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外国郵便創業の局

2015-11-28 09:25:22 | 日記
 今日は、日本大通りを大桟橋に向って歩いていくと本通に差掛る右側に、外国郵便創業の局と云う碑があり、また、関内桜通りを横浜港に向かっていくと横浜郵便発祥の地という碑があったので、これらを「明治事物起源事典」で調べて見ると、明治3年(1870)6月、前島密は郵便制度を建議し、これに基づき翌4年3月1日に東京〜京都〜大阪間に郵便が開始された。
 そもそも、近代郵便制度は、1840年(天保10年)にイギリスでスタートしているが、その基本的考え方は、一定の重量の郵便物であれば全国どこでも一定の料金で配達するというもので、そのために国営事業とし、切手により料金を前納させるシステムが必須であり、この制度は見事に成功をおさめ、世界中に広がった。
 明治政府もその重要性は十分認識しており、前島密の建議からわずか1年たらずで、近代郵便制度が発足したのである。郵便事業を行うために切手、郵便箱がつくられ、集配元号員も新たに募集したが、逓送用の行李(こうり)などは飛脚の時のものが使われた。東京府内に初めて設置された郵便ポスト(書状集箱)は東京郵便役所前、永代橋、浅草観音前など12ヶ所だった。
 正に郵便事業が始まった明治4年の浅草観音前には郵便と書かれた旗がかかげられて、書状集箱の設置を知らせていた。最初の郵便ポスト姿は柱に箱を取り付けた極簡単なもので、ここから1日1回郵便物が集められた。明治5年になると郵便ポストの設置数も格段に増えて形も角柱形へと変わり、集配人の服装も洋装となっていった。また、この年にほぼ全国的に郵便が行きわたり、明治6年(1873)5月には、それまで認められていた飛脚が禁止され、郵便制度は確立していった。
 郵便物の輸送も全国をカバーするために川蒸気船や郵便馬車会社の長距離馬車便などさまざまな手段が用いられ、さらに鉄道も開通し同時に主力輸送機関として、大きなウェイトを占めていった。
明治27年(1894)には、集中局から専用の輸送袋に入れて駅まで届けられた郵便物は、次々と「客車の一部の郵便用スペースに」積み込まれ、その郵便物の仕分け作業が行われている。当時の絵から、その隣には乗客の姿も見えるので、1つの車両が乗客用と郵便物用に区切られていたことがわかる。これら郵便物の仕分けは、鉄道郵便掛員が夜中汽車室内に於いて執務し、到着駅で引き渡されるのであろう。
 さて、外国郵便物は「横浜もののはじめ考」によれば、次のように記載されていた。
外国郵便物は、横浜郵便局では、明治4年(1872)3月1日郵便制度が創始されて、外国から日本人宛に送られてくる郵便物については、外国郵便局の私書箱の1つを駅逓が借り受けて配達したり、日本人が外国に差し出す郵便物は、駅逓が仲介して外国郵便局から発送したりしていた。駅逓頭「前島密」は、外国郵便をも日本政府の管轄下に置くために、米公使デ・ロングの推薦でブライアンを雇用し、アメリカへ派遣、交渉の結果、明治6年(1874)8月6日、日米郵便交換条約が締結された。
明治8年(1876)1月1日にアメリカ郵便局が廃止され、新設の横浜郵便局に業務が移管され、5日には「外国郵便開業式」が盛大に行われている。
 明治7年(1875)10月、万国郵便連合が発足、明治10年(1878)6月、日本も加盟し、その結果。明治12年12月にはイギリス、明治13年(1881)3月にはフランスの各郵便局が廃止され、外国郵便業務はすべて日本政府の管轄下に置かれることとなった。と記述されていた。

(外国郵便創業の地局の銘板)

(外国郵便開80年記念碑)

(上に同じ)

(横浜郵便局発祥の地)

(同碑の周辺域)

開港150記念碑について

2015-11-14 08:55:23 | 日記
 横浜港大桟橋から、赤煉瓦倉庫のある桜木町方向に歩いていくと、横浜港開港150の碑がありましたので、「横浜もののはじめ考」により調べてみると、次のように掲載されていたので、投稿いたします。
 最初に日米修好通商条約では、神奈川、長崎、函館を安政6年(1859)7月4日に開港することになっていた。この日アメリカの独立記念日にあたる。次の日蘭条約もこれを踏襲したが、続く日露条約で7月1日とされ、日英条約もそれに従った。日仏条約では8月15日になっているが、これは当時のフランス皇帝、ナポレオン三世の誕生日にあたる。結局、最恵国条款にり、5カ国すべてに対して、7月1日(陰暦の6月2日)に開港されることになったのである。
 条約では、神奈川が開港場に定められていたが、神奈川の一部だという口実で、実際には横浜が開港された。東海道に沿う神奈川では、外国人との間にトラブルが予測され、辺鄙(へんぴ)な横浜の方が取り締まり易いと考えたからである。水深の深い横浜地先は港として優れており、背後地に市街地として開発しうる新田地域が広がっていたので、開港後横浜は急速に発展していく。
 「村垣淡路守公務日記」をみると、開港当日の7月1日、これを記念するような行事は何もなかった。「アメリカ彦蔵自伝」によると、7月4日、湾内に停泊する船に旗が掲げられ、米領事館に当てられた神奈川の本覚寺では、墓地の大木に星条旗が掲げられ、公使ハリスを始め、領事ドーア、領事館員のヒコやヴァン・リードらは、シャンパンを抜いて合衆国国家を合唱した。「事物起源」は、これを「横浜開港記念日の始」としているが、開港を祝したのか、合衆国の独立を祝ったのかはっきりしない。いずれにしてもアメリカ人だけの祝賀行事であった。
 「沿革誌」によると、万永元年6月2日開港一周年を記念するため、洲干弁財天で祭礼が挙行され、「外国人に示サンカ為メ男女美麗ヲ尽シ」山車・手踊りで市街を練り歩いた。本来8月15日であった洲干弁財天の例祭は、以後この日の淵源である。明治42年には、開港50年祭が全市挙げて盛大に行われ、浜菱の市章と市歌もこの時に定められた。これ以降陽歴を採って7月1日が記念日となる。
 大正7年から小学校と市役所が休日となった。昭和3年、市会の議決を経て陰暦の6月2日に戻され、現在に至っている。昭和33年(1958)には開港100年祭が挙行された。この年は99年目にあたるが、100年という意味で実施されたらしい。
 さて、外国商船の入港第1号は、「アメリカ彦蔵自伝」によると、開港前日の6月30日、公使ハリス、領事ドーア、それにヒコ自身が搭乗する軍艦ミシシッピー号とともに、ハード商会の派遣した、ワンダラー1号が入港した。これには、領事館員兼ハード商会代理人のヴァン・リードが乗っていた。ただし、条約発効前なので、翌7月1日には、シームセン商会が派遣したと思われるオランダ船シラー1号が入港している。
 一方、外国商人の開業第1号は、幕府は開港に備えて、運上所(現在の税関)続きの地所に外国人向けの貸長屋と呼ばれる収容施設を用意していた。横浜開港に反対して神奈川を主張し続ける外国人代表団に対抗して、外国商人を横浜に誘致する目的もあったからだ。
 「村垣淡路守公務日誌」によると、7月3日にオランダ人が借用を申し入れている。シラー1号で来航したクニラーであろう。2日後には、交渉がまとまり、16日に「店開き」をした。これが外国人の開業第1号である。
 ルイス・クニフラーはハンブルクの商人で、オナンダの保護の下、バタビァから来日、後に、長崎クニフラー商会、横浜にその支店を開設する。後継商社のイギリス商会は、現在も健在である。
 かつては、イギリスのジャーディン・マセソン商会が出店第1号と考えられていたが、現在は誤りであることが明らかとなっている。彼らは、オランダ船アタランテ号に搭乗して入港したのは7月5日、彼らはしばらく船上で生活しており、7月中には貸長屋に移るがクニフラーより先にしたとは考えられない。と掲載されていました。
 また、地番の始めについては、居留地の地番はあったが、文久元年の末頃、神奈川奉行所は居留地の図面を作成し、これに番号を付した。ジャーディン・マセソン商会が英一番館と呼ばれるのは、これに基づいている。
 これが横浜における地番の始まりである。長崎の大浦居留地ではこれより早く、万延元年(1860)には地番が付され9月29日に調印された長崎地所規則に基づくものと思われる。第4条に「境界を確定すために、その地所の番号を明確に彫付けた境界石を設置する」と云う規定がある。
 その一カ月程前の8月中、これとほとんど同文の神奈川規則が、英米蘭三国領事の間で締結されているが、これは日本側の承認を経ておらず、したがって拘束力を持たなかった。横浜で地番の設定が遅れたのは、このような事情によるのであろう。「事物起源」によると、東京における地番の初見は、明治2年12月、同4年の戸籍編成法で地番の設定が義務付けられた。横浜でそれが実施されたのは、「沿革誌」によると明治7年のことであった。

(開港150年記念碑)

(建てた年・団体等)

(記念碑裏面)

(港にかかわる偉人達の功績塔)


鉄道創業記念碑について

2015-11-07 08:44:03 | 日記
 京浜間鉄道の建設は、誕生したばかりの明治政府が手がけた大事業の一つであった。問題の発端は、ホートマンの取得した免許の効力を認めるかどうかにあった。
 明治2年(1870)2月正式に拒否回答を手交、翌月には灯台療のブラントが、国営による建設を勧める意見書を提出している。政府の財政的な基礎も定まらず、国内で資金を調達する見込みも立たず、外債の募集によって露見することをも恐れた政府は、英公使パークスの勧めを受けいれ、関税と将来の運賃収入を抵当に、「プロの請負人」であるトイから内密に資金を借り入したらしい。これがレイ借款である。
 しかし、ポ-トマンの契約の有効性を主張する米公使で・ロングがこれを暴露したことや、レイが日本政府の代理人と称して、ロンドンで公然と外債の募集を行なったことから、明治3年(1871)5月、違約金を払って契約を破棄、翌年、オリエンタル銀行に公債事務を委任することになった。その際、レイの募集に応じた外債もそのまま公認することとし、これが、わが国最初の外債である。
 レイの契約が破棄されたのち、オリエンタル銀行本店監査役のカーギルが横浜支店に派遣され、鉄道差配役として、資金の調達、技師の人選、資材の購入等一切を取り仕切った。
 明治3年(1871)3月、民部省・大蔵省に鉄道掛けを置き、横浜野毛町元修分館に出張所を置いた。同じ頃、レイと契約した建築師長モレルと副役のダイアック、イングランド、シェファードが来日、早速、測量に着手した。その結果、前年埋め立てられた野毛町海岸を停車場敷地に決定、5月には、神奈川青木町海岸から石崎までの海面埋立を高島嘉右衛門に委託した。
 高島嘉右衛門が突貫工事で、期間内の明治4年(1872)2月までに竣工せ、埋立地に高島町の名を遺したことはよく知られている。8月に横浜・神奈川間で試運転が行われた。9月にはブリジェンスの設計になる駅舎が完成、わが国最初の鉄道駅舎である。明治5年(1873)5月には、横浜・品川間で仮営業を開始、途中に駅はなく、所用時間は35分であった。神奈川・川崎両駅が開業したのは、6月5日からである。6月10日付け「横浜毎日新聞」は、「あたかも人間に羽翼を付して天空を翔けるに似たり」と形容している。
 開業式は、9月12日、が横浜・新橋間全線開通し、明治天皇が出席して盛大な開業式が行われた。当日、市街は15万張の提灯で飾られ、5千人の見物客で賑わったという。居留外国人を代表してマーシャルが、横浜商人を代表して原善三郎が、それぞれ天皇に祝辞を述べた。
 なお、開業式にあたり、工部省鉄道寮が入場券を発行した。これが入場券の始めとされる。この日陽歴に換算した10月14日が鉄道記念日となっている。
 翌9月13日から営業が始まった。片道53分、1日9往復の運行であった。この日に鶴見駅も開業となった。
 鉄道建設工事には多くの外国人技師達が働いた。そんな中には、蒸気機関車の発明者の孫、トレヴィシックもいた。初期には運転手も外国人だった。レイと契約を結んで来日した4人のうち、建築師長モレルを始め、シェファード、イングランドの3人は若くして、日本で死去している。これも激務の犠牲になったものと推測される。
 モレル、イングランド、シャン、建築家として横浜居留地に定住したダイアックらが山手の外人墓地に葬られている。モレルの後任には、ボイルが就任し、明治10年(1878)11月には六郷川鉄橋架け替え工事を完成させた。これが東日本最初の鉄製鉄道橋である。
 また、鉄道開業当時は、片道乗車券しか発行されていなかった。往復乗車券の最初の発券は、明治7年(1875)8月、大阪・神戸で発売されたものの、京浜間では、明治11年(1879)3月21日川崎大師の縁日にあたって臨時に発券され、同年10月1日から常時発売されるようになった。などと記載されていたので、投稿いたます。

(鉄道創業の碑)

(上に同じ)

(当時の駅舎)

(碑に掲載された当時の模様)

(碑に掲載された当時の模様)

(記念碑について)

(当時の駅長室跡銘板)

(旧横浜港プラットホームについての告知版)

(旧横浜港プラットホーム)

(当時の線路)