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鎌倉五山第二位円覚寺について

2017-04-29 20:46:28 | 日記
「マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 JR北鎌倉駅をおりると、そこはもう広大な敷地をもつ円覚寺の寺域です。臨済宗円覚寺派大本山・瑞鹿山円覚興聖禅寺「蒙古襲来」という空前の国難が収まった弘安5年(1282年)鎌倉幕府八代執権北条時宗は、鎮護国家(仏教により国を守ること)への思いと、戦死した敵味方両者の菩提を弔うために円覚寺建立を発願し、渡来僧、無学祖元を開山として創建しました。
 「円覚」の寺号は、寺地選定の際、鶴岡宮の神が白鷺となって、この地に降り立ち、土地を掘ったところ石櫃が出土し、中から「円覚経」という経典が出てきたことに由来します。円覚寺の門前、JR横須賀線と鎌倉街道の間に小さな池があります。池の名は白鷺にちなんで白鷺池、かつては現在の倍以上の大きな池で、中央にかかる橋を隔てて、左右対称の宋風様式を示す風雅な造りだったといいます。まず、この池を望んでから、円覚寺を参詣することにしましょう。
 境内入口に立つと急峻な石段があります。石段の上に総門があり、総門をくぐると、「円覚興聖禅寺」の額の掛る僧銅不羈の堂々たる三門(山門)が聳えています。円覚寺の象徴ともいえる三門ですが、五山第一位の建長寺の三門より二割ほど小さく、三門楼上には、観世音菩薩、羅漢が安置されています。
 正面に仏殿があり、仏殿の左を進むと、右側に方丈。さらにそのまゝなだらかな坂道を歩くと妙香池があり、池に沿って左に折れると、門の向こうに国宝・舎利殿があります。内陣には、源実朝が宋から請来した仏舎利(釈迦の遺骨)が納められていますが、ふだんは非公開のため、門の手前から唐様式の美しい屋根を眺めるのみとなります。すぐ先には、多くの参詣者が訪れる佛日庵があります。佛日庵は、現在、境内に十八ケ寺ある塔頭(支院)の一つですが、開基、北条時宗の廟所です。ここで一服、抹茶をいただき、お参りしてから、また散策するとよいでしょう。
 境内にはたくさんの見所がありますが、なかでも見逃せないのが鎌倉三名鐘の一つである国宝の「洪(おお)鐘(かね)」でしょう。九代執権貞時が鋳造させたという鎌倉時代を代表する梵鐘です。などと言う記述がありました。
一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のような事柄の記述がありました。
 円覚寺は、鎌倉の北西にあって、山ノ内往還より東方の六国見山に向かって入る谷戸と周囲の山陵を寺地とし、西面して伽藍を開く。臨済宗円覚寺派の本山である円覚寺は、中世において鎌倉五山第二位に位した。
 円覚寺は、北条時宗により弘安5年(1282年)12月8日に開堂された。開山無学祖元は大光明澱 (仏殿)に慶讃陞座した。「仏光国師語録」「円覚興聖禅寺開山語録」同日の法語によると、仏殿の本尊は華厳世界の教主毗廬遮那仏であり、その左右に観世音菩薩と十二菩薩、天龍八部が祀られていた。
 円覚寺の創立の趣旨と事始め時期について、わが国の安泰隆昌を祈り、かつは文永・弘安両役における両軍の戦死者の霊を弔おうとしたことは明らかである。また、時宗の国難に対する苦心からすれば、弘安の役以前より逼り来る国難に対して戦勝を祈願して一寺を建立しょうとしたことも考えられる。その何れにせよ、円覚寺創立の実質的な工事は弘安4年(1281年)夏の戦勝以降である、とされた。
円覚寺は、弘安10年(1287年)12月24日に火災炎上した。この火災で三門、仏殿、僧堂、庫院などの中心堂宇を焼失した。また、正応2年(1289年)12月12日条に「円覚寺焼失」と記す。この火災はほかに見えず未詳である。この時期、円覚寺は住持を欠いていた。
生安3年(1301年)8月、北条貞時により円覚寺大鐘鋳造された。現在の大鐘(国宝)がそれで、鐘身190センチ、口径142センチの大きさである。
白鷺池は総門前庭にある方形蓮池の雅称であり、放生池であったと推察される。偃松橋は、江戸時代に左右白鷺池を繋ぐ水路に架かる橋の雅称であった。双池は間を繋ぐ水路に橋を架ける形式が一般的である。それは池の給排水を一系統にするためである。「円覚寺境内絵図」は白鷺池に架かる橋を描かないが、偃松橋の名は南北朝期に遡るので橋を略した可能性がある。
妙香池は舎利殿(正続院)前にある池で、「円覚寺境内絵図」に描かれている。虎頭岩は妙香池北岸に張り出した岩壁である。
応安7年(1347年)11月23日、円覚寺は主要伽藍の三門、仏堂、僧堂、庫院、法堂などを焼失した。主要伽藍は、その後至徳3年(1383年)にほぼ再興されたと推察される。このうち、方丈に関する資料に「円覚寺方丈什物交割帳」がある。この資料は、応安7年(1374年)の円覚寺大火災に再建された新方丈の什物を記すと考えられる。「方丈交割帳」記載順に客殿、小客殿、書院、小書院、囲炉間、小寮、衣鉢閣、同閣炉間、同小寮、中室の什物を記す。などの記述があったので、併せて投稿いたします。

(白鷺池)

(当初白鷺池を渡橋であったが、今は、白鷺池を眺める道となっている)

(圓覚寺を見上げる階段下、中央に見える総門)

(総門)

(山門)

(山門の説明標)

(仏殿)

(仏殿の説明標)

(方丈)

(方丈の説明標)

(百観音霊場)

(百観音霊場の説明標)

(大鐘(国宝)への階段)

(大鐘(国宝))

(大鐘説明標)





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鎌倉五山第一位建長寺について

2017-04-22 08:21:10 | 日記
「マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 JR鎌倉駅から徒歩で、鎌倉街道を30分ほど行くと、建長寺バス停前に「臨済宗五山第Ⅰ位」と記された大きな石碑があります。すぐ後ろに、天下禅林」の額を掲げた西外門が建っています。かつては東外門もありましたが現在はありません。
 門を入って駐車場を横切ると、左手に山号「巨福山」を掲額した総門が見えます。京都の天台宗般船三昧院と言う歴代天皇の御位牌を祀る表門を昭和15年に移築したものです。この門から三門、仏殿、法堂が、一直線上に並んでいます。境内を平らに造成し、左右対称に伽藍配置した造形は、中国の禅宗様式を範としたもので、同じ臨済宗の禅刹でも山や谷の起伏を巧みに取り入れた円覚寺や浄智寺のもつ表情とは違い、異国的な雰囲気・力強さをたたえています。
 さらに進むと、威風堂々とした三門が見る者を圧するように建っています。これは江戸期の安永4年(1775年)に再建されたものですが、その大きさ、風格といい、日本初期の臨済宗の一大道場として君臨した禅刹の意気込みを感ぜずにはおられません。
 建長寺、正しくは「巨福山建長興国禅寺」といい、鎌倉幕府の執権北条時頼が宋の高僧・蘭溪道隆を迎えて開山とし、建長5年(1253年)に創建した臨済宗建長寺派の大本山です。三門の右手、東側の鐘楼に建長7年(1255年)鋳造の鐘(国宝)があり、鐘には蘭溪道隆による「建長禅寺」の銘が浮き彫りにされています。
 最初に建てられた仏殿ですが、創建当時の建物が火災で焼失したため、芝増上寺に在った徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋を正保4年(1647年)に移築したもので、本尊の地蔵菩薩が安置されています。
 建長寺の境内があるこの土地は、かって刑場があり、地獄谷と呼ばれていました。そのため、処刑された罪人を弔い、冥府の救済者とされる地蔵菩薩を本尊とした心平寺という寺院がありました。そうした仏縁を重んじて、建長寺は地蔵菩薩を本尊にしたとのことです。現在の仏殿には、地蔵菩薩のほかに、道教の土地神を守護神とした中国禅宗の習慣を取り入れた伽藍神(本年3月に国重文指定)や千体地蔵菩薩などが祀られています。
 境内の見所はいくつもあります。仏殿の後ろにある法堂(国重文)は、文化11年(1814年)築造の関東最大と言われる木造建築で、法堂後方の唐門(別名 勅使門 国重文)その向こうには方丈、方丈の背後には禅宗様式の庭園があります。境内は方丈の後方一帯の山を含み、年間を通じて多くの参拝者の散策路となっています。などと言う記述がありました。
一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のようなことがらの記述がありました。
建長は鎌倉の北西、小袋坂の北にあって主山勝上巗に向って北東に入り込む谷戸とその周辺の枝谷および山陵を寺地とし、中心伽藍は南西を正面とする。建長寺の開山は宋僧蘭溪道隆、開基は執権北条時頼である。建長寺は山号を巨福山、寺号を建長興国禅寺といい、中世において鎌倉五山第一位に位した。現在、建長寺は臨済宗建長寺派の大本山である。
建長寺は、建長3年(1251年)11月8日に建長寺事始めがあり、2年後の同5年11月25日に蘭溪道隆を導師として、仏殿の落慶供養が営まれた。仏殿は中尊に丈六の地蔵菩薩坐像を安置し、また千体地蔵像を安置していた。
さて、建長5年(1253年)11月の建長寺供養の時に三門、仏殿、選仏場、庫院および住持の住房である方丈はできていたと推察され。その後、建長7年(1255年)2月北条時頼は建長寺の巨鐘を鋳造して、鐘楼に懸けた。その鐘銘(住持道隆題)に『雲斂まり霏開く、楼観百尺。嵐敷き翠掃く、勢諸方を圧す。』とあるのは、二階楼閣門である三門の高大を表現したものである。
正応6年(1293年・永仁元年)4月13日の大地震により、建長寺は最初の火災に遭い中心伽藍を焼失した。また、正和4年(1315年)3月9日、鎌倉大火の飛火により建長寺の華厳塔が焼失し、同年7月9日にも火災があった。
元弘3年(1333年)5月の兵乱によって鎌倉幕府は倒れ、北条氏一門は東勝寺において自滅した。山の内にある建長寺、円覚寺、浄智寺などの禅寺はこの兵乱に安泰であったが、大檀那を失ったことは大打撃であった。
その後、建武中興を経て、建武3年(1336年)11月足利義詮の弟基氏を鎌倉御所とした、足利尊氏は、京都に室町幕府を創設した。北条貞時の代に定められた禅寺五山制度を継続し、中国禅寺の制度を模倣して五山・十刹・諸山の三階級からなる寺格を制定し、それを官寺とみなした。
鎌倉時代末から南北朝期の建長寺は五山第一位の寺格を有し、中国禅僧の指導のもとに盛期の宋朝風伽藍を誇り、優れた禅僧を多く育成した。
主要伽藍は、南北中軸上に総門、仏殿、法堂、礼間、得月楼を配し、仏殿前方左右の回廊に接して大徹堂と庫院を相対して建て、三門前方の左右両辺に浴室と西浄を置いた左右対称の大陸的配置であった。などと言う記述がありましたので併せて投稿いたします。

(「天下門」ここが最初の入口)

(総門)

(総門について)

(仏門)

(仏殿)

(仏殿について)

(樹齢1500年中国から)

(柏槙の木について)

(龍王殿)

(龍王殿について)

(鐘銘(住持道隆題))

(梵鐘について)

(庭園)

(庭園について)

(天園ハイキングコースへ繋がる)

(展望台)

(相模湾 天気がよければ遠くは富士山を眺められます。)
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鎌倉五山について

2017-04-15 12:02:12 | 日記
 今回から、6回に亘って鎌倉五山について、投稿致します。「マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 鎌倉五山は、五山の制とは、中国の南 宋時代(十二世紀)にさだめられた制度で、日本では中国の五山に倣って鎌倉時代末期に取り入れられました。
 宝治元年(1247)6月、北条時頼が三浦氏を滅ぼすと、北条氏に対抗する政敵はなくなり、従来有力武将の合議制で運営されてきた政治は、北条氏嫡流の専制政治へと移っていきます。かつて三浦一族の和田氏の所領であった山内壯(現在の北鎌倉一帯・横浜市南部)は幕府直轄領となり、その後は、北条執権家の私領となります。
 北条氏は自領となった鎌倉中心部に近い場所に北条氏ゆかりの禅宗寺院、即ち、建長・円覚、浄智といった臨済宗の寺院を建て、中国から五山の制が伝わるとわが国最初の五山に列しました。こうした寺は官寺として幕府に保護され、最上位の格付けがされましたが、寺領、順位、住持(住職)の任免等は幕府に管理されました。
 元弘3年(1333年)北条氏の滅亡により政権が鎌倉から京都へ移ると、今度は、武家による鎌倉五山に代わって、公家による京都中心の五山制度ができます。この時は、第1位から、南禅寺、東福寺、建仁寺、建長寺、円覚寺と言う順序で京都の寺が上位3位までを占めています。その後も度々変更があり、寺の入れ替え順位の交替などが行われます。そして各寺の僧侶の名簿を作り、役僧の任期を2年と定めるなど制度の内容が固まっていきます。その過程では寺の格を上げたいと言う活動や転寺によって自身の昇格を図りたいという運動もおこったことでしょう。五山称号の変更権や住持の任免権を持つ室町幕府は苦しい財政事情を助けるために、2年ごとの官寺住職の変更に際し名義料(公認料)を徴収すると言うこともあったようです。
 五山の制は、宗教の序列化、官僚化を進めましたが、一方では人事の交流によって文化の広がりなども進みました。今日の五山とは、室町幕府最盛期の至徳3年(1386年)に足利義満によって決められたもので、南禅寺を五山の上(別格)とし、一位 天龍・建長 二位 相国・円覚 三位 建仁・寿福、四位 東福・浄智 五位 万寺・浄妙と言うように京都と鎌倉の寺院が同数になり、この形で現在に伝えられています。などと言う記述がありました。
 一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のようなことがらの記述がありました。
 日本における宋朝禅を旨とする専門禅刹伽藍は宋僧蘭溪道隆を開山に迎えて、執権北条時頼により建長五年(1253年)11月に落慶供養された鎌倉の建長寺を似て嚆矢(こうし)とする。その後、執権北条時宗は、宋僧無学祖元を開山に請じて鎌倉に円覚寺を創立し、弘安5年(1282年)12月8日に開堂した。本邦において禅宗が最も盛んであったのは鎌倉時代末から南北朝期であり、鎌倉および京都を中心に多くの禅寺が創設された。それに伴い来日僧および入宋、入元僧を通じて宋・元の文物が招来され、建築では新様式である禅宗様(唐様)の一大発展を見た。
 一方、多くの禅寺の創設に伴い、幕府は禁制および規式条書を配布し、禅寺の統制を計った。中国禅寺の制度を模した五山の制度は、執権北条貞時により鎌倉時代末に採用されたと考えられている。延慶3年(1310年)頃には、建長、円覚、寿福、浄智の四寺が五山に列位され、それに将軍源頼家創建の京都建仁寺を迎え五山と称された。
 南北朝期になると足利氏は、多くの禅寺を管理統制するため、中国禅寺による五山、十刹、甲刹の三段階からなる官寺・寺格制度を採り入れた、室町幕府は、鎌倉時代末以来の五山位次を改め、歴応5年(1342年)4月に五山・十刹次第を定めた。「扶桑五山記」によると、この時の五山次第は次のようである。
 第一位 建長寺・南禅寺(両寺均等之子細、見状左、但衣都鄙改坐位) 第二位 円覚寺・天竜寺 第三位 寿福寺 第四位 建仁寺 第五位 東福寺(住持家井本所承諾、治定禪)となっている。
 京都および鎌倉の五山位次が定まるのは至徳3年(1386年)7月である。この年将軍足利義満創建の京都相国寺が完成し、同寺を五山に加えるために南禅寺を五山の上に昇格した。「扶桑五山記」によると、五山之上 南禅寺五山第一位 天竜寺 建長寺 第二位 相国寺 円覚寺 第三位 建仁寺 寿福寺 第四位 東福寺 浄智寺 第五位 万寿寺 浄妙寺
 京都五山と鎌倉五山は、その後、中世を通じて踏襲された。なお、禅寺の統制は鎌倉時代末から南北朝期に武家の中から任命されて行事に当ったが、三代将軍足利義満の時、僧録司制度を新設し、僧官がそれを統率するようになった。
 また、鎌倉の五山禅寺は、五山制度が確立する以前に創立され、鎌倉時代末期には三門、仏殿、僧堂、庫院、法堂、方丈を中心とする禅宗様の伽藍を整えていた。などと記述がありましたので、先ず投稿いたします。
 次回から、鎌倉五山について個別に投稿いたします。
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昔の横浜港について聞く

2017-04-08 10:34:02 | 日記
 丹羽技師の横浜港の設計に当たって取り組んだ経緯について投稿いたします。「港湾」総会記念横浜特」より。横浜港は、安政4年(1857年)12月徳川幕府がアメリカの使節ハリスに対し日本とアメリカとの通商条約を結び、貿易港は神奈川、函館、長崎の3港となし、神奈川を開いたら下田は閉じるとなったのが発端でハリスは大変喜んで,承諾し、安政5年(1858年)6月19日に正式に通商条約の締結が出来たのです。
それから直ぐ幕府は外国奉行を横浜に出して、一切外国との交渉を外国奉行が直接やることにした。ところが、この神奈川に開港すると言うことについて問題が起った。それは、最初幕府では、神奈川に居留地を設け、領事その他を住まわせる考えであったらしいが、街道筋に当たり人の通行が多く世間がやかましい時であったから、間違いがあってはいけないと言うことで、幕府は横浜村を指定した。
 当時、神奈川宿と横浜村とは平沼、戸部、野毛等を通り陸路2里(約8キロ)あるから、若しくは、渡船にて海を横切るしかない。当時、横浜村は50戸しかない漁村で住民は農業と漁業を営む人達であった。
このような実態から、ハリスは条約文に貿易港は神奈川と記してあり、横浜とは場所が違う。我々を不便な所に押し込んでしまうと言うことは、恰度長崎の場合と同じで甚だ誠意がない。ことに街というものもない。絶対に神奈川でなければならぬと言う。
幕府の言い分は、横浜も神奈川の町である。横浜の海は水深も深く、場所も広く幾らでも居留地の拡張が出来ると主張したが、承知しなかった。
 そこで幕府が旨い政策を採った。即ち、アメリカはどうしても承諾しないから、横浜村を立派な街にして商売を盛んにするよりほかないと考え大工事を起こして、道路を広げる。橋を架ける。田地や沼地や砂浜を埋めて市街地を造るなど立派に横浜の形を整えた。そうして、土地だけではいかんとて、日本の商人に呼びかけ、地代を安くして商人を歓迎し、種々便利を興えて移住を奨励したことから、外国人と取引して大いに儲けようと思う日本人の商人連中の皆が喜んで横浜の町に集まり、お仕舞いには遊郭まで造って、日本人ばかりではなく外国人や船員などの慰安所にしたと言う様なことで横浜繁昌させた。
そうすると最初は英、米、仏、蘭等皆神奈川に領事館を持ち外国商人も子安近傍に住っていたものが、だんだん横浜が便利になって来ると、神奈川に住んでいるよりも横浜に移りたいという希望がでてきたり、又領事館など神奈川でなければならんと言っていたのが、横浜の方へ心が移り、領事館もまた事実横浜に住いたいと移転し、横浜は自然に発達した。
外国人の居留地も幕府が拵えるに世話もなかったと言うことで、問題は、知らず知らずの内に解決され、横浜が神奈川の一部分として認められたことになり、正式に書類はないが領事団も暗黙の裡に横浜を認めることになった。これが横浜港の起こりである。その実現は、井伊大老の堅き決心神奈川奉行のたゆまざる努力の結果である。後年、横浜港を一望の下に見下ろす掃部山に井伊大老の銅像が建ったことも感銘深きものがあると思います。と言う記述がありました。以上を投稿して、偉人達を終了と致します。

(偉人達の業績標)

(開港150年記念碑)

(開港150年定礎)

(港湾用鉄道碑)

(当時の横浜駅舎)

(港湾停車場跡地)
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水上浩躬・古市公威について

2017-04-01 12:14:21 | 日記
 水上は熊本出身で、明治21年(1888年)帝国大学法科を卒業後、議会の事務視察のためフランスに渡った人物であります。
 みなとびとの記 編集・発行横浜開港資料館によれば次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 氏の略歴は、明治23年(1890年)衆議院書記官を経て、明治25年(1892年)井上馨内務大臣の秘書官となる。翌年長崎県書記官として長崎港湾改良問題に取り組み、明治30年(1897年)神戸税関に任ぜられた。翌年3月井上馨推薦めもあって横浜税関長に就任し、横浜港第二期拡張工事の実現に奔走した。明治37年(1904年)に神戸市長となり神戸港拡張工事を推進「築港市長」と呼ばれた。明治42年(1909年)病気のため退任、その後は明治神宮奉賛会や日本美術協会の理事などを務めた。
 横浜港第一期拡張工事について、当時の横浜税関長水上浩躬の回想録(「八年記」横浜税関所蔵)から、その着工経緯を見ていきます。
 明治31年(1898年)3月に横浜税関長に就任した水上は、5月の臨時会議通過を狙って、前任者・大越成徳が策定した計画案を携えて蔵相の井上馨を訪ねます。水上は井上の娘婿に当たります。この計画案は工費40万円で税関から大岡川河口までの海面を埋め立てて上屋などを新設するという小規模なものだったので、井上は計画をより大規模なものに改めるよう促します。そこで水上は、大型船舶が接岸できる岸壁や鉄道引き込み線を備えた工費約500万円の大規模な計画案を作成します。しかし井上は財政的理由から難色を示し、「素人的設計ナレハ直ニ之ヲ会議ノ議案トスルノ価値アリト信セシニアラス、単ニ政府内部ニ於ケル詮議「キッカケ」タルコトヲ期待セシニ過キセルナリ」と冷淡な発言をして水上を失望させます。
 しかし、その年の6月に第三次伊藤内閣が総辞職し、第1次大隈内閣の蔵相に松田正久が就くと、水上は主税局長、目賀田種太郎らの後援を得て、再度計画案を提出し、承認を得ることに成功します。
 そこで設計を古市公威に依頼します。古市はそれまで内務省土木局長として全国の港湾・河川土木に当たっていましたが、第三次伊藤内閣の総辞職とともに官職を辞していました。
 水上の依頼を受けた古市は、「繋船岸ノ築造ハ東洋ニ未タ見サル所、箇様ノ注文ナレ予ハ模範ノ積リニテ引受クヘシ」と二つ返事で快諾しました。
 明治31年(1898年)9月に古市が提出した工事説明書によれば、工費300万円で、海面埋立と係船岸壁の整備を優先し、陸上設備や海陸連絡施設は他日を期すというものでした。この計画案は、第二次山県内閣承認を得たのち、第13帝国会議で工事約234万円に修正されて認められました。このように内閣の更迭が頻繁な中で、横浜港拡張計画が異例の速さでみとめられた背景には、目賀田主税局長や逓信次官として官界に復帰した古市公威の働きかけがあったと水上は回想しています。
 明治32年(1899年)5月に臨時税関工事部が設けられ、大蔵省直轄のもとで着工の運びとなりますが、時事新報や横浜貿易新報などの一部メディアは、埋立工事によって港内が狭くなるとして反対の論陣を張っていました。そこで水上は、横浜市の有力者らを官邸に招いて築港計画の意義を説明するとともに、外国の港湾関係文献を訳出して係船岸壁の必要性を説き、税関見本室を一般に開放して築港計画の概要や工事の様子を内外の人々に縦覧する機会を設けるなどして、拡張工事に対する世論の支持を得ることに成功します。
 第一期海面工事は、計画を一部変更し、明治35年(1902年)の暴風雨の被害や日露戦争の勃発にともなう工事繰り延べなどによって遅延しますが、明治38年(1905年)12月には竣工し、現在の新ふ頭の東側半分の埋立と係船岸壁が完成します。しかし、この工事は既定計画の一部であり、西側半分の埋立や陸上施設は全く未着手の状態で、次なる継続工事が緊急な課題でした。しかし戦費19億円を費やした日露戦争が国家財政に与えた影響は大きく、これまでのような国による大規模な改修工事は困難な状況にありました。
 再び水上浩躬(ひろちか)の回想によれば、彼は日露戦争前の明治36年(1903年)9月ごろから、曽根荒助蔵相(第一次桂内閣)に対して第二期海面埋立工事と陸上施設工事の予算化を強く求めていましたが、政府の苦しい財政状況を見越し、総額600万円におよぶ工事費の約3分の1を横浜市が負担することを計画していました。また彼は「私は直接に利益を受くる者が其責任を負担するのが当然だと思います。もし当港が此の責任を放棄すれば、他の競争者は必ず両手を開いて之(築港予算)を拾うに違いない」と「横浜商業会議所月報」紙上で訴え、再び世論喚起を図ろうとします。(同99号明治38年(1905年)1月)
 横浜市でもこれに積極的に応える動きが起こります。明治36年(1903年)1月、横浜市長に就任した市原盛宏は、施政方針演説の中で、従来の横浜市の受け身的な態度を改め「自動的即動きかけの発達を要する」と市民に自己負担による横浜築港工事の速成を呼びかけました。それまで激しい党争を続けていた横浜市会は、新たに公和会を発足させます。日露戦争の講和が近づいた明治38年(1905年)夏頃から、横浜商業会議所や横浜市長・市会議員らが一団となって中央政官界の有力者を歴訪し、8月には横浜港改良期成委員会が発足するなど、第一期海面埋立工事に続く拡張工事を求める世論が徐々に高まってきました。
 明治39年(1906年)9月市原市長は若槻礼次郎(主税局長兼税関工事部長、のちに首相)らと協議の上、拡張工事達成を図るため、横浜市が工費の3分の1を負担する「横浜改良の件につ稟請」を大藏大臣に提出します。横浜市の提案を受け、政府は第22帝国会議に横浜海面埋立第二期工事と陸上施設の予算818万円を提出し、横浜市は270万円を負担することとなりました。翌年3月臨時税関工事部は廃止され、新たに大蔵省臨時建設部が工事に当たることとなり、同年6月には諮問機関として臨時横浜設備委員会が設置されました。
 第二期海面埋立工事は、まず新港ふ頭の西側半分の埋立を明治44年(1911年)3月完成し、続いて倉庫、上屋・鉄道などの陸上施設が大正3年(1914年)に完成、最後に大さん橋の改築工事が大正6年(1917年)に終了し、第二期工事の全工程が竣工した。
 第一期海面埋立工事から数えると、約20年間、総工費1045万円をかけて、横浜港は近代的な港湾施設に生まれ変わりました。埋立面積6万9727坪、岸壁延長2025メートル、鉄道引き込み線を備えたクンガ造り3階建ての倉庫2棟(赤レンガ倉庫)上屋14棟、発電所1棟など陸上施設を備えた新ふ頭が出現しました。
 これにより、明治31年(1898年)〜大正6年(1918年)まての20年間と比較すると、横浜港入港船舶は22倍(5、650隻に対し12万6、058隻、トン数では3.7倍(277万トンに対し1、027万トン)に激増し、外国貿易額は輸出額が8.3倍(8、031万円に対し6億6706万円)、輸入額が2.6倍(1億1101万円に対し2億8726万円)に拡大しました。また、横浜港を支える輸出品の約6割は生糸で、羽二重などの絹織物がこれに続き、茶類は大正期には約1%低落しました。貿易相手国ではアメリカを筆頭に、フランス、イギリス、さらに中国との貿易が増えるなど、新市場の開拓も進み海外定期航路も拡充された名実ともに国際港として道を歩んできました。などという記述がありました。

(偉人達の業績標)

(水上浩躬氏の業績標)

(古市公威氏の業績標)
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