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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

宇都宮辻幕府旧蹟について 東NO2

2018-01-27 09:13:07 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
鎌倉幕府ははじめ大蔵に在ったが、嘉禄元年(1225年)に政子が亡くなったときに、幕府の位置を他のところに変えようとの意見が出たので、北条時房、同泰時等が適当な場所をさがしまわり評議をした結果、同年11月に此の地に幕府を定めることとし、12月藤原頼経将軍が移り住むようになった。その後、嘉貞二年(1236年)に、頼経将軍がさらに若宮大路幕府に移るまで12年の間、武家政治の中心となっていた。
 建立場所 若宮大路に面した第二鳥居付近の教会から入った中道(小町大路)
 参考
 若宮大路を八幡宮に向かって、右側に見える鎌倉彫刻会館のわきの小道を入ったところにある宇都宮稲荷が、宇都宮辻子幕府のほぼ中心の位置にあるとかんがえられる。
 鎌倉市史によると、若宮大路と小町大路(現在)の間に、南北約200米にわたって設けられたようである。
 実朝が死んで、北条氏は京都より源氏の血縁をたどって藤原頼経(当時二歳)を将軍に迎えた。頼経が八歳のとき政子も死んだので、執権北条泰時は心機一転の思いで、大蔵の地を引き払って、この宇都宮辻子に幕府を移したのであろう。
 高柳光博士は、辻子(ずし)は小路という意味であって、道路の交叉するところの辻とはちがうと述べている。したがって、宇都宮小路と解べきであろう。また辻子に厨子の字をあてる場合もあるが、京都で言う逗子と同じように、通り抜けのできる小路あることには変わりはない。
 なお、鎌倉の南にある逗子市の逗子は上記の意味とは全く関係なく、同音のずしにあて字として、逗子の文字を用いたにすぎない。この点については、国衛や荘園の一役人として、田畠などの絵図を作製する職務の図師が居住していたのではないかとの説もある。
 上記の見解によるならば「宇都宮辻幕府」とある碑の文字は、「宇都宮辻幕府」とするのが正しい表示というであろう。という記述がありました。

(宇都宮辻幕府旧蹟の碑)

(小道の一角に建てられた碑)

(御宮の際の碑)

鎌倉の碑めぐりについて

2018-01-20 08:50:35 | 日記
鎌倉の碑めぐりについて
著者 稲葉一彦によると、鎌倉には大正6年(1917)以来、青年会、同人会及び友青会の方々が代々鎌倉の史蹟保存の志を受けつぎ、年々に建てふやしていった碑の数は、80に及んでいる。その多くの碑が、古き鎌倉を語りかけてくれているのに、鎌倉を訪れる人々の多くが、意外なほど気づかずにとおり過ぎで行くことは、まことに残念でならない。
史都鎌倉を正しく理解いただくためにも、また、鎌倉を愛し建碑の労をとってきてくださった先人の願いを活かしたいと念願して、この小著は生まれました。まとめとしては、一応「東コース」30基、「南コース」16基、「裏コース」11基、「西コース」23基と、四つに区分してありますが、いずれもJR・京急鎌倉駅を起点としています。という内容の記述とありました。
そこで、この(「鎌倉の碑」めぐり)に従って、東コースから、それぞれのコースNO1から紹介していきたいと思います。なお、区分は別添写真のとおりであります。


(東コースの碑のありかです。)
今回からの先ずは一番は、

 段葛について 東 NO1
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の内容概要としては、
段葛は、別に置石(おきいし)とも呼んでいる。寿永元年(1182年)3月、頼朝が夫人の政子の安産を祈願して、鶴岡八幡宮の社頭から由比ケ浜の大鳥居のあたりにまでかけて築いたものである。この時、時政を始め源家の諸将軍は、こぞって土石の運搬に従ったという。明治の初年になって、現在この碑の立っている二の鳥居から南の部分をとりはらってしまった。
 建立場所 第二鳥居付近
 参考
 寿永元年3月15日の吾妻鏡は、鶴岡の社頭から由比浦に至るまでの曲横をまっすぐにして、参詣の道を造ったと述べ、さらにこの計画は、頼朝が日ごろから考えていたことであった。たまたま妻政子が数日前の3月9日に着帯の儀をおこない、頼朝にとっては、鎌倉に入り源家再興の中核に立つようになってからの最初の出産を待つ(すでに生まれていた第一子の大姫は、伊豆に配流の身の間の出生である。)という折であっただけに、政子の安産を祈願して、この大路造りを決断とたものであろう。さればこそ頼朝自ら監督し、男の北条時政以下東国武者の面々が競って土石の運搬にもあたるという、たいへんな力の入れ方であった。
 この道は、京都でいう、朱雀大路にもあたる鎌倉の中心的な道路であるが、後に千度小路とか、七度小道とも言っているし、若宮小路とも呼んでいたようである。
 「段葛」大路の中央に二列に堤を築いて、一筋の大路を三筋に分け、その堤の脚部を石で固めたので、中央の道は壇状に高くなった。そして土壇の両端には縁石(へりいし)としての葛石を置いたので、後世になって段葛と称するようになった。今も八幡宮に近いところに「置石」という呼び名が残り、「置路」「作り道」などとも呼ばれたらしいことによって、この段葛のかたちを想像することができよう。
 尚この段葛は、現在の二の鳥居(この碑の立つところで朱塗りの大鳥居のもとに、大きな狛犬がある。)よりも南へ長く、由比が浜まであったのが、次第に改変されて現在の500米たらずだけが、史跡として保存されている。
 注意深く見ると、この鳥居の地点での段葛の幅は八幡宮の直前に行くと、ずっとせばめられていることにも気づくであろう。
 最近の実測によると、500米ぐらいの直線の道の道幅(八幡宮前「2.9米」二の鳥居付近「5.1米」)が、2.2米の違いということは、決して偶然のこととは考えられないので、これについては、遠近法を取り入れているのだろうとか、いろいろの推測がたてられている。
 これについて大三輪龍彦氏は、鎌倉期に遠近法が用いられていたことは否定しないが、この段葛に適用したということについては疑問としている。というような記述がありました。

(段葛の碑)

(段葛 八幡宮を望む)

(八幡宮 第二鳥居)

(下馬から鎌倉八幡宮を望む)

梶原太刀洗水について

2018-01-13 09:09:03 | 日記
 「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。場所は、朝夷名切通し旧道登口の手前であります。
太刀洗い水とはいかにも勇猛なイメージのわく名前である。華々しい合戦のあと、ここで血刀をあらい、勝ちいくさに凱歌を秦したかのように想像される。が、伝説はもつと陰惨で孤独な、一人の男の悪業の次第をこう伝えている。
 殺したのは梶原平三景時。殺されたのは上総介広常。
 いずれも関東の豪族武士で、鎌倉幕府創立に際して陰に陽に将軍頼朝を助けてきた人たちである。それぞれ重く召抱えられ、お互いに何の意趣遺恨もないはずであった。
 治承4年(1180年)8月、石橋山の合戦に敗れて真鶴岬より安房国へ脱出した頼朝は、その地の支配者、上総介広常の大軍勢の参陣を得て勇躍、まきかえしに転じ、平家の追討軍を退け、関東地方の大部分を領有し、念願の鎌倉幕府樹立を果たしたのであった。新編鎌倉誌巻の八にも「武勇の名誉関東に振へり。・・・・・頼朝に属して義兵を助け、良策戦功多し」と書いてある。関東一円を掌握するには、こういう地方の大ボスをうまく味方につける必要があり、頼朝は天成の老練な政治力でもって、それに成功したのであった。
 治承5年(1181年)6月、頼朝が納涼逍遙のため三浦へ遊びに行ったとき、広常も出迎えたが、馬上で敬屈したのみで、下馬の労を惜しんだのはごう慢である、真から底から服従していかったに違いない、という解釈もある。また酒宴のさい、頼朝の水干を岡崎四郎義実が所望し、その場で拝領したところ、「あんな老いぼれが賞され、わしのような侍が拝領できないとは口惜しい」といきまいたため、両者は喧嘩になるところで、その場はうまく収まったが頼朝公は苦い顔をしたという伝えもある。
 しかし、田舎の大将の多少の思い上りや無礼、子供のような感情むき出しの態度くらいで老獪な頼朝がこれを憎み、殺そうとするわけがない。
 寿永2年(1183年)12月、頼朝は謀叛の疑いにより彼を殺したのであるが、殺したあとで間もなく広常に謀叛の企てのないことや事実無根であることが書類の上からも明白に証拠だてられ、頼朝はこれを殺したことを後悔したという。
 梶原景時に命じて、頼朝は千葉広常を討たせたのである。
 明智光秀が本能寺へ夜討ちをかけ、主君信長を弑逆し、多勢の将兵を巻きぞえに殺したり傷つけたのとは趣きが違っていた。もっと陰険で静かでおそろしい。
 密命をうけた景時は単騎、何食わぬ顔をして、朝夷名切通近くの上総介広常邸をぶらり訪れた。
 酒肴のもてなしを受け、主客は上気嫌で食後のひととき、盤をはさんで双六をうった。今の双六とはちがう。囲碁や将棋の原型のような、単純な点取りゲームだったと思われるが、そのゲームのヤマ場に事件は突発したのである。
 厠に立った客人は静かに盤のところに戻ってきた。
 主人は微笑して、盤面へ視線をおとし次の一手を打とうとした。
 その一瞬、機械のような動作で景時の手が刀の柄にかかり、引き抜かれると同時に主人の首筋へガッと切り込まれた。
 骨を断つ難い音が冬の夜空を震わせ、首は足もとに落ち、白い脛一秒の何文の一かの間、彼の目入った。
 鮮血は天井まで吹き出し、彼もザッと返り血を浴びて立っていた。血刀をぶらさげ、家来たちの斬りかかるのをゆっくり制すと頼朝公直筆の命令書をとり出し、低い声で言いはじめた。
「おのおのがた、これは梶原景時狂気の振舞いではない。頼朝公が殺せ、と仰せられたのである。いやな役目だが仕方がない。ひとりで俺はここへやってきた。今からお首級を大倉の幕府まで持参しなければならないが、それからならば斬るとも突くとも、どうぞ存分に主人の仇をうってくれ。梶原平三景時,逃げもかくれもしないであろう」
 内心おそれ戦きながらもとりつくろって、こう述べおわると彼は血まみれの首級を用意の布に収め、諸人只あ然と見おくる中を歩み去っていった。
 戸外は凍てつくような初冬の夜更けだった。月もなく、滑川上流のせせらぎの音と巳の馬の蹄の音が聞こえるばかりである。心身ともに疲れはてて大儀だったがふと岩の間にしたたり落ちる水流の音を聴いて駒を停め、彼は鞍から下りて口をすすぎ、刃の血糊を洗い落したのだった。刃は氷のように冷え、血痕は膠のように固くこびりついて容易には落ちない。ようやく刀を清めおわると、今度は首級を洗いはじめた。
 平然と洗っていた景時は、むしろ冷水に指をさらすのをぞくぞくと快くさえ思っていたのだが、湿った頭髪を伝わって、頭のシンのぬくもりがまだかすかに感じられるのには不気味の念を覚えないわけにはゆかなかった。
 テロリストは再び馬上の人となり、十二所、浄妙寺、杉本寺と通過して、鶴岡八幡宮手前大倉の幕府の堀を渡り黒い門の中へ吸い込まれるように入っていった。というような記述がありました。

(太刀洗水の源流)

(梶原太刀洗水の泉)

(太刀洗水川)

(太刀洗水の泉)


日蓮水(にちれんすい)について

2018-01-06 08:47:58 | 日記
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 日蓮真筆独特の雄渾暢達な書体を用いて刻まれた、高サ140㎝の石碑がデンと据えてあるのが異彩を放つ。
 背後を15輌の長蛇のごとき編成の横須賀線電車がゴーッと名越トンネル目指して地響を立て往く。
 場所は銚子井よりの裏道であり、名越坂踏切から100m手前である。
 物々しい玉垣に囲われ、井戸のようにしつらえてあるが、元来は湧き水であって、よく見ると右側の、ごく小さな家へ向って樋を伝わり、水が流れている。樋の終点には素焼きの濾過器がある。
 濾過器を使わないと飲めないほど水質は低下しているが、これは昔と水脈が変ったためだろうという。井戸替えは毎年やっているそうであるが、それにも拘らず水は良くならない。
 日蓮信徒が太鼓を鳴らし、数珠をつま繰りながらお題目を唱え、礼拝して往くことも時々ある。草をむしり、周囲を掃き清めていってくれるという。
 現状のように土管を載せ、ふたをかぶせたのは1950年代。以前は30㎝位の丸い穴が開いているだけだった。
 以上が日蓮水について知り得たことのすべてである。
 話としては、次のように伝えられる。
 建長5年。長谷大仏が造立された翌年の5月。32歳の青年僧日蓮は新仏教弘通(ぐづう)の志に燃え、鎌倉へやって来た。
 故郷の安房小湊より三浦の米ケ浜(今の横須賀)へ渡り、三浦街道から逗子へ出て名越の切通しを上下して、今ここまで辿りついたのである。
 初夏の太陽は多難な前途を思わせるかのようにカッと照りつけて、今さらのように足の疲れ、喉の渇きが、流れる汗とともに一時に出てきた感じである。
 このとき日蓮上人は何事かを念じて手に持つ杖を地面に突き立てる、と不思議なるかな、たちまち足元より清冽な水がこんこんと湧き出て、上人の渇きは即座に癒されたのである。
 以来どんな干旱にも、この水はかれるということはない。里人は有難いことだと日蓮上人の御遺徳だといい伝え、いっしか日蓮お乞水と名付けられたという。
 遺跡 日蓮の活動の舞台となった鎌倉一帯には遺跡・聖地は多いが、その幾つかを列挙してみると、小町・辻説法あと。長谷・四条金吾邸あと。長谷・光則寺、日朗上人土𡧃。七里ケ浜・行合川沿いの日蓮雨乞池。片瀬江ノ島・竜の口法難記念の竜口寺。
 この他にもあろうが、・・・・などという記述がありました

(日蓮水の跡名囲い)

(同じ囲い)

(供えの下が名水の井戸)

(名水への道)

不老水(ふろうすい)について

2018-01-02 07:01:32 | 日記
 「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 是は建長寺の裏山にあります。
 昔異人此れているを呑みて容貌の替わらさりしというより、仙人水または仙池とも唄えしという。其傍に仙人沢として異人の柄し所あり。
 さあ、わからない。全然からない。なーんにもかわらない。最近不老水らしい湧水の撮影に成功したことはたしかであるが。
 場所は半僧坊の急な石段の手前にある青銅製の鳥居の左脇である。参道より一段高くなった草むらの崖下の内側にカーブしたところに湧き水はあった。
① 建長寺の事務所で聞いてもわからないと言う。
② 半僧坊の社務所でも「不老水の所在地は、どこかはよく判りません。この付近だと思いますが…‥」という曖昧(あいまい)模糊とした返事しかいただけなかった。
③ 不老水のあった場所は鎌倉学園のグランドになっている。という学説もある。(「かまくら子ども風紀」中巻、26頁)
「仙人」については、「もうすでに世の中は21世紀となった、残念ながらお前さんの出番はないよ」と引導を渡し、お引取りいただいたほうが賢明であろう。昔の文献、例えば葛洪の「抱く朴子」平凡社、中国古典文学大系8、昭和44年(1969年)初版、を読めば仙人について実に詳細にかいてある。
 「新編鎌倉誌・鎌倉攬勝考」というのは江戸時代の1685年に書かれた鎌倉の地誌であり名所旧跡案内記である。そこに不老水の所在地が大体記載されていて、この水を飲んで、容貌は替わらなかった、という記述もある。異人とは仙人のことかもしれないという花卉うである。この湧き水は不老水であり、仙池とも記されているのだ。きっと何時までも容貌の替わらなかった異人がこのあたりには住んでいたのだろう。容貌が何時までも変わらなかったということは常に若々しい状態であった、とも解釈できる。この水にそのような美容効果があるとしたら、さあたいへん。美白だ、エステだ、ドモホルン化粧品以上の劇的な効き目である。聞き伝えた神奈川県新聞も朝日新聞も勢い込んでやってくるだろう。日本テレビも取材にくるだろう。著者は責任を持っていない。腹をこわしても知りませんょ。飲むならポリタンクかペットボトルにつめて持ち帰り、よく濾過したうえで飲んでいただきたい。沸かしてお茶を立てるかコーヒーを淹れれば完璧だ。
 鎌倉の水道局の水だって簡易濾過器を蛇口に取り付ければカルキ臭や不純物はきれいに取り除け。くれぐれも湧き水をそのまま飲まないようにお願いする。……などという記述がありました。

(建長寺総門)

(建長寺の裏山への階段)

(戸のグランドのどこかに不老の水が・・・)