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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

金龍水(きんりゅうすい)について

2017-12-30 18:34:40 | 日記
 「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 今は忘れ去られた鎌倉五名水の一つ、金龍水。たしか建長寺門前付近にあると二、三の地図に出ていたのを思い出し、旧式のオリンパス・ズーム一本勝負片手に旧式の乗用車に乗りこみ、現場へやって来た。
 金龍水、残念ながらかげもかたちもない。場所は建長寺門前なら左側。鎌倉学園高等学校入口と高梨商店の間にあったが道路工事の際、姿を消してしまった。この事実は建長寺門前の塔頭・禅居院に問い合わせてわかった。当日午後、建長寺門前で写真を撮っていると、偶然鎌倉市消防署の係員数名が鎌倉学園高等学校から出てきて現場付近に立っていた。消防署員なら防火用水としての井戸や湧き水についてはくわしい。早速問い合わせてみたところ「その通りです、金龍水は昔この辺にあったのですが、もう存在しません」とのこと。
 鎌倉市山ノ内百十五番地の高梨商店で御主人の高梨利雄さん(62歳)にお尋ねしてみたところ、「私が子供の頃はまだ金龍水は存在した。しかし手押しポンプは壊れていて、もはや飲料水としては使用していなかった」とのことであった。
その後壊れたポンプは撤去され、石の井戸枠だけが残っていた。水は湧き出していた。約40年ほど前、道路の拡幅工事のためついに金龍水は埋められてしまったということである。昭和37年(1962年)頃消え失せてしまったらしい。
 高梨商店右側にある郵便ポスト左下に金龍水跡が残っている。
 ポストの左下に舗装のタイルを約67㎝四方茶色にかえた部分が見える。
 これが金龍水のなれの果てである。
 色即是空。姿あるものは必ず滅す。……などと言う記述がありました。

(建長寺山門)

(高梨商店前の郵便ポスト)

(ポストノ横の敷石のクリーム色当たりに存在)

(ホスト前から建長寺総門を望む)

銭洗水について

2017-12-23 06:45:41 | 日記
 今回からは、鎌倉五名水について、投稿いたしますので、引き続き閲覧をお待ちしています。

 「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 文学者は、直観的に、銭洗水に何を観照したか、蒲原有明(1876~1952)の「飛雲抄」(昭和13年書物展望社)の中から銭洗井の一文を拝借してゆっくりと味ってみよう。
 (この岡(葛原岡のこと)から山内の円覚寺門前に出る小径もあるが本道に戻って、化粧坂から行くとすれば左に折れて狭く急な坂を下りると、そこは佐倉谷の奥で、隠里(カクレノサト)の岩窟の天井にでる。隠里については早く柳田さんの研究があって総てを尽くしている。ただ椀貸伝説がなかったためか、ここの岩屋は省かれていたように思う。窟内には清水が珍しく湧出していて鎌倉の名水の随一である。往時福神とか福人とかが銭を洗っていたという因縁から、この清水を銭洗井の名跡で僅かに語り伝へている。人間の業いに関する匂いが深く、それをたどっただけでも、木地屋生活の資材とならぬものでもあるまいと想像される。木地屋は近江の小椋村に住んでいて、その地名を姓としていた。このヲグラはカクレと疎遠(そえん)の語とは思われない。これも民俗の歴史を語る一つの窪地の遺跡である。
 この銭洗井に今日弁財天の祀ってあることには不思議はない。佐介谷は平常寂しいところで、一方稲荷社の参詣道には人家も少しはあるが、こちらの窟の方へは全くの野径そのままである。それが一年一度は大層な信者を引つけていた。世界大戦景気(第一次大戦のこと)の熾なことが、この弁財天流行の絶頂と意ってかったろう。信者は主として横浜あたりから来ていた。大正9年の春であったかと思うが、人にすすめられて行ってみると、窟内は御幣や御蝋で一杯になっている。佐介稲荷でここも兼ねて受持っていると聞いたが、禰󠄀宜らしい人や俄神人たちが寄り集って御符を出している。成程ひどい人出である。
 今眼前に見る欲心の発動も、これを神事として考えれば、人間の執着がこれによって少しでも浄められていると思はねばならない。名水は明日にもまたもとの清澄に返る。潔癖は大に恥ねばならぬと省察はしたもののあの銭の垢の濁水を時々想い起こして気を悪くしている。やはり凡夫のはかなさである。
 そもそも扇ケ谷佐介溪谷にある隠里の名水銭洗の由来とは何であろう。 
 昔保元平治の兵乱あってより世の中には飢餓が続き人々の疲弊甚だしいく、実に目も当てられぬ有様だった。そのような時源頼朝公が伊豆より起て、驕る平家を討滅し、府を鎌倉に開いてより四海の波は漸く静になったのである。が、国民の貧困は容易なことでは去らない。頼朝公は深く歎󠄀息し、厚く神仏の加護を祈って四民の苦しみを救わんと、日夜神仏に祈誓し給うた。すると不思議なるかな、文治元年巳の月巳の日の夜中すぎ一人の老翁が忽然と現れて告げて言うことには、「汝万民の為心鬼を労す事年久し。我其誠心に感じ、四海安隠四民豊楽の奇瑞を教えるから露疑をあるべからず。之より西北方に当りて一つの谷あり。境域清浄にして神泉あり岩間より湧出す。此処は福神隠れ居て閼伽の浄水を汲むが真神極秘の霊水である。凡俗はこれを知らず。今改めて汝に与う。されば今後此水を汲み来りて断えず城中に用い天神地祇両部界会の神仏に供養する時は人民自ずから信心を起し、悪鬼邪神何時しか退きて汝が政令行われざる事なく四海の内忽ち豊楽の栄を見ん。我は即ち隠里の主宇賀福神なり」こう言い終わると老翁の姿はかき消す如く失せてしまった、と思えば一場の夢であったが頼朝は心中深く恭敬の念を覚えて直ちに近侍を使はして、霊告の処を尋ねさせたのである。果たして溪谷の間に流水があり、遡って其水源に到れば清泉湧出して誠に夢の中のお告げとドンピシャリである。頼朝公大いに歓喜して、早速石工に命じて其岩窟を穿ち新たに荘厳さを施して、此処に夢中の霊神即ち宇賀神を勧請し、日々その水を運んで城中の用に供えたのである。従来鎌倉府中に四つの名水があり四井の御前水と言われていたが此度隠里の名泉を感得し給うて五井の一位に加え、五名水と称えるようになったのである。」云々・・・など
 また、何時の頃から銭洗いという教儀が実践されるようになったか。早急な結論は出せないが、縁起の創作年代が江戸中期以降と推定されるので、銭洗弁天の流行もその頃からとみ見てよかろう。
 江戸初期の古絵図には佐助谷・隠里のみあって「佐助稲荷は出ているが」銭洗弁天の文字はないと元鎌倉市図書館長の澤氏は言われる。五名水ということが言われたのは江戸期のやや後のことである。「新編鎌倉誌」という鎌倉最古の地誌集成(1685年)にはたった二行「銭洗水 隠里の巌屋の中にあり、福神銭を洗と云う。鎌倉五名水の一也」と出ている。まだこの頃はほとんど知られていなかったのだ。
 縁起では頼朝夢枕に続いて最明寺人道時頼公がかつぎ出されている。
 「その後正嘉元年(1257年)巳の仲秋。時の執権最明寺時頼公は頼朝公の信心に基づき、同じ隠里の福神を信仰され更に万民のために福徳の現れるようにと「辛巳」「なる」「かね」という暦日を選び、人民に勧めて此日に参詣させると同時に、世上の通宝である貨幣を持って来てこの水で洗い清めると不浄の塵垢は消えて清浄な福銭となり、その銭は必ず一粒万倍の効力を顕して一家繁昌、子孫長久の守となるであろうとて、自らも所持の金銭を夥多洗ってこの祈誓をなし給うた・・・・・云々」との記述がありました。

(正面 銭洗いへのトンネル)

(銭洗いのトンネル前)

(名水と言われる水で、子供達が銭を洗っている)

(銭洗いの洞窟に祀られている 神様)

逆川橋について

2017-12-16 06:49:06 | 日記
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
逆川橋は、大町四つ角の南、50メートルの所にある。大通りを一寸左へ入った小路にかかっているので、うっかりすると通り過ぎて横須賀線の踏切の方まで行ってしまう。踏切から450メートル先には乱橋があり、それこそ夜陰に乗じて盗もうと思えばオートバイに積んで運んで行けそうな橋であり、これが乱橋材木座の名の起りかと思う笑止千万である。
 さて、逆川橋はどんな伝説を秘めているか?であるが、これは残念なことに何もなさそうである。
ただ川の名が面白い。源を東の方名越谷の内黄金窟(やぐ)辺(ら)に発して流れ来り、名越坂町の辺にて名越坂及び松葉谷辺より流れ来る小流合して一流となり、西南にて前の閻磨堂(えんまどう)川に入る。(新編相模国風土記稿)
 閻磨堂(えんまどう)川とは滑川の下流のことであるが、その支流である逆川は合流点近くでは三間余り(5.5メートル)もあったのみならず、名越の通りを出てから、この橋のところまでZ型に蛇行して、西北つまり海とは反対向きに流れるというヘソ曲りをやっているのである。そこで逆川と名づけ得たのである。筆者の記憶では伊東市川奈へ行く道(旧道)途中にも逆川と言うのがあった……。
 國北独歩の名作、鎌倉夫人には昔の恋人と滑川河口で再会する権利がある。この逆川橋の辺りにも、何かそれらしいラブロマンスでもないものか、と思うのである。十井十橋五名木というのはどうも江戸時代の文人墨客趣味が横溢していて古風にすぎ、一般的ではないようである。しかし、ないものねだりは出来ないので、この辺で一転して2002年度選定の鎌倉の新しい名数(風景)を御披露申し上げる。これによって古色蒼然たる名数史跡にすこしでも若返りの効果があがれば幸いである。
 新しい鎌倉の名数 鎌倉八景というような記述がありましたので、投稿いたします。
  第一景 鎌倉山の月
  第二景 七里ケ浜の夕陽
  第三景 葛原岡の富士
  第四景 天園の朝明け
  第五景 瑞泉寺の梅
  第六景 建長寺の桜
  第七景 明月院の紫陽花
  第八景 鶴岡八幡宮の掛(ぼん)雪洞(ぼり)(夏越祭)

(逆川橋欄干)

(逆川橋石柱)

(橋の下を流れる滑川)



十王堂橋について

2017-12-09 09:05:58 | 日記
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 十王堂橋は、北鎌倉駅前通りを、150メートル大船へ向かった所にある。
 名の由来は、鎌倉・室町の時代、この付近に十王堂があったことによる。
 江戸時代には、すでに跡形もなかったことが新編鎌倉誌によってわかるが、幸いなことに、ここから1500メートルほど鎌倉寄りの小袋坂頂部右手にある、新居山円応寺が実は、十王堂そのものである。
 もちろんこの橋のたもとの十王堂というのではなく、昔由比ケ浜近い滑川のほとりにあって新居閻磨堂(えんまどう)といわれたのを、元禄時代現在地へ移転したものであるという。
 十王堂の中身 それは言うまでもなく地獄の十王たちである。……十王たち?
 代表的ともくされているのは、閻魔大王。大きな口をクワッとあき、世にも恐ろしい大眼球をむき、ハッタとばかり罪人を睨みすえる。
 地底をゆるがす大音声で断罪を下し、「いいえ、それは違います」と一言でも蚊細く抗弁しょうものなら獄卒二目くばせし、間髪を入れず浄玻璃(じょうはり)の鏡の覆いを取りのけさせる。……と、視よ。放送スタヂオのモニター用T・Vより鮮明に己が生前の罪状の数々が映し出されるではないか。
 親を足蹴にかけた。
 隣の犬が吠えて八釜敷いとて毒殺。
 盗み、偽り、虚栄、ハッタリ、怠惰、無慈悲、不真面目、数知れず。
 かくて亡者は勝ち誇る牛頭(ごづ)馬頭(めつ)の鬼に引きすえられ、口をこじ開けられ、大きな専用道具でギリギリグィッと舌をひん抜かれ、ギャアと叫んで閟絶する。
 円応寺では正面の帳の陰に一きわ巨大な閻魔大王がすわつている。他の九王は一段低い左右に居流れ、普通の仏教寺院と違う、異様な圧迫感を漂わす。
 このエンマ様は伝運慶作。彼が死に、冥途を旅して閻魔大王の前まで来たところ生きているとき、天才仏師としての手腕と業績が顕著であると認められ、突如生き返った。そのときの大王の様子を刻んだものと伝えられるが、本当かどうか。
 エンマは、古代インドから中国を経由して我が国へ来たものだが、本来は人類最初の死者であって、双児と考えられていた。ヤマの方は男の死者を司り、妹のヤミーの方が女性の死者を扱っていた。
 中国へ来ると、道教の地獄思想と仏教の地獄観が混交し、ヤマの姿も次第とおそろしくなってくる。
 エンマ大王は、中国では第五の王で、それほど重要ではない。十王の中でもっとも威厳のあるのは第二王である。その名は初江王。初江王は運慶門下の秀才、幸有の名作で円応寺に残り、竹山道雄氏は左のように解説された。
 ミケランジェロが描いた、天地を創造し審判する神は、眼光けいけい筋肉隆々としている。どこまでも有として存在している。しかし、仏教では、そういうのは仁王かエンマのように、お寺の一番端の入口にいるので、奥に入るにしたがって、有は消えてしまい、本尊は目を伏せ筋肉もない。むこうからことらに迫ってくるのではなく、むしろ暗示によって、見る者の心から無限感絶対感をひきだそうとしている。
 初江王は有の立場にあって、人間を看破し審判している。地獄極楽を信じていた昔の人にとっては、この眼光は真におそろしかったにちがいない。(河出、昭和33年「鎌倉の仏像」)
 この木造・初江王は高さ1メートル、鎌倉彫刻の代表的逸品として国宝館に出陣中。
 竹山先生の御説明、鎌倉国宝館提供の写真、ともに結構この上なし、あとは皆様が入館遊ばされ、とっくりご覧になるだけだ。というような記述がありました。

(十王橋鎌倉方面を望む)

(十王橋大船方面を望む)

(十王橋下を流れる川)



勝の橋について

2017-12-02 15:16:28 | 日記
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 鎌倉駅西口から、扇ケ谷に向かって今小路と呼ばれる通りを徒歩10分、源氏山のふもと近くに勝の橋がある。ちょうど寿福寺の門前だが、あまり小さい橋なのでほとんど気がつかないで通り過ぎる。
 道幅5メートル、橋長1.8メートル小橋ばかりの鎌倉十橋中でも、乱橋や筋替橋とともに短いことではひけはとらない。
 明治末までは、中高の立派な橋だったが、今は路上に幅40センチの石の橋桁が7、8筋並んで見えるだけで、名橋の面影は失せてしまった。高さ75セントの鎌倉保勝会の石標でもなかったら、これが由緒ある橋とは誰も気がつかない。
 橋の名は、お勝の方という女性名に因んでつけられた。源平の頃より数百年を経て、江戸初期の寛永11年(1634年)彼女が鎌倉へ移って来てよりの事である。
 当時もこの小川の流れは変わらず、粗末なものでも橋はかかっていたことであろう。お勝の方はある時、それを架け替えた。腐朽がひどいのを見兼ねてのことであろう。豪華けんらんたる橋にしたわけではなかろうが、彼女の名声と人気が、この橋に名をととめることとなった。
 戦国時代も末の天正8年(1578年)彼女は、太田康資の娘として生まれ、幼名お八といった。父康資は、江戸城を築いた文武の名将太田道灌の末流であったが、不遇のうちに51歳で病歿(やまいぼっ)した。(主君北条氏に反抗し、その家臣の遠山丹波守政景と戦って敗れるという一幕があって、安房の小湊に引退したのである。
 当時4歳だったお八は、小湊の太田三楽斉という親籍の手で養われることになった。
 天正18年、父の仇北条氏は、豊臣に滅ぼされ、秀吉の重臣徳川家康が三河から関八州へ、新領主として移封された。
 江戸城は、玄関に舟板がぶちつけてあるという荒れ果てよう。その再興やら、狸やむじなの出没する野原の江戸の町づくりに家康は取り組むことにったのだが何事も”忍”の一字、じっと時節を待って辛抱をした。
 小湊にも新領主より「求人」の使者が来た。それに応えて、先祖ゆかりの江戸城へ奉公することになったのは12歳のお八一人。
 お梶と名を改めて忠勤した彼女は、やがて家康公の目にとまり、側室に出世した。23歳で関ヶ原、37歳で大阪両役に馬に乗ってはるばると従軍したというからただのお妾ではない。
 大阪夏の陣では、豊臣方の残党は滅び狸親爺の思う壺にはまって、天下はガッポリと手中へ転がり込んだ。勝ちいくさの記念に彼女の名も「お勝」と改められたと伝えられる。
 射撃、剣術、用兵、政治いづれも卓越した名将だった家康は、徳川幕府の開祖となり、「東照宮大権現」と神様に祭り上げられてしまったが、生きているときは大の好色家で、いくつになっても若い妾を大勢抱えていたようである。お勝はその中でも常に最高位で「御密蔵様」と呼称され、いくさばかりでなく、狩にも欠かさずお伴した。美しかったばかりでなく武人の妻として要素を全て備えていたと見える。
 あるとき江戸城内で、家康公が大勢の家臣たちと雑談の折、話題が食べ物に移って「およそ食べ物のうち、一番うまいというものは何じゃ」と御下問があった。銘々一番旨いと思うものを言ったが、お勝の方は「塩でございます。凡そ食べ物の味を引立て、旨くするも不味くするのも、塩加減ひとつでございます。」と答えた。
 なるほど、塩加減は調理の基本、筆者の父フランス料理のシェフだったから、その影響で筆者も子供の頃から習わぬ包丁を握ったが、材料の良さと塩加減が料理の死命を制することを痛感している。
 それにしてもお勝の答えは名答である。よほど料理で苦労した人だったのであろう。
 家康亡きあとは髪をおろして英勝院尼と号し、主君先祖の菩提を弔った。
 扇ケ谷が先祖道灌の邸跡だったので、彼女は幕府に願い出てその地若干を払い下げてもらい、補助金を申請して10年がかりで尼寺を建てた。(寛永11年、57歳の英勝院尼は、未完のまま江戸より移り住んだ。善行と念仏三昧に過ごして67歳で没した翌年(寛永20年(164年)にこの美しい尼寺はやっと完成した。)

 寿福寺先の東光山英勝寺がそれである。かなり荒れていたが昭和38年完全に修復され、鎌倉では珍しく360年前江戸初期の建築様式を残している。
 鐘が中にかくれた、和時計のような鐘楼、唐門、十二支の彫刻が四方にある本堂、極彩色の美しい祠堂など、県の重文に指定されている。と言うことなどの記述がありました。

(寿福寺の山門)この前に渇の橋の石柱

(勝の橋の石柱)欄干も川の形跡はありませんでした