今日は、日本大通りを大桟橋に向って歩いていくと本通に差掛る右側に、外国郵便創業の局と云う碑があり、また、関内桜通りを横浜港に向かっていくと横浜郵便発祥の地という碑があったので、これらを「明治事物起源事典」で調べて見ると、明治3年(1870)6月、前島密は郵便制度を建議し、これに基づき翌4年3月1日に東京〜京都〜大阪間に郵便が開始された。
そもそも、近代郵便制度は、1840年(天保10年)にイギリスでスタートしているが、その基本的考え方は、一定の重量の郵便物であれば全国どこでも一定の料金で配達するというもので、そのために国営事業とし、切手により料金を前納させるシステムが必須であり、この制度は見事に成功をおさめ、世界中に広がった。
明治政府もその重要性は十分認識しており、前島密の建議からわずか1年たらずで、近代郵便制度が発足したのである。郵便事業を行うために切手、郵便箱がつくられ、集配元号員も新たに募集したが、逓送用の行李(こうり)などは飛脚の時のものが使われた。東京府内に初めて設置された郵便ポスト(書状集箱)は東京郵便役所前、永代橋、浅草観音前など12ヶ所だった。
正に郵便事業が始まった明治4年の浅草観音前には郵便と書かれた旗がかかげられて、書状集箱の設置を知らせていた。最初の郵便ポスト姿は柱に箱を取り付けた極簡単なもので、ここから1日1回郵便物が集められた。明治5年になると郵便ポストの設置数も格段に増えて形も角柱形へと変わり、集配人の服装も洋装となっていった。また、この年にほぼ全国的に郵便が行きわたり、明治6年(1873)5月には、それまで認められていた飛脚が禁止され、郵便制度は確立していった。
郵便物の輸送も全国をカバーするために川蒸気船や郵便馬車会社の長距離馬車便などさまざまな手段が用いられ、さらに鉄道も開通し同時に主力輸送機関として、大きなウェイトを占めていった。
明治27年(1894)には、集中局から専用の輸送袋に入れて駅まで届けられた郵便物は、次々と「客車の一部の郵便用スペースに」積み込まれ、その郵便物の仕分け作業が行われている。当時の絵から、その隣には乗客の姿も見えるので、1つの車両が乗客用と郵便物用に区切られていたことがわかる。これら郵便物の仕分けは、鉄道郵便掛員が夜中汽車室内に於いて執務し、到着駅で引き渡されるのであろう。
さて、外国郵便物は「横浜もののはじめ考」によれば、次のように記載されていた。
外国郵便物は、横浜郵便局では、明治4年(1872)3月1日郵便制度が創始されて、外国から日本人宛に送られてくる郵便物については、外国郵便局の私書箱の1つを駅逓が借り受けて配達したり、日本人が外国に差し出す郵便物は、駅逓が仲介して外国郵便局から発送したりしていた。駅逓頭「前島密」は、外国郵便をも日本政府の管轄下に置くために、米公使デ・ロングの推薦でブライアンを雇用し、アメリカへ派遣、交渉の結果、明治6年(1874)8月6日、日米郵便交換条約が締結された。
明治8年(1876)1月1日にアメリカ郵便局が廃止され、新設の横浜郵便局に業務が移管され、5日には「外国郵便開業式」が盛大に行われている。
明治7年(1875)10月、万国郵便連合が発足、明治10年(1878)6月、日本も加盟し、その結果。明治12年12月にはイギリス、明治13年(1881)3月にはフランスの各郵便局が廃止され、外国郵便業務はすべて日本政府の管轄下に置かれることとなった。と記述されていた。
(外国郵便創業の地局の銘板)
(外国郵便開80年記念碑)
(上に同じ)
(横浜郵便局発祥の地)
(同碑の周辺域)
そもそも、近代郵便制度は、1840年(天保10年)にイギリスでスタートしているが、その基本的考え方は、一定の重量の郵便物であれば全国どこでも一定の料金で配達するというもので、そのために国営事業とし、切手により料金を前納させるシステムが必須であり、この制度は見事に成功をおさめ、世界中に広がった。
明治政府もその重要性は十分認識しており、前島密の建議からわずか1年たらずで、近代郵便制度が発足したのである。郵便事業を行うために切手、郵便箱がつくられ、集配元号員も新たに募集したが、逓送用の行李(こうり)などは飛脚の時のものが使われた。東京府内に初めて設置された郵便ポスト(書状集箱)は東京郵便役所前、永代橋、浅草観音前など12ヶ所だった。
正に郵便事業が始まった明治4年の浅草観音前には郵便と書かれた旗がかかげられて、書状集箱の設置を知らせていた。最初の郵便ポスト姿は柱に箱を取り付けた極簡単なもので、ここから1日1回郵便物が集められた。明治5年になると郵便ポストの設置数も格段に増えて形も角柱形へと変わり、集配人の服装も洋装となっていった。また、この年にほぼ全国的に郵便が行きわたり、明治6年(1873)5月には、それまで認められていた飛脚が禁止され、郵便制度は確立していった。
郵便物の輸送も全国をカバーするために川蒸気船や郵便馬車会社の長距離馬車便などさまざまな手段が用いられ、さらに鉄道も開通し同時に主力輸送機関として、大きなウェイトを占めていった。
明治27年(1894)には、集中局から専用の輸送袋に入れて駅まで届けられた郵便物は、次々と「客車の一部の郵便用スペースに」積み込まれ、その郵便物の仕分け作業が行われている。当時の絵から、その隣には乗客の姿も見えるので、1つの車両が乗客用と郵便物用に区切られていたことがわかる。これら郵便物の仕分けは、鉄道郵便掛員が夜中汽車室内に於いて執務し、到着駅で引き渡されるのであろう。
さて、外国郵便物は「横浜もののはじめ考」によれば、次のように記載されていた。
外国郵便物は、横浜郵便局では、明治4年(1872)3月1日郵便制度が創始されて、外国から日本人宛に送られてくる郵便物については、外国郵便局の私書箱の1つを駅逓が借り受けて配達したり、日本人が外国に差し出す郵便物は、駅逓が仲介して外国郵便局から発送したりしていた。駅逓頭「前島密」は、外国郵便をも日本政府の管轄下に置くために、米公使デ・ロングの推薦でブライアンを雇用し、アメリカへ派遣、交渉の結果、明治6年(1874)8月6日、日米郵便交換条約が締結された。
明治8年(1876)1月1日にアメリカ郵便局が廃止され、新設の横浜郵便局に業務が移管され、5日には「外国郵便開業式」が盛大に行われている。
明治7年(1875)10月、万国郵便連合が発足、明治10年(1878)6月、日本も加盟し、その結果。明治12年12月にはイギリス、明治13年(1881)3月にはフランスの各郵便局が廃止され、外国郵便業務はすべて日本政府の管轄下に置かれることとなった。と記述されていた。
(外国郵便創業の地局の銘板)
(外国郵便開80年記念碑)
(上に同じ)
(横浜郵便局発祥の地)
(同碑の周辺域)