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北海道からのレポート

2013-07-27 07:00:14 | 日記
今回は、北海道からのレポート(その一)として、十勝地方の西部にある清水町人口約1万人の町訪れましたので、この地方の農家の現状をお伝えりします。
十勝支庁の面積は、岐阜県に相当する10,831km²の(岐阜10、621km2)面積を持ち、1市16町2村で構成され、清水町の農家戸数380戸弱、農業人口は、1、100人余りで、この地方特有の穀倉地帯であります。
最近の農家の主要作物として上げられる小麦、甜菜(ビート)次いで馬鈴薯(澱粉原料)が多く栽培されて、小豆、大豆等の豆類は少なくなったと云われています。小麦は、主に、前年の馬鈴薯の収獲が終わった後9月頃に種を播き、 翌年の7月末に収獲する越冬作物で、収獲まで2年掛るものであります。
この間、根雪になるころ、小麦の葉が枯れないように、農薬を散布し越冬に備えます。何分にも外気温イナス20°を超える厳寒気を乗り越えますが、幸いにも積雪の下と云う好条件下で、翌年の春青々とした葉が雪ノ下から顔を覗かせば、十勝にも春が来たと云う知らになります。しかし、降雪量が余りにも多いときは、融雪剤を散布しなければならない場合もある模様です。
この収獲する7月末の収穫には、コンバインを用いますが、更に、天候と云う試練を乗り越えなければならない、最大の難関が立ちふさがります。
それは、降雨により小麦が濡れている時は、収獲する事ができません。何故なら、物理的には、コンバインに藁が絡まったり、実が潰れたり品質に支障来たす事になり、また、製品として製粉業者に引き渡すには、実の水分を13%程度までの整品にしなければ、保管中に変質したりするからであります。加えて、整品にする乾燥料金等にも響くこともあります。
時には、収獲が不可能となり、最悪の場合は、小麦の穂から芽が出て、商品にならず家畜の飼料向けとなる場合があるそうです。この場合の価格は、通常の1割にも満たな事態となり、経営に大打撃となり、僅かな共済金が支払われますが、運悪くこれが2,3年続くとそれが、小麦の平均売上金額と位置ずけられて、年々共済金を受け取る額が下がる事態となるそうであります。
今年は、雨天が7月の28日頃から続き、収獲ができない状態で、コンバインの運転手を待機させている状況でありました。
 天候被害の恐ろしさは このように、作物を育てる生育期間は勿論のこと、収獲まで精根籠め、手塩をかけて育てても、最後の最後に天候と農産物価格の取引にも左右されると云う、自然現象や商取引の二重苦に耐えてこられた農家の方々の精神力に敬意を表すると共に、これからも国民の食糧を確保していただく産業の一つ声援をお送りしたいものであり、農業を営む大変さを一層感じさせられたところでありました。

道路の除雪に備えて道路側に矢印の付いた板が上から下がっている。ここまでが車道を意味する)

(小麦畑)

(小麦畑倒伏が酷くコンバインの収獲に支障をきたす。)

(馬鈴薯畑)

(馬鈴薯の花)


(甜菜<ビート畑)




大塚・歳勝土遺跡公園を訪ねて

2013-07-25 20:13:21 | 日記
 今日は、大塚・歳勝土遺跡公園を訪ねました。この公園の遺跡は、パンフレットによれば、弥生時代中頃の竪穴住所跡85軒ですが、古くなった住居を何度も建て替えたり、建物を広げたりと同一場所に新しい住居を建てたりしたものを延べ軒数で数えると115軒あったとありました。これら住居は、同一時期に建て替え等を行ったものではなく、長い年月を経て、大塚ムラが営まれていた間に住居が幾度も立て直され、捨てられた事を示(住居跡地同士が重る)していると考えられそうであります。
 また、この公園を管理している職員に高床の建物の存在を質問したところ、竪穴住居3~5軒に1棟の高床式倉庫を設けて、穀物の貯蔵にネズミの食害を守るために、ネズミ返しを設けていたと説明がありまた。
 これら竪穴住居集団の回り600mほどを幅4m深さ2mの溝が掘られ外敵などから防御する知恵を働かしていた模様であります。
 加えて、住居地に隣接した「方形周溝墓」とよばれる形をした四方に溝を掘って囲み、中央に棺を埋設して祭る一方、溝にも子供と見受けられる棺が発掘されたとありました。これら遺跡は、昭和61年に国の史跡として指定されている。
 この外、公園内には、江戸時代中から後期の民家「旧牛久保村」名主をつとめていた「長澤家」を移築した建物が保存されておりました。この民家は、主屋と馬屋が平行し建てられていて、「武蔵南部特有の形」をしているとありました。
 「南面」には、床の間、中の間、いろりの間、広間、「北面」には、オキノヘヤ、ヘヤ、流し、この他、土間があり、総面積148.73平方メイトル(45坪)となっておりました。
 一方、横浜地下鉄センター北駅近くに、横浜歴史資料館があり、前述の大塚・歳勝土遺跡の資料始め、原始、古代Ⅰ、古代Ⅱ、中世、近世、近現代の6つを各室に分けて、それぞれの時代の人々の暮らしぶりを再現し、当時の生活に用いられた物も展示してありました。
 この他、体験学習コーナーやミュージアムショップ等も設置されており、横浜らしく、この資料館は人々の生活に関するものに限定した資料館であった。
 (横浜開港記念館、遺跡文化財センター、横浜都市発展記念館)
 今回の大塚・歳勝土遺跡公園は、今から2000年程前から、集団生活の住居地域の安全や墓まで備わっていたことを見て、正しく、ゆり籠から墓までを考慮して、集団生活をしていたことに、関心させられ帰宅したところでありました。

(竪穴住居)

(竪穴内部模型)

(竪穴調査現地)

(高床倉庫)

(方形周溝墓)

(長澤家移築現況)

(長澤家移築前)

(長澤家土間)

(手前いろりの間)

(古代絵巻)

大山にて

2013-07-20 12:13:26 | 日記
  今日は大山へ行ってきました。大山は、東京・横浜からわずか2時間余りのとろで、丹沢大山国定公園で標高1252mのピラミット型の山で、山頂に阿夫利神社本社があり、眺望は、眼下に江の島、相模湾、三浦半島遠くは、房総半島や伊豆大島まで眺めることができます。本日は、残念ながら霧がかかり眺望は今一でありました。
 阿夫利神社は、関東八州(相模、武蔵・上野、下野,安房、上総、下総、常陸)一番札所で、大山の山頂に中複には下社があり、パンフレットによると紀元前97年頃の創建と云われており、同社に伝わる舞は、奈良の春日大社より伝授、現在では、宮中においても春日大社にもこれだけの曲は伝わっていないと云われ、神奈川県無形文化材に指定されているそうであります。
 下社の社殿の脇から地下に降りるところがあり、それを降りて行くと、大山名水(神泉)の湧き出る「山内只一ケ所の貴重な水源から」引いて来た泉がありますが、本当に清らかな泉でありました。また、その奥には、「さざれ石」君が代に唄うわれている「千代に、八千代に」年月とともに成長して「巌となる」貴重な霊石は、岐阜県春日村の特産で天然記物に指定されている石が奉納されていました。
 この中腹の下社には、ケーブルカーで上がってきましたが、平日のため、人も疎らでありましたが、下界の空気と違いオゾン一杯で、標高が678mあるためか涼しい一時を送ることができました。
上りのケーフルの運転手は、入社間もない青年のようで、指さし・発声確認を丁寧に行って運転を開始していました。
帰りは、超ベテランの社員さんで、段々と雲行も悪くなり、乗客の気持ちも落込んだ様子で乗り込んで来るのを見ていた為か、指さし確認はしていましたが、発声は心の中、サービス精神旺盛で、今日の写生は白ペイント一本で出来ますねと、冗談を云いながら乗客を和ましてくれました。
下山するとともに雨がホツポツと降ってきて、大山の別名「雨降山」と呼ばれているそうですが、当たっていると実感しながら、二人で車を走らせ帰りました。

(大山入口)

(大山ケーブル駅)

(下社)

(大山名水の泉)

(白一色の下界)

舞岡公園散策

2013-07-13 09:13:01 | 日記
 今日は、舞岡公園に市営地下鉄を使い行ってきました。改札口で舞岡公園へ行く方向を確認して歩いて行くと程なく舞岡八幡宮の鳥居が見えてきました。近づいて行くと境内は、丘の中腹にあり、階段を上って行くと御社が見えてきました。境内に入ると案内板があり、この八幡宮は鎌倉時代からこの地域の鎮守さまとして祀られているとありました。
それから、ネットで調べた総合案内所へと歩いて行くと「虹の家」と云う立派な建物がありました。この建物は、農林水産省の補助事業「ガットウルグアイランド」の対象{農産物の関税撤廃で農業者の経営圧迫解消のために、水田の用水確保のため調整池の整備始め、用水路の改修等を対象}の建物ようで、建物の中には、地域の昆虫写真の展示や「舞岡ふるさと村」で行う体験講座や自然観察会等の行事のパンフレットがありました。
 販売資料の中に「舞岡ふるさと村」散策マップがあったので早速買い求め、見ると散策コースが3コース(①瓜久保の家・小谷戸の里コース、2時間 ②ふるさと森コース 45分 ③歴史探索コース45分)が示されていたが、舞岡公園へ行ける①コースを選択して、小谷戸の里(古民家「旧金子家住宅」)を目指して歩いて行くと小川の護岸がコンクリートではなく、自然に優しい玉石で固めた「小川アメニティー」と表示された小川の脇に沿った小道が何処までも続き公園への標識もなく心配になり、通り掛りの人に尋ねると「バス停を越えると公園ですよと教えられ」暫く行くと舞岡公園はこちらとありました。
 今度は、山里の道を進んで行くと耕作体験の田んぼが見えてきて、畦に囲まれた田んぼ1枚、1枚にNoが振ってありました。自分が何処の田んぼに苗を植えたかを確認できる様にしている模様であります。
 その田んぼのバックにある森、これぞ本物の山里風景と目に飛び込んできました。右に曲がると道端に椅子に掛けた2人のシニアー風の方が、その風景に鉛筆を走らせスケッチしており、プロ裸足見惚れました。更に進むとヤット2棟の古民家が見えてきた。両方共に屋根は萱葺で入母屋造りでありました。
 一棟は、生活の場として、土間つくりでイロリやカマドが当時のままで保存されており、昔の生活に触れさせていただくことができました。もう一棟の方に行って見るとそこは、納屋で畑を耕す鍬から、脱穀機や籾を選別する器具等など農機具の数々が展示されていました。現在の農業とは程遠く何れの器具も人力による物ばかりで、よく身体を壊さず農業ができたものだと感心し致しました。
 次には、地図上の池めぐりをしようと思い「さくらなみ池」を目指して行くと、「さくらなみ池」と隣接にして「宮田池」がありました。両方の池共に鉄分が多いためか、赤茶けた水が淀んでいました。立ち止まって写真を撮っていると「ウシガエル」が「グォー、グォー」と千葉の「印旛沼」へ行って以来の鳴き声で懐かしい感じがしました。何でもその昔食用として養殖していたものが、逃げたのか離したかは分りませんが、確りと生存しておりました。
 次は、「瓜久保の池」を目指し「中丸の丘」越しに位置するので上って行くと視野が広がり広場に出ました。ここも地図にはない「中丸の丘」のようである。椅子に休んでいる監視員風の方が、ベンチを開けて進めてくれたので、腰をおろしいろいろと話をして、「舞岡ふるさと村」で調達した地図と公園現地の案内表示等に乖離があると話をしたところ、実は、ここには、3つの組織があって、それぞれ違った表示が往々にしてあると云われて、自分も納得が着きました。その方の話では、公園の地図は、かっぱ池から「瓜久保の家」休憩所に行けば置いてあると伺い、話を終えて、瓜久保の池に行って見ると「カッパ池」と表示してありました。
 「さくらなみ池」と同じ赤茶けた水でありましたが、周りは、芳がワンサカ繁茂しており正しく「かっぱ」が住んでいそうな池でありました。
そこを出て、瓜久保の家休憩所に行って見ると地図がありました。今まで歩いた場所の地名など一致しており、「宮田池」「中丸の丘」も確り、表示されていました。公園は、親しみやすい地名等の表示で、方や「舞岡ふるさと村」は、先祖伝来の地名を遣うのかと自分勝手の解釈をして、時計を見ると3時半近くなっており、これから地下鉄駅まで、2キロを歩くのは熱中症のこともあり、洒落にならないので、停留所に行って見ると時間表に10分待たずしてバスが来るので、待っているとバス来て乗車し、ヤット帰宅の途に着くことができました。

(八幡宮境内への階段)

(御社)

(虹の家付近のフラワーろーど)

(山里の風景)

(山里の風景)

(旧金子家住宅と納屋)

(金子家居間)

(農機具)

(製材用ノコ、鍬など)

(さくらなみ池)

(獣道カッパ池への道)

(カッパ池)

個人情報の一件

2013-07-09 11:46:51 | 日記
 この話投稿しようか迷ったのですが、投稿します。
 6月に北海道出発の九州旅行ツアーに、兄夫婦と現地で合流することで話しが纏まり、その代金を振り込むため、「ゆうちょ銀行」に行って、振込みの順番(ATM)を待っていると、暫くして順番が来たのでATMを使って手続きをしようとしたところ、ATM(機械アナーウス)で忘れ物があります。とアナーウスがありました。
見たところ、原因は、先客が利用明細票を取り忘れてATMを離れたためであることが分り、私は、それを取り除いて、そのお客さんに渡し、私は、送金手続きを終わらして帰ろうとしたところ、先ほどのお客が、利用明細票の外に、現金1万円が入っていたはずだと嫌疑を掛けられてしまいました。
このため、直ぐ、窓口の行員さんに、この顛末を話そうとしましたが、混雑していたので取り合ってもらえなかった。止むを得ず、順番待ちカード73番を取って待っていました。
ところが、嫌疑を掛けた相手のお客は、そそくさと再度何やら、ATMで作業をしておりました。やがて終わって出てきたので、その客に待ってもらいました。
 ヤットのこと73番の順番が来たので、行員さんに、前述の事情を話し、1万円があったはずとこのお客が云っているが、私は、操作の障害となっていた利用票を取り除くとATMは始動した。また、現金ボックスは開いてもいなかった。このお客さんの操作は、どの様なことをしたのか、ATMのシートのチェックをしていただきたいと行員さんに依頼したところ、その嫌疑を掛けた相手のお客さんが、もう良いと云い出して、帰ってしまいました。
私は、気が治まらないので、再度行員さんに、お客さんがどのような操作をしたのか、チェック結果を相手に伝えるとともに、私に、その結果を知らせてもらいたい。と依頼しました。
すると、行員さんいわく、個人情報ですので、ATMの作内容等は、彼方様には知らせることは出来ない。と言われましたので、詳しい内容はいらない。相手が云っているのが正当かを知らせてもらいたい。と言って、自分の銀行口座の番号等を控えてもらって、私の送金の前が、そのお客のATMの操作あることを照会すると共に、私の電話番号も知らせ、業務終了後で結構ですから、お願いしますと依頼して帰宅しました。
午後3時過ぎに「ゆうちょ銀行」から、電話がありましたが、私は、所要で留守にしていたので、妻が電話を受けました。
私が帰宅すると「ゆうちょ銀行」から電話があったと聞き、早速「ゆうちょ銀行」に赴き調査結果を伺ったところ、行員さんは、調査内容を話すことは出来ないが、お話のあった現金関係する経過は一切ありませんでした。と云う説明をされました。
また、相手のお客さんには、電話をもって調査内容について話をしようとしたが、お客さんは、もう終わったことですから、結構です。の一点張りであったと伝えられた。
私は、そこで、万一現金があったとすれば、ATMの残高が合わないはずと主張すると行員さんは、それ以上は、お話することは出来ません。
彼方さんから、お話のあったような現金に関することは、一切ありませんでした。ご迷惑をお掛けしました。と云う個人情報に纏わる一日でありました。
結局、真相は何んであったか分らないで終わってしまいました。この現代社会は、何でも個人情報で片付けようとする姿勢がシャク、シャクでしょうがありません。何とかならないでしょうか。