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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

帆船日本丸を視て

2014-06-29 10:48:29 | 日記
 JR桜木町駅から、5分ほどのところにある横浜みなとみらい21地区に、旧運輸省の所属船「日本丸」のメモリアルパークを見に行ってきました。
 この船は、昭和5年に建造されて、引退するまで、54年間日本の海運業の発展のために、商船大学の学生さんや海員学校の生徒さん達に、将来の職業として船員を目指し、操船技術、肉体的精神的体力会得等その育成に勤め、その数11,500名もの人々の実習等を兼ねた太平洋横断など様々な荒天などの困難にもメゲズ地球を45.4周(183万キロ)する活躍をしたが、その使命を終え、新たに日本丸が建造されたこともあり、昭和60年に造船所だった処に横浜市が、帆船日本丸を保存係留するとともに、当該造船所の石造りのドックヤード(造船や船の修理等に用いる場所)も「国指定重要文化財の横浜船梁第一号ドック」としても保存管理しているそうであります。
 日本丸の規模は、総トン数2,278トン、全長97メートル、幅13メートル、平均喫水5.3メート(水面から船艇の底までの水に浸かっている「深さ」)帆の数29枚(畳の数とすると「1245枚分」)、マストの高さ46メートル(11階建てマションの高さ)とパンフルットに掲載されていましたが、正しく海の貴婦人の姿でした。
 私が見学に入ると運良く、新潟県の燕市から来た人達の集団とボランティアーの案内人さん達と一緒になり、名調子の説明を聞きながら回る事が出来ました。
 何でもその方は、この練習船で教育を受けたらしく、こぼれ話も聞くことが出来ました。例えば、船長のことを「何もしない船長」とか頑固な機関長は「何も機関長」とか、時化で大荒れになると船の食事は豪華版になるそうです。それは、時化にメゲズ操船するには、船内一致団結して、体力、精神力等その消耗は大変なものとなることから、食事が豪華になるそうであります。
 しかし、時化ていると船の傾きや波による振動等食事造りもさることながら、テーブルの物がアチラ、コチラと食器が走り廻落下するので、テーブルの端一回り枠を迫り出す仕組みなっていて、それで落下防止を図るそうですが、味噌汁などを食べる時などは、大変な注意力が必要になると感じさせられました。
 一番感心したのは、船長を頂点として、一糸乱れることなく俊敏にその行動をとる。しかも帆船ですから、自然任せの操船となると大変な労力が必要となる模様であります。
 また、船内は、士官と一般船員との生活の営む居住区(寝室、食堂、風呂、サロン)は、全く別々に配置され、士官は船橋の上部で、一般船員は下方、下方とへ進み、その差は、歴然とした階級社会でありました。
 一方、日常の労働には変化がないことから、例えば、毛布のたたみ型一つでも工夫したたたみ型で、気分転換を図るなど毎日の楽しみの一つでもあるように見受けられました。限られたメンバーで何か月も間海の上での生活は、大変な精神力が必要になのだろうと感心しながら、見学を終えました。
 このメモリアルパークの運営のために、俳優さん達など寄付された有名人の方々の名札が下がっていました。案内人さんは、まだまだ空間がありますので、余裕のある方は寄付を頂いても結構ですよと冗談交じりに話されていたのが印象的でありました。
 なお、この場所で、初心者入門講座、日本丸の帆をはろう、船折り紙教室、ペーパークラフト教室などイベントが数多く行われている様であります。

(係留されている日本丸「国指定重要文化財の横浜船梁第一号ドック」)

(係留地左舷からの日本丸)

(救命ボート)

(帆の上げ下げに必要なロープ、これら1本1本に全て呼称が付いている)

(左舷カンパン後方から)

(右舷乾パン後方から)

(左舷帆を張るロープが一杯)

(ロープのいろいろ)

(ロープについての説明)

(同じ)

(同じ)

(帆で航海するときに舵を切るための舵輪(ハンドル)波が被らないように天井があります)

(風邪の受ける方向を変える説明です)

(係留のための碇)

(士官の居住する廊下(通路)ジュウタン敷となっている)

(内部の階段)

(ロープで作った靴拭き)

(船長室)

(船長の公室(応接室))

(船長だけが使用する風呂)

(調理の釜蒸気による加熱釜)

(オーブン)

(航海中の在りし日の食事)

(メニュー)

(テーブルから、食器が落下しないように、枠を上げて滑り止め)

(明かり取の天井に、係留公開時に、新たにステンドグラスを取り付けた。その周りに南十字星など有名な星座を埋め込まれている)

(訓練を兼ねた作業)

(夜などの休み時間の娯楽)

(高額の寄付された方々の一覧)

(毛布のたたみ型いろいろ)

(同じ)

(同じで 下の方に空きがあります)

(洋上で航海中の日本丸)






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神奈川県立博物館にて

2014-06-21 12:03:23 | 日記
 今日は、神奈川県立博物館へ行ってきました。場所はJR関内駅後方から下車して、馬車道を海側へ0.7キロ程のところにあります。
 この博物館で特別展示されているものは、4月26日から6月22日まで「繭と鋼-神奈川とフランスの交流史」として、行われていましたが、これらの資料は、明治大学図書館に所蔵されているものやクリスチャン・ポラック コレクションで「繭と鋼が神奈川とフランスの交流史」の一つとして、特別展示されているものです。
 私が行くと運よく、ボランティアの2名の方が、今回の展示品の数々を1時間ほどかけて丁寧に説明を頂きました。先ずは最初に、入口の書棚に数千冊とも思われる資料して、今回の繭の貿易とフランスから鋼に関する所蔵書物などがギッシリ差し立てられていることから始まり、繭のポスターとして、三渓園を築造された「原三渓」の生糸のホスター始め、輸出競争に負けないため、いろいろと各会社思考をこらしたホスターの作成や生糸にステッカーを取り付けて、輸出していたようでありますが、これらが浮き絵的なものもあったりして、外国人のコレクションとして、数多く展示されていました。
 また、外国の輸出入商社もこれに匹敵するステッカーを取り付け、日本からの上質な生糸であることを称するものとして、取り付けていた模様であります。
 一方、鋼は、江戸幕府は、横須賀に製鋼所を設け、造船を試みることとして、技術支援をフランスに求め、その結果、横須賀製鉄所に首長ヴェルニーほか多くのフランス人がその設立と運営に関与したと説明がありました。
 これら鋼の技術者の中に日本の植物に見せられた「リュドヴィク・サヴァティエ」は、勤務のかたわら熱心に、横須賀、三浦半島、鎌倉などで植物採取し、日本の植物学者とも親、フランスから里帰りした馬場大助の「資生圃百合図」であるが、実に百合の子細を描き取ろうとした丹念な筆扱いが見られるとも説明されていました。
 また、明治天皇の姿を隠し撮りした写真もあったり、幕末から明治期に来日した3人のフランス画家、ルサン、レガメー、ビゴー、彼ら三者三様の目的で来日し、ぞれぞれの手法で当時の日本を活写したことで知られている。
 ルサンは、フランス海軍士官であり、画技に達者でフランスでは、新聞の挿入絵と記事を寄せていた。レガメーは、世界一周と日本の美術教育の視察と2度日本に来ており、多くの美術家と交わり、フランス美術の情報を発信するなど双方向の交流が、今回の一連の調査で判明した模様であります。また、ビゴーは、風刺画誌を発表している。
 この人たちの交流から、日本とフランスを生糸で結ぶ女神や富岡製糸場が描かれた原輸出店のものは、そのデザインや高度な印刷技術の観点から、日本ポスター史において重要な作例となったと云えるそうであります。

(神奈川県立博物館)

(ここにも蚕の一生がありました)

(横須賀の鋼工場などについての説明)

(外国の商社が日本の生糸に取り付けた商標「ステッカー」)

(日本の製糸会社が生糸に取り付けた商標「ステッカー」)

(原三渓が生糸の輸出のためのポスター桑畑を背景に「富岡製糸工場」)

(当時の様子についての説明文)

(同じ)

(明治天皇の鋼工場視察を隠し撮りした写真)

(日本の様子を描いた画家たちの絵)

(同じ)

(外国人の為の日本国内の旅行案内本)
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横浜のシルク博物館にて

2014-06-14 09:03:04 | 日記
 今日は、シルク博物館へ行ってきました。場所は、横浜大桟橋の袂の一角であります。パンフレットによれば、スカーフは、横浜港の開港にともない生糸が盛んに輸出されるようになり、横浜のスカーフもこのような流れの中で、開港間もない時期に絹の「手巾(てはば)」(ハンカチ)として生まれた。手巾は、ウィーン万国博覧会(1873年)に出展したのを契機に、外国へ輸出されるようになったとありました。
 当時は、無地又は無地染めのハンカチであったが、明治10年代後半からは、先駆者、椎野正兵衛門商店の色絵手巾が輸出されるようになり、明治20年代に入ると外国の需要が増大し、横浜ハンカチーフ関係業者は増え、生産が本格化し、輸出は急速に伸びていった。
 また、明治23年(1890年)には、木版捺染による意匠物ハンカーチーフが作られるようになって、明治時代最高のハンカチーフ輸出を記録した。一方、染色技法も木版捺染と平行して、型紙による捺染、明治終わり頃には、型紙を使って刷毛で染める「刷毛染」に成功している。昭和前期(戦前)まで、多くの工場でこの捺染方法が行われ、横浜では、この型紙による捺染を紙型捺染と呼んだそうであります。
 昭和9年頃から、現在のスカーフと云われている製品が輸出されだした。しかし、スカーフが大量生産されるようになったのは、太平洋戦争が終わってからのことだそうであります。現在は、スクリーン形などを近代化した手法により、横浜市金沢区幸浦などで脈々と受け継がれて生産されています。
 展示会場では、装飾された輸出スカーフ~船山コレクションとして、
  サンプル、船山商店新提案のスカーフ       11点
  桐生で加工されたスカーフ           16点
  手抽染め、ドット柄のスカーフ           7点
昭和30年代当時、盛んに生産されたスカーフ  13点
シンフォニー社のスカーフ「Symphony」チャーム付 ‘ 12点
シンフォニー社のスカーフ(サンプルも含む)   13点
エコー社のスカーフ           ‘  8点
ベングッドマン社、ヴェラ社のスカーフ      4点
  その他、様々な形態のスカーフ          6点
この他、日本の各時代の装いや東南アジアでのシルクを用いた装い及び蚕から生糸の生産までの機器類などが展示されていました。 

(シルク博物館)

(マスコットまゆる君)

(年表明治から大正)

(年表対象から昭和)

(蚕の一生)

(繭ができるまで)

(昭和30年代のスカーフ)

(昭和のスカーフ)

(同じ)

(手染めドット)

(手染め)

(ドット柄)

(ベングットマン社・ヴぇラ社スカーフについて)

(同じ)

(同じ)

(図案の数々)

(図案の数々)

(時代の図案)

(時代の図案)

(綜絖のかけ・経糸の巻き取り)

(経糸等の捌き)

(経糸等の捌きいろいろ)

(和服コレクション)

(同じ)

(和服)

(奈良時代)

(飛鳥時代の貴族の男女)

(明治大正時代)

(東南アジア)

(同じ東南アジア)

(フランス)

(生糸の機器のいろいろ)

(同じ)

(同じ)

(同じ)
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横浜開港記念資料館の生糸産地と横浜(明治・大正)を観て

2014-06-07 10:13:27 | 日記
今日は、横浜開港資料館へ行ってきました。行ってみると4月26日から6月22日までの間ここ「横浜開港資料館」では、シルクの生産から生糸まで、そしてこれを外国商人への売り込み「シルク博物館」では、世界に羽ばたいたスカーフたち、そして「神奈川県立歴史博物館」では、「"繭と鋼”が神奈川とフランスの交流史」をこの3館で、関連展示物を照会しています。
 今日は、横浜開港資料館での明治、大正の生糸地と横浜の外国への輸出手続き等の展示について照会いたしますが、展示物は、資料館2階すべてのフロアーを陣取って展示されていました。階段を上りきった先にには、蚕の卵の産卵から、幼虫に孵り、桑の葉をも盛り食べて、成虫となり糸を口から吐き繭玉を造るまで、その横には、これぞ生糸の束ですとガラスケース内に置かれていた。
 一方、壁には写真と共に当時の出来事をパネルにして、商人は、生産者を如何引き付け、良い生糸を高く買い集めるが出来るか、また、産地のブランド化を図るには、製糸工場の機器の改良と近代化は勿論の事、蚕や餌である桑の木の改良も必然的に求めら、その一角に、今話題の官営富岡製糸場もありました。
展示の構成としては、
1 横浜生糸市場の成立
2 生糸市場と情報
3 生糸市場と金融
4 生糸品質の改良と博覧会
5 官営富岡製糸場と初期器機製糸
6 岡谷・諏訪地方の器機製糸
7 福島在来糸のブランド化と商標
8 組合製糸
9 蚕と桑の改良
10 横浜生糸商の製糸業進出
11 巨大製糸資本へのみちのり”片倉製糸の場合
12 二本松製糸会社とその後継
13 下諏訪三井家製糸事業と倉庫経営
でありましたが、写真をもって紹介いたします

(蚕の一生)

(生糸の束)

(横浜生糸市場の成立)

(生糸市場と情報)

(生糸市場と金融)

(生糸品質の改良と博覧会)

(官営富岡製糸場と初期器機製糸)

(岡谷・諏訪地方の器機製糸)

(福島在来糸のブランド化と商標)

(組合製糸)

(蚕と桑改良)

(横浜生糸商の製糸業進出)

(巨大製糸資本へのみちのり”片倉製糸の場合)

(二本松製糸会社とその後継)

(下諏訪三井家製糸事業と倉庫経営)
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