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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

本牧臨海公園にて

2013-05-30 13:23:22 | 日記

(八聖殿)
今日の関東地方の天気は、時々雨と云う予報となっていたので、折畳み傘をもって本牧市民公園へ行く予定で出かけました。
 当公園は、三渓園に隣接する公園であります。市民公園に入ると八聖殿郷土資料館はこちらですと示導標を見たので、何気なくその道を登りつめると建物が八角の「八聖殿」が眼下に見えてきました。
 この資料館は、パンフレットによると昭和48年に市民郷土資料館として市民に開館したと書かれており、また、八角形の建物は、法隆寺夢殿を模して、1933年に、安達源蔵氏が建設したものと記されておりました。
二階に上がって行くと聖徳太子像、弘法大師像、親鸞像、日蓮像、釈迦像、孔子像、ソクラテス像、キリスト像の世界の8聖人の等身大ほどの彫刻が飾られ、れらは、長崎の平和の像の制作者「北村西望氏」大隈重信の像の製作者「朝倉文夫氏」画家でも著名な「清水多嘉氏」など日本の美術界に大きな足跡を残された巨匠の方々ばかりの作品でありました。
この地域は、かつては海辺の絶景地として市民に愛されてしましたが、1959年から埋め立てにより、景色は一変して、周辺の漁業を営む漁家はもとより、農地であったところが、宅地化が進み農業も行えなくなったことから、この資料館の二階には、8聖人の彫刻のほか、昭和の時代に農業家で使っていたスキや鍬など農具の数々や生活様式を覗かせる品々が展示され、一階には、当時、海苔養殖が盛んに行われていたことから、当時は、海苔養殖には網を使用することはなく、枝の沢山ある乾いた木を漁場に挿し込んで、その枝に生えた海苔を採取する方法であった様で、それらに必要な道具の数々や海苔を細かく破砕する道具など、また、当時は、全て天日乾燥ため天候に左右され大変な労力を要した模様でありました。
一方、砂浜のため、大勢の家族が海辺での潮干狩りを楽しんでいる写真と現況工業地帯となった風景を対象的に並べた写真も展示されていました。
また、階段の壁には、無病息災や大漁・豊作を祈願する神奈川県の各区の無形民族文化財に指定されている祭り行事の写真も展示されていました。
 この資料館を出て、山を下りて西に向うとそこは、広い芝生の外、子供立ちが喜びそうな遊具などが整備されてありました。この臨海公園の由来と云うか場所の提供者である小野光景氏の碑もありました。
 氏は、明治時代に、長野県生まれ生涯の前半を政務に後半を実業化として生糸貿易を営なみ、これらの産業の発展に寄与され、当地には洋館の別荘を構え、広大な敷地の一部を市民に開放して、通称「小野公園」と云われていた模様であります。
 具体的功績は、横浜学校創設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、横浜商工会議所創設、横浜新港埠頭の建設など数々の功績が刻まれていました。
 これを読んで、昔の商人や地位のある方々の人生観と地域に色々形で施しの精神で活躍されていたことに感心させられ、ふと我に返り、空を見ると雨雲こそありましたが、お蔭様で、雨に打たれることなく無事帰宅することができました。

(八聖殿への道標)

(八聖像)

(農具の一部)

(農家生活)

(旧海岸の写真)

(各区の祭り一覧)

(臨海公園広場)

(小野光景氏)

(小野光景氏の功績碑)

清水ケ丘公園に行ったとき

2013-05-23 09:13:39 | 日記


(清水ケ丘公園正門)

 今日は、清水ケ丘公園へ云ってきました。パンフレットによるとこの公園用地は、横浜国立大学の跡地を利用して、健康をテーマに、昭和天皇在位60年記念公園の一つとして起伏に富んだ地形をジョギングもよし、散歩もよしと整備されとありました。
 運動施設としては、屋内温水プール、芝生に覆われた自由広場、テニスコート、野球場まで、正に健康公園でありました。
 敷地の一番奥まった丘の天辺に、エノキ(周囲1メートル程)の大木1本、これが見えぬかと云わんばかりに、仁王立ちに構えてえていました。その木の根本には、樹木医の手によって、幹の空洞を埋め込む措置を施して、目下養生中と立て札に書いてありました。このため、木の廻りにロープを張り、根が踏れないように柵を施していました。
 その場から、一風変わった屋根の建物が見えたので、行って見ると体育館でした。吸い込まれるように、中に入って行ったところ、愛想よく受付の女性が、「エノキはご覧になりましたか」と云われたので、「はい見て写真も撮ってきました」と告げると、受付の女性いわく、「実は、あの「エノキ」の子供達(苗)が中庭にありますが、見て行きますか?」と尋ねられたので、「折角ですから見て行きます」と答えると。少し年長の体格の良い男性職員が案内してくれました。
中庭へ行って見ると200本ほどの苗が、一本一本、ポットに植え付けられ、行儀よく並んでいました。説明よると、昨年の春に果肉を丁寧に取り除き、播いたものと秋に播いたものと2種類があると云われたので、秋とは何故ですかと尋ねると、何と冷蔵庫に数週間冷やすと、エノキの種子が冷やされることにより、冬が過ぎたと勘違いさせて、その後、気温14度程に保つと発芽するそうであります。
 エノキは、「縁起が良い木ですよ」「緑化運動の一環として、この苗1本100円ですが、如何でしょう。無理とは云いませんが」・・・と云われ二つ返事で買ってしまいました。すると丁寧に、エノキの育て方を説明したチラシと鉢まで付けて売ってくれました。
 事務所に戻ると「無理は申しませんが、アンケートにお答えを願えれば幸いです」と云いながら、アンケートの束を持って来て、「今年もこんなに(北海道から岡山、鹿児島など読み上げ)沢山の方々が、わざわざ買いに来てくれた」と話していました。
 また、その男性の話によると実は、清水ケ丘公園のホームページに横浜出身の音楽グループ「ゆず」のプロモーションビデオの「エノキ」木について掲載しているためか?、テレビや映画などのロケ地として有名になり、一昨日も撮影に来ていたと話されていました。
 それにしても、今の時代、朝のNHKの連続ドラマ「あまちゃん」ではないですが、情報社会でのインターネットの発信力は、何にも替えがたい手段であることを再認識させられ帰ってきました。

(仁王立ちのエノキ)

(公園中央部全景)

(体育館)

(芝生の公園中央部)

(野球場への道)

三つ池公園に行ったとき

2013-05-17 10:56:46 | 日記

(正面入り口左側面から)

今日は、三ツ池公園へ行ってきました。この公園のパンフレットによると江戸時代に灌漑用水池として築かれたとあり、三つ池と云う由来は、上の池、中の池、下の池と三つに分かれていることから三つ池公園となったとありました。
 また、この公園は「財団法人日本桜の会」によって、さくら名所百選に選ばれ「78名種1600本もの桜が咲く」自慢の公園とのことです。
 公園には、パークセンターと称するガラス張りで明るい管理事務所があり、そこには、休息や講習スペースの外に、パソコン2台が設置され、「さくら検索システム」が用意されておりましたので、その検索システムを使って検索すると、
さくらは、バラ科である。また、種類として、①山桜(ヤマザクラ)②大山桜(オオヤマザクラ)③霞桜(カスミザクラ)④大島桜(オオシマサクラ)⑤豆桜(まめざくら)⑥江戸彼岸(エドヒガン)⑦丁字桜(チョウジザクラ)⑧深山桜(ミヤマサクラ)⑨峰桜(ミネサクラ)など300種類があり、8つの系統に分かれるそうです。
一番驚いたのは、稀に、一つの花のめしべに繋がる子房が2本あるもの「いわゆる双子」ですかね、八重の桜に多く発症する模様です。それから、サクラは、日本固有のものと思っていたのですが、イギリスで「寒緋桜」と「豆桜」を交配して「オカメ」と云う桜を品種として改良し、この公園に植えられているようです。
 雑学として、気象庁で定めている桜の開花は、指定木の花が数輪咲くと開花と称し、満開とは、八分咲きを云うそうであります。
 また、開花に適した温度は、関東以西12~13度、北日本10度で、開花から満開になるまでの日数は、寒地ほど短い日数で満開になるそうです。
 この公園に咲くさくらは、2月上中旬から、「寒桜」に始まり、3月には、「オカメ」「染井吉野」など4月には一斉に数多くの開花が見られるようです。秋に咲く、十月桜の順位は最後となるのでしょうかね。
 最後に、さくらの花は梅に比べ散りやすいのは、さくらは、花弁の作りが弱いからと云うことでした。
このように、桜に関するいろいろな事柄を検索できるようになっており、時間が過ぎるのも忘れ、霧中で検索していました。
 この他、この公園には、神奈川県と韓国の京幾道(キョンキド)との友好提携を記念して、コリア庭園がありました。また、同じく県と中国の遼寧省から贈られた「漢墓」から出土した「馬超竜雀」のブロンズ象複製の「天馬」が置かれております。
 この外には、運動施設として、テニス、野球、水泳プ―ルや多目的広場に加え、子供達のために、アスデチックや滑り台まで用意されておりました。丁度、近くの園児が運動会の帰りに沢山のオヤゴさんが立ち寄って、車座になってお弁当など食べて楽しんでおりました。それと猫ちゃんも一匹発見しました。
 この公園は、池を中心とした広葉樹の森や池の縁に、さくらを適宜配置し「さくら名所100選」に選ばれた名所、来年は、是非、来たいと思いながら三つ池周辺2キロを散策して帰宅いたしました。

(コリア庭園)

(コリア庭園内の素焼きの壷群)

(下の池)

(中の池北西から)

(中の池西面から)

(中の池付近の遊びの森)

(上の行け南面から)

(馬超竜雀「天馬」)

(三つ池の猫ちゃんポーズ一)

(すっかり懐いたホ-ズ二)

碁会所に行った日

2013-05-08 14:06:27 | 日記
私の趣味と云えば、囲碁と風景写真を撮って楽しむくらいで、後は、何の取得もありません。普段は、地域のコミュニティーを中心にした囲碁クラブに入って、仲間と打って、勝った、負けたの日々を送っています。
今日は、久しぶりに某碁会所から、弁当付で5月5日午前10時30分試合開始の案内があったので行くことにし、9時前に家を出て碁会所に着いたのは、10時少し前でありましたが、既に、10人程の人々が入り口に集まっておりました。
程なく、係りの方が来て、入り口のドアーを開けくれましたので中に入ると、テレビが付いていた。私は、椅子に座り、その放送{メジャーリーグで上原がいるチームとの対戦放送}に見入って待っていました。
すると参加者の中に、大正7年生まれと云う客の方が、若い頃の話に華がさいていました。話は、自分は海軍に入り南方各地を転戦していたと云う。
友人は、何でも戦艦大和に乗船していたと話していました。大和には2500人ほどの軍人・クルーが乗船し、戦果を上げていたのですが、終戦間際に撃沈されて、生存して帰還したのは、260人ほどであったと云っていました。その友人もすでに亡くなり、また、地域の老人クラブでも段々と同世代の人が少なくなり、淋しくなったと云う話です。
私にすれば、97歳にあっても元気で、碁会所に歩いて来て大会に参加できる体力、気力とその意欲に本当に圧倒され、ビックリでありました。また、ツレ合いの奥様もご健在のようで、何時も囲碁には、理解をしてくると自慢をしておりました。
私は、その方に比較すると、未だ20数年、元気で生活することが出来るか否かであり、自分も何とか、あやかりたい、あやかりたいであります。
試合は、時間通り{下位者黒先手、上位者白後手で}スイス方式、各人4回戦を戦うルールで開始され、小生は、午後2時半過ぎに、2勝2敗のイーブン、優勝することはできませんでした。
考えてみると、「悲観することも」「極度の感激もなく」終了することが出来たのは、これも長生きの秘訣と自分で自分を慰め、帰宅となった一日でありました。

横浜能楽堂見学・野毛山散策

2013-05-03 11:45:11 | 日記

(平成8年横浜能楽堂開館に本舞台に甦る)

 今日は、横浜能楽堂と野毛山公園行くことにしました。何れも15年程前に行ったことはありましたが、今回は、久良岐公園へ行った時に立ち寄った久良岐能舞台が、標準よりも小さいと学芸員の方からの説明であったので、是非それらを確認したく、「横浜能楽堂」を訪れることにしたまた。
 「横浜能楽堂」の場所を確認したく念のため、JR桜木町駅で駅周辺マップをもらい位置を確認し、紅葉坂を上がって行くと、程なく「能楽堂はこちら」と標識があり、右に折れ向って行くと能楽堂が見えてきました。すると駐車場のガードマンが、入り口はあちらですと会釈されたので、右奥の方向へと行くと「能楽堂」の出入口がありました。
 窓口近くに、本日は、館内を見学できますと書かれていたので、入っていくと受付の女性がいらっしゃって、「横浜能楽堂本舞台の歴史と特徴」というチラシを受け渡され、お2階へどうぞと云われ進んで行くと展示室がありましたので、そこへ入っ観ると衣装や、鼓、扇子などの小物が一杯に展示されていました。
 肝心の舞台を一望できるところが見当たらなく、展示場以外は何処も照明がなく、開いていたのは、喫茶だけであったので、止むを得ず喫茶に入りマスターに聞いてみると、この反対側と云われ、併せて、案内に「客が迷っていると連絡をしてくれた」
 私は、そのマスターの云われる方向のドアーを開けると照明が明々と付いており、舞台を眺めることができると同時に、案内受付の女性が入ってきて、写真は、こちらはいいのですが、展示室は、ご遠慮くださいと云われましたが、私は、既に、展示品を写真に収めてしまったのでありますが、一応分りましたと返事をしてしまいました。
話は、舞台に戻りますが、その位地から、舞台、観客席が一望でき観客席も200人程は座れとても広くビック致しました。折角でありましたので、その案内の女性に舞台の大きさを尋ねたところ、あとからお知らせしますと返事が返ってきました。
 見学を終えて、出入口の案内の女性から、この舞台の大きさをセンチ単位で、知らせてもらいましたが、久良岐能舞台の学芸員の方が云われた、標準寸法は、ホボ6メートル四方と違い約7×5メートル (詳細にセンチ単位で示されました) と教えて下さいました。
 そこで、前述のチラシをみたところ、この舞台も前身があって、明治8年に上野根岸に(現在の「東京国立博物館」)加賀藩主・前田斉泰の隠居所の一角に建てられた経緯のあるもので、その後、大正、昭和と時代移り変わり、移築を重ね昭和40年解体された部材を横浜市在住の観世流能楽師「田邊竹生」さんから、横浜市に寄贈されたものであると記述がありました。
 改めて、本来の寸法をインターネットで調べたところ、能舞台の主な特徴は、京間3間四方で板張りと書かれていました。このような標準寸法の舞台は、なかなかお眼に掛かれないものと改めて認識いたしました。
 その見学後、野毛山公園を散策すると横浜港の開港を唱えた「佐久間象山」碑、日本初の近代水道である横浜水道を完成させたイギリス陸軍の工兵「ヘンリー・スペンサー・パーマー」の碑、昭和の著名な女流俳人で日常を題材にしながらも叙情性に富む句を野毛山で詠まれた「中村汀女」俳人の碑など偉人の碑を読んで、世に尽くされた方々の偉大さに心を打たれて帰宅したいました。