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鎌倉の切通しについて

2017-05-27 08:44:12 | 日記
今回から、7回に亘って、鎌倉の切通について投稿させていただきます。「かまくら切通しストーリー」著者堤治郎 によれば、化粧(けわい)坂切通し、大仏坂切通し、極楽寺切通し、亀ケ谷切通し、巨(こ)福(ぶく)呂(ろ)坂切通し、名越切通し、朝夷奈(あさひな)切通しの七つの切通しがある模様です。
 今から八百年をはるかに越える昔、関東の一角にサムライ達のつくった都が誕生、場所は、相模国鎌倉郡鎌倉郷(現在の鎌倉市)つくったのは源頼朝、そのころの鎌倉の人口は千人にも満たない寒村で、住民のほとんどが漁師か農業とのこと。南は海を控え、東西・北の三方を山に囲まれた袋のような土地で、都となってからもその破れ目のような山道から、住民はもちろん訪問者が出入りしていました。通常なら、街道とか大道りなどと呼べるような道があります。ところが鎌倉の出入り口に関する限りは全くなかった。
 驚いたことに、近代に入って明治の中ごろまでそうであった。後に、鎌倉七口と呼ばれる道は、一部が国の史跡として現代に遺されていますが、ここを歩くと、その特異さが実感できます。
 鎌倉はとにかく切通しとトンネルだらけで、地図を広げて現代の鎌倉を思い浮かべて見て下さい。一番のメーン道路は国道134号線です。鎌倉市の海岸線に沿って、西端の腰越から七里ケ浜を通り、稲村ケ崎、由比ケ浜、滑川をへだてて隣合わせの材木海岸が最東端です。このルートでは、腰越と稲村ケ崎の二か所が、岬を眞二つに堀り下げた切通しの道になっています。また、材木座から逗子に向かう道はトンネルが掘られています。
 鎌倉の中心を南北に走る現代の若宮大路、この道は、北端で鶴岡八幡宮の一の鳥居に突き当り、左に迂回すると横須賀線北鎌倉・横浜へと向かいます。この途中に現代の小袋坂の切通し、その昔は巨福呂と書きましたが、今ではバスも通れます。
 つまり、現代の鎌倉は、この縦横二つの道路を軸にほぼ放射状に外部へ出る道が整備されていますが、その出入口のほとんどが、切通しかトンネルを通らなければなりません。
明治22年に横須賀線が開通するまで、鎌倉は陸の孤島でした。また、国道134号線は、昭和30年代に入って整備されました。このように、サムライ達が初めてつくった都、鎌倉はいわば、天然の要塞に守られ、それまでは広々とした白砂、青松の海岸線がありました。
しかし、鎌倉を歩く楽しみも実はそこにあります。それら現代の道のかたわらを旧道が、ある道は昔のまんまに、またある道はざっくりと切り取られた姿でそこここにとり遺されているからです。などと言う記述がありました。次回からは、具体的に、各切り通しについて投稿させていただきます。

(地図の中で四角く囲ったところが切通しです)
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鎌倉五山第五位浄妙寺について

2017-05-20 08:27:24 | 日記
マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 五山めぐりの最後の禅刹、浄妙寺には、JR鎌倉駅を出て鶴岡八幡宮へ繋がる団葛を八幡宮に向って行くと、団葛終点になり、目の前に八幡宮があり、これを右に折れて金沢街道を歩いておよそ30分の道のりです。
 臨済宗建長寺派の禅寺で、正しくは稲山浄妙寺。当寺発行の略記によれば、開山は退耕行勇、開基は足利義兼です。義兼は頼朝挙兵以来の武将で、鎌倉幕府の宿老として活躍し、北条時政の娘時子(政子の妹)を妻としています。
 この義兼が文治4年(1188年)に創建した時には密教系の寺院(極楽寺)でしたが、その後、臨済宗の禅刹となり、寺名を浄妙寺に改めました。
 金沢街道の浄明寺バス停手前の小道を左に折れると、小さな総門があります。総門を入ると、明るい境内の正面に、山の緑を背にして銅葺き方丈形式の仏殿が建ち、仏殿には本尊の釈迦如来が安置されています。仏殿左側の一角には喜泉庵という茶室があり、茶室の前に枯山水の庭園がつくられています。
 この茶室は、天正年間(1500年代)僧が集まり茶を喫したといわれる「喜泉庵」を平成3年に復興し、参拝者に開席されたものです。枯山水を眺めながら、水琴窟の音に耳を傾け、茶を楽しむことができます。さて、一服してから、仏殿裏手の墓地を訪ねましょう。
 ここには浄妙寺殿と呼ばれた中興開基、足利貞氏(尊氏の父)の墓と伝えられる宝篋印塔があり、「明徳3年(1392年)の銘が刻まれています。ちなみに背後にある稲荷山には、鹿島神宮への参拝する途中の藤原鐘足が立ち寄り、鎌を埋めたという伝承があります。一説では、ここから「鎌倉」という地名がうまれたといわれています。などと言う記述がありました。
一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のようなことがらの記述がありました。
 浄妙寺は、その谷戸の入口である岐道より東に入った大蔵山の南麓に所在する。寺の南方は滑川を隔てて衣張山、小富士等の丘陵に対し、東隣は足利尊氏の御所跡と伝えられる。浄妙寺は山号を稲荷山、寺号を浄妙広利禅寺といい、中世において鎌倉五山第五位に位した。現在、浄妙寺は臨済宗建長寺派に属する。 
創建は、足利義兼が文治4年(1188年)に創建し、初め極楽と称した。開山は退耕行勇律師、当初密教系の寺院であったが、蘭溪道隆の弟子月峰了然が住持となってから禅刹に改められ、寺号を浄妙寺に改称したと伝えられる。本尊は、阿弥陀如来位像(浄妙寺像)について、浅見龍介氏は、その造像年代を作風から1260年前後に設定できると考えられている。月峰が見た極楽寺仏殿の本尊がこの阿弥陀如来立像であったとすると、旧本尊は正嘉元年(1257年)の地震により破損したため、新しく阿弥陀如来立像を造立したことが推察される。
浄妙寺伽藍は「浄妙禅寺略記」に「諸堂」として浄妙寺の諸堂宇を載せる。「諸堂」の記事は「稲荷山」の額を挙げた総門をのせると、源将祖先の商廟(祠堂)をのせるので、南北朝期、少なくとも文和元年(1352年)頃の浄妙寺の様子を伝えると思われる。また、主要堂宇に三門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、方丈があるので、これは応永31年(1424年)正月の浄妙寺火災以前の堂宇を伝えると考えられる。などと言う記述がありましたので、併せて投稿いたします。

(山門)

(山門からの仏殿)


(仏殿)

(喜泉庵茶室)

(庭の枯山水)

(水琴窟)

(茶室)
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鎌倉五山第四位浄智寺について

2017-05-13 19:02:52 | 日記
 「マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 円覚寺を出て鎌倉街道を左(鎌倉駅方面)に向かうと右側に縁切り寺で有名な東慶寺が、さらに進むと明月院前のバス停があり、ここを右に折れると五山第四位、臨済宗円覚寺派、金宝山浄智寺があります。開基は北条時宗の弟の宗政と遺児の氏師時です。宗政が29歳の若さで亡くなると、まもなく夫人は一族の助けを借りて寺を起こし、夫の宗政と遺児師時の両者を開基として創建したと伝えられています。開山は中国の名僧、兀庵普寍と大休正念、日本僧の南州宏海の三人が名を連ねています。
 かつては三門、仏殿、法堂などの伽藍のほか、十ケ寺を超える塔頭が建ち並び、僧呂数100名を擁する大寺院でしたが、延文元年(1356年)の火災で初期の伽藍を失い、その後再建された建物も関東大震災で倒壊しました。現在は、鐘楼門と仏殿(雲華殿)方丈などが谷の緑の中に静かに建っています。その閑寂な佇まいに「侘び」の風情を感じる人も少なくはないでしょう。
 参道入口に古い石橋のかかる池があり、傍らに鎌倉十井の一つ「甘露の井」があります。ここら総門、鐘楼門へと磨り減った石段を上がってゆきます。総門には「寶所在近」(宝所は近きに在り)の額が掛かり、さらに上がると、中国風の珍しい鐘楼門があります。門をくぐると境内が広がり、右手に仏殿が建ち、ここには、室町時代の作といわれるご本尊の三如来(三世仏)が安置されています。
 また、仏殿裏手の洞窟には布袋尊が祀られていますが、そのユーモラスな表情は、訪れる者を安らかな気持ちにさせてくれます。などと言う記述がありました。
一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のようなことがらの記述がありました。
 鶴岡八幡宮の北西、山ノ内往還より南西に入った谷戸にあり、北面山麓に営まれた北向きの伽藍である。山号は金峰山、寺号は浄智寺といい、中世において鎌倉五山の第四位に位した。現在、浄智寺は臨済宗円覚寺派に属する。開山は、兀菴普寧、請待開山は大休正念、準開山は南洲宏海という。開基は北条宗政およびその子師時と伝える。
 浄智寺の創立年代について、「鎌倉市史」は、「新編相模国風土記稿」の説により、北条宗政が死んだ弘安4年(1281年)以後まもなくのことと考えられている。北条宗政は弘安4年(1281年)8月9日、29歳で没した。「念大休禅師語録」告香普説によると、弘安4年(1281年)11月、武蔵守殿(北条宗政)の百日忌に大体正念は御堂仏経を供養し普説した。檀那は宗政の室である。御堂は宗政茶毘の壇に就き営まれた。御堂の本尊釈迦如来一座と左右に迦葉・阿難尊者二体を造位し、七仏祖師を図絵、諸部尊経を模写し、浄道場を厳り、如法奉供した。この御堂は北条宗政の墳墓堂であったと推察される。
 弘安6年(1283年)8月北条宗政の三年忌供養が浄智寺にて行われた。後述のように、この時には浄智寺伽藍はほぼ整っていた。浄智寺造営が宗政没後の弘安4年(1281年)8月以後に行われたとすると、浄智寺伽藍は2年間でほぼ完成したことになる。浄智寺伽藍の基本構想は北条宗政の生前、大体正念との間に話し合われていたのではないだろうか。
 浄智寺は延文2年(1357年)10月9日に回禄し経蔵、仏殿、僧堂、庫院、法堂などを焼失した。「鎌倉五山記」浄智寺諸伽藍の記事は延文回禄後に再興された南北朝後期から室町時代前期の伽藍の様子を伝える。それにると、法堂は仏殿を兼ね、その雅称(額銘)も「一音堂」に変更された。また、僧堂の雅称は「雲堂」に変り、火災前に在った庫院、経蔵、鐘楼は再建されなかった。それに対して、山門は重閣門で、上閣と下層の額銘は前期と同じである。方丈は客殿の雅称を「朝宗」書院を「常安」、玄関を「向上関」と称した。山門と方丈は火災を免れたようである。方丈の位置は詳らかでないが、延文の火災を免れたとすると、仏殿と法堂の西方奥向きにあったと考えられる。などと言う記述がありましたので、併せて投稿いたします。

(参道の架かる石橋)

(石橋のたもとにある井戸)

(参道の遠くに山門)

(山門)

(雲華殿)

(浄智寺の案内版)


(浄智寺の案内版)

(境内の奥まったほこらに七福神)
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鎌倉五山第三位寿福寺について

2017-05-06 08:34:22 | 日記

「マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 地福寺は、臨済宗建長寺派の禅刹・寿福寺(正しくは、亀谷山寿福金剛禅寺)は、源氏山を背景にした扇ケ谷の山ふところにあります。
 建長寺から巨福路坂を通って鶴岡八幡の境内に沿って小町通りの入口へ。ここを右に折れて10分ほどです。
 人影の少ない小路を道なりに歩いていくと閑静な住宅街の一角に朱塗りの総門があらわれます。
 この地はもともと源頼朝の父、義朝の館があったところです。頼朝の死後、妻政子の祈願で、正治元年(1200年)息子の頼家を開基とし、宋から帰朝した栄西を開山として創建しました。この地を愛した頼朝の遺志であったとも伝えられています。今日遺されている建物のほとんどが徳川氏の保護を受けて再建されたものでが、それでも禅刹にふさわしい凛とした気品が漂っています。
 とくに御影石で組まれた参道の美しさは格別で、四季それぞれに味わいがあります。総門をくぐり、木漏れ日が影を落とす敷石を踏みしめながら歩くと、簡素な山門があり、山門から仏殿(非公開)が見え、仏殿前には、しっとりと落ち着いた風情の庭園がひろがっています。
 山門脇を路地伝いに緩やかな坂道を上がってゆくと墓所があり、山腹のやぐらに、北条政子・源実朝母子の墓と伝えられる五輪塔が建っています。
 なお、栄西は茶の種子を中国から持ち帰って栽培し、日本に広めたことで有名です。寿福寺には栄西の著した「喫茶養生記」(国重文)あります。
一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のようなことがらの記述がありました。
 寿福寺は鶴岡八幡宮の西方亀谷にあって、背後に源氏山を負い、武蔵大路に面して東西に伽藍を開く。開山は明庵栄西、開基は源頼朝の夫人政子、あるいは将軍実朝とも伝えられる。山号を亀谷山、寺号を金剛寿福寺といい、中世において鎌倉五山の第三位に位した。現在、寿福寺は臨済宗建長寺派に属している。
寿福寺の土地は、もと源頼朝の父源義朝の屋形があった所と伝えられる。源頼朝は治承4年(1180年)8月に伊豆で挙兵して以来、同年10月6日に初めて鎌倉に入り、翌日、義頼の亀谷旧跡を訪れてそこに第宅を構えようとした。しかし、地形が広くなく、また岡崎義実が義朝の菩提を弔うために一梵を建てていたので、その計画を停止したという。
 寿福寺の創立については「吾妻鏡」正治2年(1200年)2月12日に、尼御台所御願として伽藍を建立するために、土屋次郎義清の亀谷の地を点出せられる。是は下野国司(源義朝)御旧跡なり。その恩に酬いるため岡崎義実は草堂を建てるものなり、今日、民部丞行光と大夫属人道義信は件の地を巡検した云々。と記す。そして、翌13日、その地を葉上房律師栄西に寄付し、清浄結界の地となすべく仰下された。午剋、結衆等はその地を行道した。施主北条政子が臨み、堂舎(寿福寺)営作の事始を行った。土屋義清は岡崎義実の第二子であり、当日、施主のために仮屋を構え、珍膳を儲けたという。
 このようなことから、寿福寺の開山は、明庵栄西、開基は源頼朝の夫人北条政子と考えられる。また、「吾妻鏡」建保元年(1213年)5月3日条に、和田義盛に加担して戦死した大学助土屋義清(岡崎義実第二子)を寿福寺本願主とする。寿福寺創立以前の亀谷の地は土屋義清の所有であり、義清は寿福寺に葬られた。建仁寺に比べると、草創期の寿福寺は五カ月ほどで完成した御堂を中心に方丈、僧房、戒堂、寮舎などよりなる戒律生活を主体とした小寺院であったと推察される。という記述などがあったので、併せて投稿いたします。

(総門)

(寿福寺について)

(御影石で組まれた参道)

(山門)

(仏殿)

(鐘楼)

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