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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

山羊坂について

2016-11-26 10:25:58 | 日記
 平楽中学の角から八幡町の方へ下る坂があったので、「元町140年史 編纂者 元町の歴史編纂委員会 発行 杉島和三郎」によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 これを山羊坂だと知っている人はいたが、「ヤギザカ」をどう書くのか知っていなかった。中央に鉄の手すりでもなければ、そこのところはめくるめく急峻で、おばさんがそれにつかまってやっと上ってくるのに出逢った。そそんなところのどこに山羊など飼っていたのだろうと疑わしく思いながら下って行くと、石段の盡きたあたりから左手の崖の下に家が建て混んできて、中村愛児園のある辺まで来ると、コンクリートの坂となって、多少傾斜が緩和されてくる。
 この付近の道の下に柵を設けて、山羊の居る風景写真が、もう5年も前の朝日新聞に出ていた。その前というのも大正の震災前のことになるか、豚を飼っている所があって、それで「ブタ坂」とよばれた時期があったらしい。それを進駐軍がやって来て「ヤギ坂」の標識を建てて、その名がきまったと新聞には書いてある。
 これはまた面白い話で、山羊坂とはそこを通る人々の俗称になって居たのだろうが、進駐軍はそれをとりいれて「ヤギ坂」として定着させた。この伝でいくと「モンキ坂」なども案外、附近に住んでいた外人達が「モンキ、モンキ」と猿山のことを呼んでいたのが、広がったのではないか。しかし、市電の停留所に「モンキ坂」とはやはりかけなかったに違いない。などと云う記述がありました。

(山手本通りの山羊坂付近にある中村愛児園)

(山手本道りから入った所の標識)

(反対側から)

(中間附近)

(出口付近の道)
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猿坂について

2016-11-19 08:32:41 | 日記

 牛坂を上り切り山手本通りを港の見える丘公園の反対の山手の方へ直ぐ折り返す道があったこれが猿坂である。そこで、「元町140年史 編纂者 元町の歴史編纂委員会 発行 杉島和三郎」によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 古い地図を見ると打越橋の手前に「猿坂」または「猿山」とした停留所がある。日本地理附図研究所の昭和13年改訂21版と云うのには、その表が「猿山」となっていて、裏面の中区詳細図には「猿坂」とあって、そこのところに屈折した山手本通りに通ずる道が書き入れてある。打越橋の右手が牛島山だから、猿山は左手と云うことになろう。とすればそこにあるのが猿坂に違いない、どっちにしてもその道が当のものだと決めて上って行くと、突き当りだと思った家の角を曲がると石段の坂があり、家の前の庭といった様子の路地をぬけると、また突き当てたって石段があるといった具合で、なるほど地図にある以上に曲がりくねった狭い坂である。これが確かに猿坂かどうか、書いたものの感じでいくしかない。ちょうど吉川英治の「忘れ残りの記」にそれがあるので、わたしの判断の資料となるものはそれだけだ。
 「四歳の末頃には、もう家もモンキの坂と呼ぶ横浜石川町辺に移り、父は港町の魚市場の書記に通っていた。」港町の魚市場と云うのは、今の横浜市役所のところでそこに「魚市場跡」の碑が建っている。吉川英治の父はそこの事務員として働いていたのである。
 「僕は確かに負ンぶされていた。そばに石段がある。その石垣の上に、緑色の窓があってその塗料の色だけがほかのどの映三りもクッキリ濃い。
 よそへ向うから女の人が歩いてきた。綺麗な女のひとだった。負ンぶされている僕の頬へ頬ずりした。そして『子供の乳の匂って、いいもんだわねえ』と誰かに云った。―∸僕の最初の記憶と云うのはこれだけのものだ。奇妙に思えてならないのは、まだ自分が乳のみだったと云う疑いである。錯覚であろうかと、母の存命中、母にただしてみたこともある。すると母こう云った。
 『それは、うちがモンキの坂に住んでいた頃なんだろうね。石垣の上に玄関があって、以前、異人の牧師さんが住んでいたから、普通の日本家屋なんだけれど、窓なんか洋風に青ペンキが塗ってあったりしたからね』
 こう聞くと錯覚でもないらしい。かぞえ年四ッ頃まで、乳もしゃぶっていたし、小粒でひょわ子だった僕は、まだ負ンぶされていたらしい。
 これは明治28年のこと、これで見ると、やはりこれが猿坂であるようにおもわれてくる。石段の道、石垣のある住居、今でも外人の家を附近に見かける。それは明治期の横浜らしく、「モンキ坂」としゃれて呼んだ。その坂の名の由来を、「猿を飼っている菓子屋かあった」ことにおくかどうか。ここを猿山と云ったのであるとすれば、やはり猿坂とはそれに拠ったものとせねばなるまい。

(山手本道とおり 正面左が猿坂取り付け口)

(猿坂入口)

(何処までも階段の坂道である下口)

(何処までも階段の坂道である)

(やっと平道間もなく出口)

(最後の階段)
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牛坂について

2016-11-12 18:02:51 | 日記
 地蔵坂の右側を歩いて行くと横浜学院の案内版に併せて西坂と表記てれており、此の西坂進むと左手に横浜共立学園の敷地見えてくる更に行くと丁字路にさしかかり、これが牛坂である。右手には急な坂があります。左には上り坂となっている。そこで、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 この坂を谿手坂と書き入れた地図があるが、打越橋の下一帯が谿の形をなしていたところの名であろうか。谿手とは、右手、左手の「手」にあたる。谿に添った坂という意味であったのだろう。
滑らかないように爪先に力をいれて、踏みしめておりねばならないほど傾斜がひどい。左手には、垣根に紫陽花やバラを植え込んだ家が続き、右手はコンクリートの崖である。この坂をどうして牛坂と称するのであるか。
 一説には、牛のようにゆっくりでなければ上下できないからだというが、これはいま一つピンとこないものがある。牛小屋があったとか、牛がよく通ったとか言った理由の方が通じるものがある。と思うのだが、東京の古い坂にも、牛坂と云われるものが幾つかあって、これは大体牛天神が付近にあることでそんな名が付けられると云う。天神様と牛との関係がどうなっているのかしらないが、有名な岡村天神などにも牛の像があるので、両者には何かつながりがあるのに違いない。これを天神坂と云わず、もっぱら牛坂としたというのである。そこで付近にそんな形跡でもないかとうろついてみた。
 坂を下って右手の狭い崖下の通りへ入って行くと、牛坂公園というのがあり、それを過ぎたところに諏訪神社がある。諏訪明神と天神様が同じところにあるようなことを聞いたこともないが、ためしに入ってみた。しかし、社務所で聞くのも変なのでやめにした。
あるはずはない、諏訪明神とは戦の神様ではないか。などという記述がありました。

(西坂との丁字路右手の下り坂です)

(西坂との丁字路左手の上り坂です)

(牛坂の中間付近です)

(牛坂の下りた出口付近であります)
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西坂について

2016-11-05 09:08:59 | 日記

 西坂は、地蔵坂の中間あたりにある蓮光寺の脇から、入いる石段の坂が西坂である。
「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 この坂を登につれて左側に墓地の石塔の数が増してくる。と同時に蓮光寺の屋根が眼下に大きく広がってくる。また、右の方には教会の二基の十字架が額のあたりに聳え建つのが感じる。振り返ると、崖の端の高い建物群の合間、港の海がわずかに光っているのにきずく。
 こうした風景の中に、この坂の石を敷き詰めたその模様が、とても浮き立って美しかった記憶の底に入っているが、今現在は、コンクリート舗装に変わってしまっている。けれども上の方から眺めるこの坂の蔦の絡んだ墓地の石塀にそった曲がり具合は、なかなかいい感じだと思う。坂はやがて尽きて横浜学院の門の前へ出る。暫く行くと横浜共立学園があり、これはまた由緒の古い学校である。
 明治4年、米国婦人総合外国伝道協会から派遣された、ミセス・ピアソン、ミス・クロスビー、ミス・ブラインの三名により設立されたのがそもそもの始まりで、それがこの212番(居留地番)へ移って来たのは明治5年10月、そのころは日本婦女英学校といっていた。
 ここは新約聖書和訳記念の場所ということで、今その碑が学園の中に設けられている。その経緯は、明治7年9月10日、その折の議題は、公会主義の確認、讃美歌編集、そうして新約聖書の共同翻訳の三つであった。公会主義というのは、新教の数ある宗派が、初めての異国にばらばらで宣教にあたったのでは、お互いにさしさわりが出てくることは明らかだから、それを避けるために合同して行動をしょうと云う申し合わせであって、それが横浜バンドとよばれる運動に発展する。
 そのためには聖書も同じものに翻訳し、讃美歌もばらばらな歌い方をしないと云う結論がおのずから出てくる。そのようなことから、新約聖書日本語訳のために翻訳委員社中と云うのがつくられる。
 初めは7名であったが、結極は、オランダ改革教会派のブラン、長老教会派のヘボン、アメリカカン・ボードの派遣宣教師D・C・グリーンの三名が、最後まで残ったという結果となった。そして各々に日本人の協力者が、高橋五郎、奥野昌綱、松山高吉であった。などという記述がありました。
 最後に学校敷地内に横浜居留地時代の214番館が学校敷地内に残っていたことを申し添えます。

(地蔵坂を上る方向の右側から、西坂の入り口)

(入口付近は階段とスロープ二式)

(階段坂道)

(蓮光寺の屋根)

(墓敷地内の墓標)

(学校の門)

(学校敷地内にある  )

(居留地 山手214番館 横浜市師てぃ有形文化財)
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