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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

横浜バブテスト神学校発祥の地

2016-06-25 23:38:21 | 日記

 JR根岸線の石川町で下車し、代官坂通りを一本元町公園の中に入った外周道路を歩いていくと「横浜バブテスト神学校発祥の地」と云う碑があったので、「横浜開港と宣教師たち」執筆者岡部一興外9人によると次のような事柄が記載されていましたので、投稿いたします。
アルパート・アーノルド・ペンネットは、1849年4月16日アメリカ合衆国ペンシルバニァ州フィラデルフィアに生まれた。父の名はエドワード・A・ベンネット、母の名はジュディスである。
 少年ベンネットは12歳から16歳の多感な少年代に南北戦争を目撃した。このような体験から、彼は、抑圧された弱い人々への共感と奉仕の大切さを学びとり、終生の課題となった
 彼は、1868年19歳でロードアイランド州プロビデンスにあるブラウン大学に入学し、1872年にマスター・オブ・アーツの学位を得て卒業した。数学が得意だったと云われる。ベンネットは、1872年シカゴに移り、バプテスト・ユニオン神学校に3年間在学した。在学中は、イリノイ州ブリストルのバプテスト教会で奉仕し、彼の評判は、その教会の人々が残した次の言葉が証明してくれる。
 「あの教会では、多くの人々が、彼のキリストにも似た美しい人柄に魅せられて、彼をどんなに愛していたか知れません。」また、ベンネットが少年だった頃、就寝時の母の祈りは「異国の人々に福音を伝えることができますように」であった。また、彼はブラウン大学在学の学生寮の部屋では、有名なアドナイラム・ジャドソンが使っていたところでもあった。このような経験と出会いが、密やかな希望となり、心の中で熟し、やがて使命の自覚に至ったのである。
 1874年4月16日、25歳になった日に、彼はとうとう外国宣教師になる決心をすることになった。その日の様子はベネット夫人によって次のように記されている。
 彼は、断食と祈りをもって熟考することにした。神学校の長い板の廊下を往ったり来たりしながら、神と共にひとり外国宣教の問題を色々な方面から思いめぐらした。この日は自分の心の中に神が本当に自分を外国宣教に召し給うということ、そしてその行先は日本であること、期日はこれから5年後である。という確信を与えられて終わることになった。(M・I・ベンネット「素描、神学博士アルバート・アーノルド・ベンネットその生涯と人物」)
 1874年(明治7)切支丹禁教の高札が撤去された翌年であった。ベンネットはこのような新しい日本と宣教の可能性を開いており、そこに自分の将来の道を見出していたのであろう。彼はあせる心を抑え、アメリカ国内の教会で自分を訓練し、それから後に出発することにした。1879年2月に彼は宣教師としての任命を受けた。1879年9月30日に、コネティカット州ミドルタウンのバプテスト教会牧師、ブレイナード・W・バロウズの令嬢、メーラ・イザベル・バロウズ(1858~1936年)と結婚した。2人はその年の11月に日本に向い、12月6日横浜に着いた。当時の船旅はアメリカ西海岸から横浜まで最も早くて22日はかかったという。
 ベンネットは横浜山手に住み、日本語の学習を開始した。N・ブラウンは彼よりも7年早く来日し、新約聖書の日本語訳と讃美歌の編さんにあたっていた。来日後まもなくベンネットは、日本人クリスチャンたち(特に牧師たち)のためにしっかりとした伝道者教育を行なわなければならないと痛感し、彼らのために聖書研究クラスを開設した。日本のキリスト教会の将来のためにも、新しい日本の世の光、地の塩となる若者を育てるためにも、これは不可欠であった。他の有力教派は日本人教職養成の学校をすでに設立していた。最初の聖書研究クラスの参加者は4人だった。その一人に川勝鉄弥(1850~1915)がいた。彼のもとは九州大村藩士で、J・H・バラから洗礼を受けたが、後にN・ブラウンのもとで浸めのバプテスマを受けた。彼は、日本人最初のバプテスト派牧師となった人である。彼は、N・ブラウンの新約聖書和訳の助手をつとめ、次にベネットと共にN・ブラウンの残した新約聖書の改訳に従事した。
 1884年(明治17)3月7日、N・ブラウンの家に、ブラウン、ベネット、TP・ポート、C・D・フィッシャーが集まり神学校設立の件について話しあった。「この件について考えていたのは、私だけでないことがわかった」と彼は3月9日の手紙に書いている。同僚の支持を得て彼自身心強く感じたのであろう。
 この年の10月6日山手64番地に横浜バプテスト神学校が開設され、ベンネットが校長となり、新約聖書釈義と説教学を担当した。T・P・ポートが教会史、C・H・D・フィッシャーが神学を担当した。開設当時の学生数は5,6名だった。翌年の在学生は11名、やがて学校が認知されて(関東学院の前身)入学希望者が多数出てきている、と1885年6月2付けの手紙に彼は記している。
 彼は、この学校の創設者、校長、首席教授として、25年間貢献した。C・K・ハリントンはベネットと同じアメリカの神学校の後輩であり、横浜バプテスト神学校では同僚として、最も親しい間柄となった。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

(横浜バブテスト神学校発祥の地の碑)

(横浜バブテスト神学校発祥の地の碑への元町公園の外周路)
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横浜バブテスト発祥の地

2016-06-18 17:47:05 | 日記
JR京浜東北線石川町駅から大岡川沿いに海の方向に向かって行くと代官坂がありますが、これを右側に曲がり山手の丘の山手道りに向うそのたもとに、「日本バブテスト発祥の地」という碑がありましたので、ネットで「バプテストとは」と検索してみると「キリスト教プロテスタントの一教派。 個人の良心の自由を大事にする。 バプテストは17世紀頃にイギリスで始まり、現在ではアメリカ合衆国に最も多く分布している。」とあったので、「横浜開港と宣教師たち」執筆者岡部一興外8人によると、次のようなことがらが記述されていましたので、投稿いたします。
 アルパート・アーノルド・ベンネット博士は、米国フィラデルフィア市にうまれ、米国東部の名門アイビーリーグの一つブラウン大学とシカゴ・バブテスト・ユニオン神学校(シカゴ大学の前身になった大学院)を卒業した。
 彼は、(明治12年)に来日して、約30年間横浜に住んだ。最初は、日本語新訳聖書全訳の先駆者N・ブラン博士を輔佐し、明治17年(1884)に横浜にある関東学院の前身横浜バブテスト神学校を創設した。それは今日的に云えば、専門職養成を目指す大学院にあたる。
 彼は、当時いわば「発展途上国」であった日本に来て、教育・宣教・社会奉仕に最高の能力と生涯のすべてを捧げた。今は横浜山手にある外国人墓地に眠る。その墓には、「彼は仕えるために生きた」“He Iived to serve”と刻まれている。
彼は、ヘボンのように華やかな面を持たない。しかし、キリスト教の高貴な理想の実現と異教の地日本のために、その生涯を捧げた彼の生きざまは、国際化時代の我々日本に、新しい貢献のあり方を示唆している。
 さて、彼がバプテストの宣教師となったのは、母親ジュディスは、フランス系ユグノー派の子孫でありました。彼は幼い7歳の時母を亡くし、18歳で父を亡くしている。母の思い出としては、「母から学んだ就寝前のお祈りは、「異国の人々に福音を伝えることができますように」というもので、母は毎夜必ずそう祈っていた」という。父親は、フィラデルフィアの第五バプテスト教会の執事や、日曜学校校長などの奉仕をした忠実なクリスチャンであった。
 このような境遇で12歳にしてバプテスマ(浸礼)を受け、正式に協会員となった。彼は、教会の諸活動に積極的に参加し、近隣の人々と地域集会を開いたり、同志と共に信仰の自由を求めて移住した地であった。ここロードアイルランド州と並んでアメリカの民主主義と宗教寛容の思想の源流地となったところである。独立の自由の鐘が鳴り響いたのはここであり、独立宣言が起草され、合衆国憲法が成立したのもここであった。
 フィラデルフィアは奴隷制度反対運動の中心地である。また、南北戦争(1861年から1865年)当時彼は12歳から16歳のときに体験した抑圧された弱い人々への共感と奉仕の大切さを学びとり、終生課題とした人物であった。と記述があったので、投稿いたします。
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牛馬飲水槽の碑について

2016-06-11 12:16:43 | 日記
牛馬車道をJR関内駅方向から港の方向に歩いていくと牛馬飲水槽の碑がありましたので、「中区の歴史を碑もとく 編集 横浜市中区役所政推進課」によると、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 この牛馬飲水槽は大正6年、当時横浜の陸上交通の主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬車協会が現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたものです。このほか、中区の生糸検査所、西区高島町駅前、久保山のガードそばに設置し牛馬の途中休憩所としました。また、荷馬車協会にはた3千頭の牛馬がいて夏ともなればしゃれた麦わら帽子をつけ気どった足どりで荷物の運送をした。と記述がありました。

(牛馬飲水槽)

(馬車道とおり)
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旧花園橋の親柱跡について

2016-06-04 09:15:45 | 日記
 JR京浜東北線の石川町駅を下車し、中華街方向に行くと浜中学校の正門が、旧花園橋の親柱を活用したものであります。門の脇に旧花園橋であった証の碑がありましたので、「中区の歴史を碑もとく 編集 横浜市中区区役所政推進課」によると次のような事柄が記載されていたので、投稿いたします。
 この門柱はかっての花園橋の親柱である。昭和48年、派大岡川が高速道路横浜羽田空港線の建設により埋め立てられ花園橋が廃止となった際、当地に移築した親柱で、震災復興当時のものである。
花園橋は、明治9年現在の横浜スタジアム南側の派大岡川に架けられた木橋であったが、明治21年には鉄橋に改められた。これが大正12年の関東大震災により損壊したため、大正15年から昭和3年にかけて再び架替えられ、その後、45年間にわたり、震災復興橋梁の一つとして、人々に利用され親しまれた。と記述されていましたので、投稿いたします。
なお、標示版には、「有形文化財」として、文化庁の登録がなされていることを併せて申し添えます。
旧花園橋の親柱
花園橋は、1876年(明治29年)に派大岡川に架けられた橋。
当初は木橋で1888年(明治21年)に鉄橋となったが、1923年(大正12年)の関東大震災により倒壊。
港中学校の門柱として使用されている親柱は、震災復興事業の一環で架け替えられたときのもの。
高さ約2.8m、一辺約1.2mの石柱と高さ約1.1mの鋳鉄製照明部から構成されている。

(旧花園橋の橋門を活用した 浜中学校の門)

(中学校の門柱)

(史跡告知版)

(文化史跡)

旧花園橋の親柱跡について

旧花園橋の親柱跡について
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