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「武蔵国金澤碑」について

2015-05-28 10:59:18 | 日記
 今日は、前回に引き続き能見堂跡地の石碑のうち、「武蔵国金澤碑」について投稿いたします。
 横浜の句碑(古往今来)著者中島邦秋によれば、この武蔵国金澤碑の碑は、安永7年(1778)江戸の岡部四溟が金沢文庫や称名寺の荒廃を嘆き、八景だけは変わっていないとし、八景の探勝の基地能見堂に建立したものである。と記述されている。
 一方、新版「かねざわの歴史事典」編集 金沢区生涯学習“わ”の会によれば、同じく安永7年(1778)江戸の岡部四溟が金沢に来遊した時に「かつては武家時代に学問の殿堂として栄えた称名寺と文庫が歴史の中でどうする事も出来ず。荒廃しているが、金沢八景の勝景だけは昔も今もこれから後も無窮である」との感慨を漢文で表し、石碑を建てた。碑文の中に「神は飃颻(ひょうよう)として目(め)眩(くらめ)く徒倚(しい)に蹇(なや)みていずくにか如(し)かん」と最大の賛美を与えている。碑全文は関靖著「かねさわ物語」に記載されている。とありました。
 更に、武州金沢文学資料 発行横浜市金沢区役所 編集 福祉部市民課によれば、前述同様に、安永7年春(1778)江戸の幕臣 岡部四溟が金沢に遊び、能見堂に宿泊った。傍ら称名寺と金沢文庫を訪ね。「かつては武家時代に学問の殿堂として栄えた称名寺と文庫が歴史の変遷のまえにはどうすることもできずに荒廃しているが、金沢八景の勝景だけは昔も今もはたまた後も無窮である。」と感慨を後に残そうと夏季の6月、能見堂の境内に碑を立てた。讃の中に「神飃颻(ひょうよう)として目(め)眩(くらめ)く徒倚(しい)に蹇(なや)みていずくにか如(し)かん」と能見堂からの眺望絶佳のなかにいると心が飛んで行って遊神の境にいる思いである八景の勝を賛美している。
 この頃から、藤沢、江の島、鎌倉のコースとともに金沢道の近道を通って、江戸から観光に来るものが次第に多くなり、第二の観光金沢の時代を画して貴重な碑である。と記述されていました。
 能見堂跡地の樹木も繁茂して、今では、当時を伺うすべもなく勝景の変化して、碑の建立者の意に反する状態になってしまったが、その時代の人類の求める価値観の変化なのでしょうか。

(公園配置図)

(武蔵国金澤碑)

(明治時代勝景)

(明治時代勝景)

(明治時代勝景)

(現状の能見堂跡)

(能見堂跡周辺)

(現在の跡地からの市街地)

(現在の勝景遠く東京湾房総半島を望む)

(現在の勝景遠く東京湾房総半島を望む)

(現在の勝景遠く三浦半島を望む)

(不動池)

(不動池で休養する亀・かも)

(同じ)

(池周辺の草花)





能見堂跡の石碑について

2015-05-23 09:03:02 | 日記
 今日は、金沢自然公園の散策路を通り抜けて、鎌倉天園交わし鎌倉建長寺などに通ずるハイキングコースがありますが、なかなか行く機会がありませんでした。今回、京浜急行文庫駅に下車して、国道16号線を杉田・横浜方向に歩き、始めての踏切を西側に渡り、谷津町の家並みを通り抜ける六国峠ハイキングコースの道標に従い500ほど斜面を上ると、そこは新緑の木々の枝を揺すり駆け巡るオゾン一杯の風を全身に受け、清々しい気分で右の小高い丘の上を見ると、能見堂跡の石碑がありました。その他にも、金沢八景根元地碑、武蔵国金澤碑、一方句碑、江耆桜美山句碑、など5個もありました。
 今回は、能見堂跡について投稿いたします。能見堂についての図書として、「金沢ところどころ」発行 沢区制周年記念事業実行委員会には、寛文(1661~72年)頃、地頭久世大和守広之が、江戸増上寺から地蔵院をここに移して、擲筆山地蔵院と称し、また元禄(1688~1703)のころ水戸祇園寺の開山、心越弾師が、ここから見た金沢の八カ所の勝景を詩に詠じたのが八景の始めだという。
 その後、八景見物の観光客や旅人のために茶店などもできて賑わい、多くの文人墨客がここで詠んだ金澤八景の詩歌もたくさん残っています。とありました。
 一方、「金沢区諸家文書」発行 横浜開港資料館には、能見堂とは寛文年間(1661~1672)に当時廃絶していたものを領主「久世大和守弘之」が再興した擲筆山地蔵院のことで、東海道保土ヶ谷宿から横浜金沢の町屋に至る幹線道路に沿ってあった。最も栄えたのは、天明年間(1781~1788年)からのようである。とありました。
 また、明治2年正月の火災によって焼失してその幕を閉じ,現在跡地には嘗て門があったと思われる位置に「金澤八景根元地」と小さく「享和3年発刻2月」の文字が、下の台石に「能見堂」と刻まれた石碑がヒッソリと立つのみである。
 名勝金沢も内海ばかりか、東京湾に面した海岸線も埋め立てが進み、その上に宅地開発も重なって、当時の面影は今や偲ぶ縁もない。と結ばれていました。
 確かに、開発が進んでいなかった明治の初めの写真が、現地に掲げられていましたので、併せて、投稿いたします。
 また、能見堂焼失に伴う廃絶から、その後は、前述の能見堂跡の石碑、金沢八景根元地碑、武蔵国金澤碑、一方句碑および江耆桜美山句碑などは、富岡宮の前の鹿島邸の樹木に囲まれた斜面などに移設され、それを、2009年2月に現在の地に、再移設されたと能見堂跡地再生プロジェクト活動報告書に記載されていたことを申し添えます。


(能見堂への入り口) 

(散策路)

(能見堂跡地)

(能見堂跡地)

(井戸跡)

(能見堂跡)

尾山篤二郎の碑について

2015-05-16 09:00:04 | 日記
 横浜市金沢区の野島公園の伊藤博文公の別邸跡の敷地に、尾山篤二郎の碑がありましたので、今回は、尾山篤二郎について投稿いたします。
 「日本の誌歌」中央公論社「発行者 山越豊」によれば、尾山篤二郎は、明治22年(1889年)金沢市横安江町に父方は、尾山伝兵衛長男与吉、母方は、伽賀藩士八島為晴次女藤の間に生まれた。父与吉は、わずか25歳で没し、明治36年2月篤二郎が15歳のとき、右足膝関節の結核により大腿部より切断、よって学業(金沢商業学校在学中)を廃することとなったが、入院中に秋文学があることをしり、翌年の37年私立金沢英学院へ入学するも明治41年3月母藤を亡くし、次いで9月に祖父伝兵衛を相次いで亡くし、同校を中退することとなった。
 短歌は、1人称の詩であり告白詩であります。とありました。歌人は、一般的に個性的であるが、それぞれ厳しい個性の所有者達であり、厳しい個性を他と妥協させない作家達である様に思える。彼もまた、厳しい個性の持ち主という気がする。時には、妥協させないばかりでなく、更に、誇張し演出し、それによって戦いを作り出し、その戦いが生み出す緊張によって、またさらに妥協を避けようとする傾向にある。
 何気なくここに一般論を書いてきたが、尾山篤二郎を意識しないようにと思いつつ、すでに意識して書いていた。そう印象させる厳しいさが、尾山篤二郎という歌人にはあった。しかし、「もう一つ、尾山さんを知る以前に、私がいだいていた尾山さんのイメージがある。それは小島政二郎さんから聞いた話だが」と前置きして、吉野秀雄が雑誌「芸林」の尾山篤二郎追悼号(昭和39年7月)に書いている話がある。それから触れてゆきます。
 ある日、尾山さんが鎌倉の松村梢風さんを訪ねての帰り際に、梢風さんが一升瓶を云うまでもなく酒飢饉のころに贈呈すると、それを背中へ細引きか何かで十文字にくくりつけ、松葉杖をついて威風堂々と去っていった。「そうした姿がよかったよ」と小島さんが云ってた。私も同感して笑ったことがある。
 「このうしろ姿」のかげには多量の涙が湛えられていて、その感傷に耐えた姿こそ「威風堂々」だったのかもしれない。私も、晩年の尾山篤二郎に幾たびか接して、その思い出から、この吉野秀雄の感想に同感する。
「毛(まう)越寺(つじ)の 池の塘(つつみ)は 低きかも 実(さね)ひくきかも われは登れり」 という歌の作因を篤二郎自身が次のように解説したことがある。それは太田水穂の「登るほどでもない低い塘に《われは登れり》である。人を喰っている・・」という批評に応えたのであった。
 私は、松葉杖をついてひょっこり登ってしまったのある。ひっこりと登り得たことにつて詠っていることをまず念頭において見ていただきたい。えっちらおっちら登るくらいに高い堤、たとえて言えば淀川堤くらいならば、お聞き及びでもありませんでしょうが、この躰ゆえ、おっくうで登らなかったかもしれない・・・。
 この歌の作因がこうした一種の感傷であったことが、これでよく分かる。ただ篤二郎は感傷のあまり露骨に人に示すことを嫌って、くるりと向きをかえて、「うしろ姿」だけを見せる。それが人の眼には「威風堂々」と見えたり、あるいは「ひょうきん」に、あるいは「辛辣(しんらつ)」にも見えたであったろうと思う。
 彼の喧嘩早さ、好悪の甚だしさなどもこの感傷からでている。しかし、歌らには、脚と無関係な感傷を詠んだものが多くて、彼の感傷癖のみなもとは、彼生来の性格ということになるだろう。私はそう思うのだが、それともやはり、彼の感傷は隻脚という点と深くかかわるところがあったのだろう。あらゆる犠牲の誠心(まごころ)、卓上の花に見る、いはれなけれど此夕(このゆうべ)しかとしる
 これは、若い時の作であるが、極めて美しい感傷の心が中心をなしている。そして自由律のような形式が、若い感傷にピッタリと調和している。
 自然への向きかたや対しかたにしても、作者の場合には、一筋の感傷がその底をながれていることが伺えるであろう。篤二郎の歌集に対して「曲線の美」といったことがある。その「曲線美」というのは、単に、言語表現の外形の問題ではなしに、この感傷の浸透の具合に支えられたものであったというべきであろう。
 この作者は、あくまでも、そうした個の感傷に執して作歌活動を続けていったので、それを離れて美とかイデーとかいうものへ向うといった哲学的傾向を有する歌人ではなかった。そこに、この作者の強みも弱みもあったというべきだろうか。「ざっくばらん調」などと彼が唄え出してみたことも、この見地からすればおのずから理解できるように思われるのである。
 二上(ふたがみ)は おほに霧(きら)ひて 降る雨の ひびきは草の 汀(みぎわ)より起(た)つ
 幻想は 鋼鉄(はがね)のごとし 何も喰ふ ものもなければ 風に吹かるる
 人住まぬ 空き家の庭に かたむきて ヒマラヤシーダ 倒れなむとす
など、晩年の尾山篤二郎は、ついにこのような歌境を示した。感傷的な生き方に徹して、それを超えたとも言うべきだろう。その感傷がさまざまな現われ方をして、威風堂々とも、ひょうきんとも、狷(けん)介(かい)とも傲(ごう)気(き)とも、その他受け取られ方をしたけれど、作家としての一分をつらぬきとおした者がついに見せた歌境のごときもの、そういう感じを与える歌であるまいか。
 彼は、金沢の生れだが、彼の魂のなかには、北の国の人が性として持つ不屈さと、またもう一つ感傷性というもの、その二つながらを持っていて、その粗剋(そうこく)を人生とした歌人のように思えてならない。と批評されていた。
 最後に作者の年表に、昭和26年(1951年)5月63歳で芸術院賞受賞されたと記述されていましたので、申し添えます。

(尾山篤二郎の句碑)

(尾山篤二郎の句碑 裏面)

(野島公園山頂から 正面八景島)

(野島公園山頂から 天気が良ければ房総半島が見えます)

(句碑のある場所から 正面八景島)

川合玉堂のアトリエについて

2015-05-07 20:07:54 | 日記
 図書に「下村観山と川合玉堂」がありましたので、今日は、玉堂について投稿いたします。
 実は、玉堂のアトリエが京浜急行の快速特急停車駅、横浜の次の上大岡駅で下車し普通列車に乗り換え2っ目の富岡駅で下車いたします。
 駅舎は高架駅で階段を下りて、京浜急行のガード下をくぐり抜ける道路を横断して、線路沿いに上大岡方向に上り坂を100mほど歩いて行くと左側に、川合玉堂のアトリエだった門があります。
 今回行って見ると残念ながら、一昨年の12月に焼失したということで、今は、一般公開はされていませんでした。3年程前に来たことがありましたが、庭には、大木の傍らに梅やツツジなどの庭木があり、裏山から湧きでる泉がせせらぎとなって流れ、悠久の別世界の空間を味わうことが出来たのに、残念ながら入館するとこは出来ませんでした。
 さて、川合玉堂は、日本近現代人物履歴事典によれば、日本画家で、明治20年岐阜高等小学校を卒業し、望月玉泉に入門され、大成義会画塾を経て、明治29年6月橋本雅邦に入門、同31年10月日本美術院に参加、文展審査員の就任、また、東京美術学校教授、皇室技芸員、日本画科主任、帝国美術会員(芸術院会員)等に活躍されて、昭和15年11月文化勲章を受章された。と記述されていました。
 一方、「下村観山 川合玉堂」によれば、明治6年愛知県の木曽川町に生まれ本名川合芳三郎、一家は,8歳の時に岐阜市に移り、父は、文房具商を営むようになった。14歳で小学校を卒業すると京都に出て絵を習い、その頃は、明治維新によって永い間の封建社会を瓦壊し、まだ動揺の収まらない時であった。彼の一家が小都市へ移ったのも、その社会的変動のあおりを受けたためであろう。しかし、この新時代の到来は多く者は、古い社会の絆から解き放され、それぞれの志す道へと進み、京都に出た少年の胸には、大きな夢が描かれていたことだろう。
 彼は、初めに望月玉泉に入門し、玉舟と号したが、3年目には、幸野楳嶺の塾に移り号も玉堂と改め、少年の心にも何か深く決するものがあったに違いない。
 この幸野楳嶺は、京都においてこの半世紀間、円山派と共にときめく勢を示し4条派の流風を伝え、塾には、多くの若い逸材を集め、竹内栖鳳も既に頭角をあらわしていた。玉堂も「春渓群猿」と「秋渓群鹿」を第3回内国勧業展覧会に出品して褒状を得ているから、彼もまた気鋭なものがあったことが想像される。
 その後、年毎玉堂の出品は充実し、画檀からも嘱目されることとなったが、彼自身の胸中には、次第に疑惑の雲が広がり始めた。それは、これからの日本画の行方であった。既に、青年たちの間には、日本画を捨てて西洋画に転じた者も多かった。
 しかし、間もなく大決心をする時がきた。それは、22歳の時、出品した内国勧業博覧会の会場の中に彼の作品で「長良川鵜飼」が三等銅賞を授与したが、橋本雅邦の「龍虎」と題した一双の屏風を見たのである。橋本は狩野派の格調のある画法を伝えていて狩野の逸材であった。
 これが、明治美術界の指導者であった岡倉天心に、その画才を見出され、新たに開かれた東京美術学校の日本画主任教授として迎えられたその人であり、「龍虎」の屏風を見ると、京都の作家達の絵に見られない、鋭い筆力と強い気魂とが画面に溢れていた。
 これこそ玉堂が探し求めていた画風をそこに発見した思いで、橋本雅邦こそ自分の師匠とすべき人だと感じて、翌年、上京し橋本雅邦の門を叩き入門を懇願したが、初めは、京都には名画も多く師事すべき作家も多いことを説いたが、玉堂の熱意に動かされ入門を許すこととなった。
 それからの玉堂は、夢中になって雅邦の格調のある画法の習得に努めて、その翌年の絵画共進会第3回展に出品した「家鴨」を見ると雅邦調そのものであり、幸野楳嶺調は影を潜めて、この時における玉堂の決意のほどが知られているのであった。
 しかし、東京の画檀は、決して平静ではなかった。師の橋本雅邦は、東京美術学校の校長でありながら、岡倉天心排斥運動に殉じて、辞職するも、片や天心を盟主として、新たに結成された日本美術院の日本画部の首領として擁せられることになった。その傘下には、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月等の東京美術学校育ちで助教授や講師が連袂で辞退した逸材や教職にあったものが集まって、在野団体として官学派に対抗する実力競争を展開することになった。
 玉堂の立場は、彼らとは異なるものがあったが、師を同じくする関係から、日本美術院展には第1回から出品することとなり、玉堂は、はからずも学校派の駿鋭たちと技を競わなければならぬこととなった。玉堂の日本美術院の第8回展まで出品し続け、毎回2等賞や3等賞を受け続けたことは、如何に彼が努力したか、また、彼の実力が如何に無視することが出来ない作家の一員であったかである。
 画法は、日進月歩で変化していくが、彼は、終生描線主義を唱え、雅邦を敬慕してやまなかったもので、明治40年頃になると画檀の情勢は更に、変わって、日本美術院の作家たちも流石闘い疲れて五浦に雌伏しなければならなくなっていた。
 その頃、文部省において画檀の対立をなくし綜合的展覧会の計画が確立され、所謂「文展」が開かれるようになり、玉堂も審査員となった。大正3年には日本美術院が再興されたが玉堂は加わらず、自然と院から離れ、国家の主催する文展こそ公平な競技の場と考えたからであった。
 しかし、現実は理想と異って、新派、旧派の対立や東京派と京都派の対立などがあったが、玉堂は中道を歩み次第に文展においての重きをなすようになり、彼の性格の円満と画技に重きをなすものがあったことから、大正4年に東京美術学校の教授となり、21年間そこで後進の育成に当たった。
 その地位は、かつて、恩師橋本雅邦が志半ばにして退いたところであり、今、玉堂は、その後を受けて、多くの子弟達にその師の画法を伝える機会を得たのであった。
 昭和に入って、玉堂は、穏やかな老境生活を求めたかったが、騒動は、美術界を煩わしく感じさせるようになったこともあり、彼にとっては何より現実からの逃避を考えていた。昭和19年7月になって戦争が末期的様相を示し、東京が日々空襲の危険に脅かされるようになると写生のために、かつて遊んだ西多摩の御岳に疎開した。
 昭和20年5月牛込若宮町の自邸が戦災で焼失すると疎開していたこの地を永住の地と定め、農家の古民家を移築し、また、彼の好みの画室を建て、これを偶庵と呼んだ。すっかり環境に融けこみ、周辺を歩き回り写生に余念がなく、穏和な玉堂を円熟せしめ、自然を題材にした多くの傑作を残すこととなった。また、余技として詠んだ歌集は4巻までも刊行したが、画集は生前には一つも出版を許さなかった。画檀の巨匠である彼の画業回顧録展も各方面から企てられたが、玉堂は遂に一つも許さなかった。
 むしろ玉堂は、師の橋本雅邦の回顧展を催すことを自分の念願としていた。それは、師に酬いる意味もあったが、今の時代に忘れがちな東洋的画法を改めて認識せるためでもあった。その彼の希望は、昭和32年東京国立博物館で達成されることになり、玉堂は、私費を投じて画録を作り、関係方面に配布し長年の責務を果たしと喜んでいた。最後まで、自分の回顧展を企てることを許さず昭和32年83歳でこの世を去って行った。
 没後のの昭和33年の秋に、川合玉堂遺作展委員会の手によって、国立美術館・高島屋で行われ、同時に川合玉堂作品図録も刊行されていました。
 また、昭和20年に御岳の居宅は、玉堂美術館として、青梅に保存されている。加えて、富岡の川合玉堂アトリエは、横浜教員委員会生涯学習文化財課に問い合わせたところ、大正6年から大正12年の6年間住まいにしていたと返答がありましたので申し添えます。

(川合玉堂別邸を門から内部)

(公開中止のお知らせ)

(ボランティアー募集)

下村観山の碑について

2015-05-02 11:38:32 | 日記
 今日は、本牧山頂公園の下村観山の碑を見に行きました。この公園の特徴は、より細長くと本牧から、JR根岸線の山手駅近くまで尾根を帯の如く伸びて伸びて、色々な広場があり、更に、天気がよければ、東京湾・千葉房総半島や富士等の山々と絶交の見晴を堪能でき、お子様ずれにぱ、遊具施設なども備えられ家族ずれの散策にも最高の公園と思いました。
 さて、下村大観の碑でありますが、本牧の入口から直ぐ左の坂道を上って行くと観山広場があり、最南西端の眺望絶好のロケーションの処に、十勝石で造った碑がありました。何でもここは、下村観山のアトリエのあった場所と書かれていました。
 「大観と観山」編集横浜美術館によれば、下村観山は、明治6年(1873)4月10日和歌山県和歌山市小松原通5丁目父下村豊次郎、母壽々の三男(晴三郎)として、誕生したのであります。下村家は、代々小鼓役をもって紀州徳川家につかえた能役者の家系であり、江戸在府、その流儀は幸流・清次郎派であったと伝えられていた。
 観山は、わずか8歳で絵筆を執り始め、16歳で東京美術学校へ入学し、横山大観と首席を争う実力を発揮し、卒業後すぐに母校の助教授となり、教壇に立ち後進の指導に当たるとともに自身も作画に励んでいたが、美術学校の恩師でもあった岡倉天心の排斥事件が起きると学校を辞し、天心や大観とともに日本美術院の設立に参加して、在野の美術団体を拠点として活躍していきます。
 また、「下村観山展」観山と三渓によれば、1873年から1930年は日本美術院の作家の中の岡倉天心がもっとも愛した画家である。とあった。明治末年から多くの日本美術院の作家を支援し始めたのは、生糸貿易商を営んでいた「原三渓」であり、日本美術院の存亡の最大の危機を迎えていた。それは、明治39年(1906)から文部省美術展覧会の開設を経て、体制の立て直しを図ろうとしていた矢先、中枢の橋本雅邦、菱田春草、岡倉天心が相次いでこの世を去ったからであります。
 この時,観山をはじめとする、再興日本美術院の今村紫紅、前田青邨、安田靫彦、小林古径らが、次世代の若手作家を厚く支援した三渓は、まさしく日本美術院の恩人といってもいい存在だった。
 観山が亡くなるまで移り住んでいたのは、三渓の世話で転居した横浜市本牧だったから、観山の画家としての人生の前半は、天心、後半は三渓に、深く関わって展開したと云える。観山にとって、天心は師、三渓はパトロンとしての関係だった。
 一方、「下村大観、川合玉堂」発行 株式会社講談社によれば、明治36年(1903)2月下村観山は、水彩画研究のために2年間英国に留学し、同38年12月にオランダ、ドイツ、イタリーを経て帰国した。丁度その頃、横山大観や菱田春草もアメリカからヨーロッパを旅行していた。 しかし、彼らが帰国して見ると、日本美術院の窮状は一層悪化しており、遂に、岡倉天心は生き残りの残党を集めて、茨城県の北隅の五浦に立て籠もって背水の陣をしくこととなった。世間が日本美術院の都落ちと冷笑したのも無理はない。
 この五浦時代が始まったのは、天心に招かれて五浦に移って来た、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山で、彼等は丘陵の松林の中に天心宅を囲んでそれぞれ居を構え、毎日研究所の画室に通って、互いに啓発しながら制作に専念したので、ここからは、次々と問題作が世に問われ、天心が最後の橋頭堡とした五浦は、はしなくも近代日本画史上のバルビゾン(ネットによると「フランス中北部の都市、フォンテンブローの近郊にある村。 19世紀中頃、テオドール=ルソー、ミレー、コローなど、後にバルビゾン派と呼ばれる画家たちが滞在し、風景や農民の生活を描いたことで知られる。 19世紀中ごろ、パリ近郊フォンテンブローの森の一隅にある小村バルビゾンに滞在して風景などを描いた画家たちの総称」あった。)となったのである。
 しかし、作画としては専念できたが、生活苦は依然として変わらなかった。そうした辛苦は漸く実を結んで社会に認められる日が来た。それは、西園寺内閣の文部大臣「牧野伸顕」が外交官時代から美術に深い関心を持っていたので、従来の小会分立の弊を改めまた審査の公平を期し、国家の主催する展覧会を計画し美術各界の人材を糾合しようとした。それが(文展)であり、その審査員には天心をはじめ観山、大観など6人が14人の中に入ったことは、日本美術院の実力を認めたものと云える。 
 その後の文展においての院展系作家の活躍によって、その勢力には隠然としたものがあった。しかし、その盟主でもあった天心は、当時ボストン美術館の東洋部長を兼ねていた。ところが、大正2年(1917)帰国すると共に病を発し、その9月に波瀾に富んだ52歳の生涯を閉じた。
 遺された弟子達は、それぞれの自身の持ち味として、観山は陣頭に立って叱咤する柄ではなかったが、大観という闘将がいた。観山はむしろその女房役として院中の和を図ることに努めた。観山が再興日本美術院の育成に如何に心を砕いていたかは、安田靫彦、今村紫紅や前田青邨が出品作を製作中、気掛かりの余り、深夜その画室を訪れ激励していることからも知られる。観山の存在は、外面的な華やかさは示さなかったが、その陰において心を巡らせていたのであった。
 観山は、次第に横浜の和田山の画室(観山の碑のある処)に籠って静かに制作を楽しむ心境になった。昭和5年(1931)になると食道癌を患い宋元画を思わせる「竹の子」を絶筆として、58歳と云う円熟した画技を惜しまれつつ世をさった。
 観山の作品には、幼いころの父の職業の影響か、能楽趣味からのヒントを得ての描写と構図、また、作品の顔料には新しい技巧と西洋絵具を併用して、色彩の華やかさを表している。とあったので、申し添えます。

(公園見取り図)

(園内の路風景)

(園内の路風景)

(園内の路風景)

(園内の路風景)

(園内の路風景)

(下村観山の碑)

(下村観山の碑)

(下村観山の碑)