸電球(ヒイラメント式の電球で中が見える)の下で、図面と格闘する髭面の顔が目に浮かぶようだ。こういう激務になったのは、やはり心配したように、軍側が恒川の佐世保転出に後ろ向きの姿勢だったからである。それで、会社が海軍に同技師の拝借願いを提出して頼み込み、ようやく夜なべ作業でスタートすることになった。
 同省が恒川の業務にこだわったのは、日清間がきわめて緊張の時期1894年(明治27年)8月1日宣戦布告だったからだ。
 彼が横浜船渠の用地を踏査してまもない閣議(6月2日)で、いっきに韓国への派兵が決定されている。こういう情勢で枢要な地となった佐世保だが、鎮守府の施設整備が三鎮守府中、最低だった。第1船渠の起工(9月予定)が急がれていたのだ。
 こういう緊迫下だったから、公務の余暇に設計との話も、佐世保鎮守府は目をつぶるといったものだったらしい。
 一方、「横浜船渠百年史」には、恒川に白羽の矢を立てた事情を次のように説明する。適任者の選択に東奔西走するなかで、海軍技師の恒川柳作が海軍横須賀造船所(海軍工廠)二号ドックの建設など船渠築造の経験に富む最適人者とわかり(後略)
 ここでは、恒川の経験に横須賀二号ドック(1884年(明治17年)6月竣工)があげられる。これは恒川の横須賀時代、建築課の掛員及び掛主任のときのこと、いわば修行中の経験で、横浜船渠が彼を選任する10年も前の話だ。会社側としては、もっと最近の実績を知りたかったはずだし、その情報をつかんでいたと思う。私は今回、彼が横須賀以後に、かなり重要な仕事を成し遂げた事実をしった。これが横須賀船渠の恒川指名の要因だろう、と考えている。
 わが国のドック築造の嚆矢は、周知のごとく横須賀製鉄所(造船所)である。F・ヴェルニー(フランス人)指揮のもとで、一号ドック(L・フロラン)設計、明治4年築)、三号ドック(V・フロラン設計、7年築)が建設された。その後、先のように恒川も携わった二号(E・ジュェット設計)がつくられる。
 この間、長崎工作分局(長崎造船所)ではV・フロラン建築師長のもとで第一ドック(明治12年築)が誕生する。いずれもフランス技術陣によるもの。
 では、外国人の力を借りずに、日本人の手で築造された初のドックはどこか。呉鎮守府の第一渠(山崎源次郎設計、1891年(明治24年築)である。「各海軍建築部沿革概要」(海軍省建築局「広島県史」所収)も「邦人技術者カ始メテ外人ノ手ヲ離レ単独施工セシモノ」と紹介する。横浜船渠がパーマーの後任を求めた1984年(明治27年)までに、日本に築造された主要な乾ドックは、以上の外国人による四基とこの呉を加えた五基しかない。
 実は、この邦人初という榮を担う呉の第一船渠築造の最高の功労者が恒川だった。彼は、この工事の全工程を責任もって担当する。川田らが「東奔西走」中にこの事実をつかみ、横浜のドック築造を彼に託す決断をしたと考える。ヴェルニーの「仏蘭西学校」に学び、横須賀の工事現場で習得した技術が、呉で開花したのだった。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(偉人達の業績標)

(恒川柳作氏の業績標)

市原盛宏について

2017-03-18 18:56:08 | 日記
 横浜市史第4巻下編集兼発行者横浜市には、次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 明治36年(1903年)1月9日付けをもって就任した市原市長は、横浜繁栄のためにきわめて積極的な抱負と姿勢をもって市政にあたり、旧来、党争に明けくれて、沈滞した空気に包まれていた横浜市政に溌溂たる空気を吹き込み、横浜の近代化に大きな功績を上げた。では、彼が、具体的に横浜市の発展のためにえがいた市政改革のビジョンとは、どのようなものであったか。まず、彼の施政方針を語った演説から、それを探ってみよう。
 市原市長は、同年7月7日、横浜会館に、市の名誉職・会議所議員・新聞記者百名を招待し、今後の横浜市政について、率直に自己の見解を吐露し、市民の協力を要望した。このように、市長が、市会ではなく、市民を対象にしてその所信を公にし、市民に訴えたのは、横浜市政はじまって以来の出来事であり、「横浜市長空前の快挙と報道された。さらに、この演説の概略は印刷されて有志の人々に分けられ、さらに新聞紙上を通じて、市民の前に明らかにされたのである。
 従来、市会議員もしくは、数名の市参事会員と市長との取引と協議によって、重要な市政の諸問題が決定され、市政への理解と参加が少数者に限られていたことを考えると、この市原市長の施政方針の公開は、市民に市政への参加と理解を訴える極めて積極的意義をもっていたと云わねばならない。もちろん、当時の制限選挙制のもとでは、有権者が一定の有産者以上に限られていたのであるから、市原市長の頭にえがかれていたのは、横浜在住者の全市民ではなく、ある限られた階層の市民にすぎなかったのはいうまでもない。しかし、このような制約があったとも市長が市民に対して直接に話しかける積極的姿勢は、今までの市長には求められなかったものだけに新鮮な感じを与えたのである。市長の選出が間接選挙であった当時にあっては、市長が接するのは、市会議員や市参事会者に限られ、市民の市長に対する門戸は狭く閉ざされていた場合がおおかった。これに対して、市原市長は、少数の有力者が、市行政当局とのなれあいのもとで市政を壟断し、あるいは党争にあけくれるという弊害を認識し、より広い支持基盤の獲得によって市政改革の活路を開こうとしたのであった。なお、具体的演説の内容は長文でありますので、省かせていただきます。
 一方、波乱の半世紀 編集発行 横浜港資料館には、次のような記述かつた。氏は、安政5年(1858年)肥後の国に生まれ、熊本洋学校、ついで京都同志社に学び、その第1回卒業生となる。明治19年(1886年)仙台の東華学校副校長(校長は新島喪)のちアメリカのエール大学に留学して経済学を専攻。明治19年(1893年)に帰国、同志社政法学校の政治学教授、ついで教頭に就任した。明治28年(1895年)日本銀行へ転じたが明治32年(1899年)辞職、同年渋沢栄一の後援で第一銀行本店副支配人、明治33年(1900年)同行横浜支店支配人(翌年支店長)となる。明治36年(1903年)1月、原富太郎らに推薦―されて横浜市第4代市長に就任した。と言う記述がありました。

(偉人達の業績)

(市原盛宏氏の業績)

安芸杏一について

2017-03-11 10:01:33 | 日記
 安芸杏一氏は、大正12年の関東大震災より被災した横浜港の復興に尽くされた人物である。父は河川工学で知られる安芸皎一の長男として生まれ、「土木技術特集:震災復興まちづくり編集者谷内家之 発行者柴山斐呂子」によると次のような記述がありました。
 横浜港の被害状況は衆知の如く慘々たるものであった。この被害状況を把握するまもなく、先ず緊急に対処せざるを得ない状況の解消から復旧スタートした。横浜港湾施設のほぼ全滅だけでなく、横浜港にかかわっていた人達の被災と救助が、まず第一にあった。
 横浜土木出張所で震災を経験し、安芸杏一の下で難局にあたった糖澤惟助は、安芸杏一の追悼を書いている。
 糖澤によれば、安芸杏一は三重苦にみまわれた。その1つは所員の家族が火に追われて、新築間もなかった庁舎に300人ほどが避難してきた。
 所員の罹災家族の救護、食料品の確保、庁舎工場などの片付、船舶の保全、資材の確保、陸上の保安と自警のほか、各官庁間との連絡など応急処置が山積して戦場さながらの状況を呈した。その際、横浜土木出張所職員を主体とした個人寄贈品が記録されている。安芸杏一が所員を督励している様子がうかがえるのである。
 さらに安芸杏一に重くのしかかったのは、次男悌一がチフスを病み、戸部の病院に入院していた。その病院が
地震で半壊してしまい、発熱40度の病体を救い出し、猛火に追われながら官舎まで急ごしらえの担架で避難させた。
震災直後のこうした難関を一応突破して間もなく、安芸杏一は技術者としての重い仕事に着手した。関東震災直後の内外の新聞には、横浜港の被害が甚大で、ほとんど壊滅状況であると報じられました。港湾としての再起は危うしとまで報じられた。これに対して、ただちに内外の新聞に復旧は可能であって、1〜2年のうちに完成する見込みがあるとの声明書を発表した。復旧工事は安芸杏一の宣言のとおり順調に進み、大正13年(1924年)5月早くも日本郵船所属の鹿島丸が岸壁に係留され、翌年9月の大桟橋工事の竣工をもって予定工期より1ケ月ほど早く工事が完了した。
ついでながら、こうした安芸杏一の横浜港復旧工事は横浜港の復旧にとどまらず、新たな横浜港拡張計画実現への道を開く事となった。
横浜港の関東震災復旧工事は、安芸絞一顕彰の第一事項である。横浜開港にあたり、2本の突堤が造られた。明治初期に東側の突堤を弓なりに延長した。この形から「象の鼻」とよばれるようになった。開港150周年を迎えた平成21年6月、横浜にあらたなスポットが誕生した。「象の鼻パーク」である。その中に、スクリーンパネルが弧を描くように配置されている。スクリーンの側面には、「みなとを造った偉人たち14名」の紹介が記載されている。その中に安芸杏一も横浜を造った偉人として登場している。関東震災の復旧工事が横浜の都市形成にいかに重要なことであったかを物語っている。という記述がありました。

(偉人達の業績標)

(安芸杏一の業績標)


原 善三郎について

2017-03-04 16:57:45 | 日記
 生糸を中心に実業界に大きな足跡を残した人物であります。 明治の横浜の人 著者川口正英 発行二宮孝之によると次のような記述がありましたので投稿いたしのす。
 氏は、文政10年(1827年)4月28日武蔵国(埼玉県)児玉郡若泉村渡瀬に長男として生まれました。家業は農業を営むかたわら繭や生糸の取引も行っていた。彼が横浜に出るとき出店に大枚2000両を投じたということから彼の家の富有の度が計り知ることができる。
 当時武州・上州は早くから養蚕・製糸が盛んで、桐生、伊勢崎、足利、秩父八王子などの地元機業地へ生糸を出す外遠くは京都へも「登せ糸」と称して生糸を送るための市場が前橋、高崎、本庄、町田などに一定の日にさだめられた糸市が立っていた。ここは近在の百姓、商人、機業者間で生糸の売買が行われていた。善三郎もその1人であった。
 安政6年(1859年)の横浜開港後は、善三郎は地元の生糸を集めては、横浜の問を往復して売りさばいた。善三郎は幕末の社会情勢から横浜への開店を躊躇していたようであったが、安政6年(1859年)店舗を本町3丁目に設けたが、のち弁天通り3丁目に移って、商号を亀屋と称して開業した。善三郎は前述のように資本金を所持して横浜に出てきたのであるが、その当時しばしば外国貿易に反対して、暴動を起こした浪士に襲撃されたことが数次に及んだということがある。しかしその危難も漸く免れた。かくして彼は努力の末、慶応元年(1865年)には横浜第一の貿易商人になっていた。従って明治新政府の時代にも、その方針が自ら合致するのであった。
 彼は明治2年(1869年)通商為替方となり、通商会社と為替会社とを設立し、その頭取になった。また同年生糸改会社を設立して、その頭取にも推された。
 この年には我が国日刊新聞の始まりである横浜毎日新聞の創刊に際し、他の数人とともに資金協力している。明治5年(1872年)京浜間の鉄道開通式に天皇陛下がご出席されたき祝辞を述べる光栄に浴した。明治6年(1873年)には第二国立銀行を茂木惣兵衛などとともに創設して、頭取に推された。
 なお、この頃から原合名の基盤づくりにつとめた。明治13年(1880年)4月13日には横浜商法会議所が設立されたのであるが、これが創立にはその発起人は彼をはじめ小野光景、茂木惣兵衛、早矢仕有的等16名の財界の重要人であった。そこで彼はこれが実現に努力した。その故を以ってか彼は初代の会頭になった。ちなみに明治28年(1895年)12月14日横浜商業会議所発足の時にも初代会長に推された。
 彼はまた、明治13年(1880年)連合生糸荷預所設立運動が行われるに当たっては、彼の指導的立場からこれが実施に努力した。
 当時横浜には輸出商品があふれ、所謂買手市場となり、輸出品の販売に消極的立場に在った。そこで輸出品を共同倉庫に集積しておいて、その販売を調制しようとするものであった。
 明治19年(1886年)には横浜養蚕貿易商組合を設立して、その組合長になり、明治27年(1894年)3月20日には横浜蚕糸外四品取引所が原善三郎、若尾幾造等実業家60名の発起によって、設立され、原善三郎が理事長になった。
 上記のように善三郎は実業界に大きな足跡を残しているが、同時に政治的にも大きな功績をあげている。即ち彼は、明治22年(1889年)には初代横浜市議会議長選任され、県会議員には既に明治12年(1879年)の初度の選挙に当選してその足跡を残している。明治25年(1892年)には埼玉県より選出されて、衆議院議員となり、つづいて三期連続して議衆議院の議席を占めた。また彼は、明治30年(1897年)6月には貴族議員に選出された。その他彼は、幾多公職に就いている。
 彼は、明治22年(1889年)日清間に険悪になっている折、海防費として、金2万円也を献納したことによって、黄綬褒章を賜り、正6位に叙せられた。明治32年(1899年)には病を得て、2月6日死去した。享年73歳であった特旨を以って位勲4等に叙せられた。という記述などがあったので、投稿いたします。

(偉人達の業績標)

(原 善三郎の業績)