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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

権太坂について

2016-12-31 10:45:37 | 日記
 今回は、毎年正月行われる大学駅伝(東京から箱根間)国道1号線の権太坂について投稿いたします。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光による権太坂の由来は、「新篇武蔵風土記稿」「品濃坂」「誉田坂」の3つの由来がある模様ですが、具体的には次のような記述がありましたので投稿いたします。
 「新篇武蔵風土記稿」によるまでもなく、言いふるされているが、まずそれを写しておく。
 「権太坂、街道ノ内ニテ元町ノ南ノ方ナリ。其地形一𠀋アマリモ高ク、屈曲シテ長キ坂ナリ。故ニ街道往返ノ人夫、此所ヲ難所トス。昔ハ一番坂ト呼シガ、何ノ頃カ旅人爰過ルトテ、側ニアリシ老農ニ坂ノ名ヲ問シニ、カノ翁耳シヒタル者ナリシカバ、己ガ名ヲ問ハレシト思ヒ、権太ト答ヘケルヨリ、坂ノ名トナリシト、土人云伝ヘリ」
 これは由来をおもしろくするための誰かの創作であろうが、さきにそのころのここがどんなところであったかを、「江戸名所図会」についてみる。
 「品濃坂(あるいは信濃、又科野に作る)俗に権太坂と呼べり。この地は武相の国境たり。坂路の両傍には蒼松の老樹左右に森列たり。坂の上にて右を望めば芙蓉の白峰玉をけづるが如く、左を顧れば鎌倉の遠山翠黛濃かにして、実にこの地の風光また一奇観と称すべし。」として、長谷川雪旦の絵が入っている。
 また、「界木、立場にして道より右に、武蔵相模の国境の傍示を建つるが故に、この称あり。この地牡丹餅を名産とす。これを製する店、両三軒あり。」とし、やはり絵がある。
 そこでもとにかえって、「権太坂」そしてまた「江戸名所図会」には「品濃坂」とのかかわりあいがでている。『誉田坂』という珍しい名称は、どういう意味をもっているのであろうか。『誉田』は地名辞典では、大阪の古市町の誉田は「こんだ」とよませる。それから静岡市と千葉県、茨城県、兵庫県などには、それぞれ誉田という町村があって、それらはみな『ほんだ』と言っている。そして誉田はみな、八幡社と関係のある地名である。
 それでは、この坂の付近に八幡社がなければならないことになる。つまり八幡社には誉田別尊が祀ってあり、それがそこにあったというのである。そして話がすすんでいく。「この誉田坂を下るとそこに鮫河橋があり、それを渡って西へ行くと、権太坂を上ることになる。誉田坂と権太坂のふもとは、鮫河橋ということになる。誉田坂を下って権太坂の頂上までは、三町(400メートル)もない。こんな短い距離の間で、上り坂下り坂の二つの名が『ごんだ坂』だの『こんだ坂』などと坂名がこんがらかってしまって、どっちが権太坂だか誉田坂だかわからなくなってしまう。こんな近い二つの坂だとすると、この名は一つであったのかもしれない。権太坂は、実際は誉田坂が転訛したものかもしれない。などと言う記述がありました。

(東京側の坂上り口)

(東京側中間付近)

(権太坂上附近)

(小田原側権太坂中間付近)

(小田原側権太坂上り口付近)

箕輪坂について 

2016-12-24 08:27:13 | 日記
 代官坂を上り、山手本通りに出ると直ぐ箕輪坂があったので、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 「箕輪」というのは、「新篇武蔵風土記稿」の「中村」「横浜」いずれの小名としてもでていない。とすると、それが坂名として人々の口にのぼる場合、それはまったく地形によるものでもある。もしその当時「箕輪坂」という呼称がなく、万一「代官坂」とでも呼ばれていたとすれば、わたしの想像はまんざらでもないということになる。しかし、後に町名にもなったということから、「箕輪」というのは俗称ではあってもやはり古い名であったと思われる。すると併称の線もでてこないでもない。
 まことにややこしい経緯の上に、さらにこの坂にはもう一つ名前があった。標示板にある「ヘフト坂」がそれである。だが土地の人達はこれを「ヘキ坂」といった。「横浜市史稿」に「当時、坂の上に『ヘキ』と言う外人が始めて据邸を建築したので、」そう呼んだと書いてあるが、これは「ノールトフーク・ヘフト」と言うオランダ人のことで、「Hegt」というのをそのまま読んで「ヘキ」といった。いずれにしてもインテリ流の発音が苦手の横浜英語流のひとつであったのだ。そのノールトフーク・ヘフトというのはどんな人物であった、それがなぜ坂の名前になったのか。ただ住んでいたというだけでそれを取り入れるということはあるまい。
 まずヘフトがわたしたちに親しいのは、それが山手に移る前のことだが、居留地本通り68番にゲーテー座をつくったということである。万延元年ごろの来日というが、その以前は商船の船長であったのが、文久2年居留地30番に店を開いていた。慶応元年に居留地に自治組織が発足すると、彼はその参事会のオランダ代表ということになった。それが次第に実力をもってきて、日本最初の日刊新聞「ジャパン・ガゼット」はブラックの始めたものであるが、彼はその創刊にも参画したりして、ことに地所を相当に借り込んでいる。調べただけでも「蘭ヘクト借用地」としてあるのが、10箇所余りもみつかる。彼の住居のあった68番というのは、坂の上の山手通右手の向かい側で、バプテスト派宣教師N・ブラウンはその隣である。
 そして彼は坂の周辺の数画を自分の手におさめていた。それを提供して、それまでの草ふかい細道を拡張し、車の通行が可能なものにしたというのである。俗名「ヘキ坂」はこうした由来をもっていた。車が通れなくては自分の往復にも不便であったのだろうが、ヘフト醸造所で製造されたビールの運搬にも差し支えたのではなかったか。などの記述がありました。

(元街学校 代官坂と箕輪坂との合流点)

(この前方が箕輪坂)

(箕輪坂の中間付近)

(箕輪坂の出口)

公園坂について

2016-12-17 13:46:05 | 日記
代官坂の出口から山手本通を横切って箕輪坂に入り暫く行くと右に入る道があったので、行ってみると公園坂とありましたので、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 公園坂は、明治4年山手公園ができて以来の坂名であって、やがて明治17年にはそれが居留地の町名ともなった。1866年12月29日(慶応2年11月23日)英国公使パークスと早川能登守、水野若狭守との間に結ばれた「横浜居留地改造及競馬場墓地等契約」第10箇条によるので、まずそれを写すことからはじめる。
 居留地の東方に在る山手地所は、1ケ年百坪に付、12ドルラルの地租を払い、日本政府より外国人に、此の約定の日より3ケ月後貸渡すべし、日本政府は、右地面を公けの入札にて貸し渡し、如此して得る処の金を右場所の模様替に用すべし。
此約書に添うる絵図面(は)号に掲ぐる山手の地所、百坪に付6ドルラルの簾なる地税にて、公けの遊園として、外国人民の為に存し置くべし、右は此の約定の日より3月の内に、外国コンシュル等の手を経て、右の割合にて、右の割合にて願出べし。
 今其地に在る樹木を其間其儘にし置き且右地所を右に云う事に用いる時に至り、地所と倶に其樹木を其余の賃なしに譲るべきを、日本政府にて契約せり。
 ところがこの約書にきめた期間内において、領事より何の申出もなかったので、公園についての條項は消滅となった。それが明治2年の12月にいたり、米人ベンソン他3名が居留民の代表となって、約書の実施を要求してきたが、その地所はすでに貸付済であったので、妙香寺境内の地6,718坪を貸すことにしたが、築造費がかさむことから、日本政府の手でこれを経営することを求めた。しかし政府はこれをことわった。ところがその後になっても、外国側は地租を払わないでこれをわがもの顔に使用していた。そこで明治11年7月1日、居留外人の結成する横浜居留婦女弄鞠社という団体にこれを貸すことにきまった。地税150ドルこれがいまも存在してテニス・コートのままでいる。しかし、横浜インタナショナル・テニスクラブの手にある。これを「横浜百景」の筆者は嘆くのである。
 「此の公園には、市として欲しいものが直ぐ隣接してあるのは嬉な情けないような気がする。幾つかのテニス・コートが整然としてラケットの響きを待っているのがそれだ。市が此の公園を管理することになってから何年経ったか知らないが、お隣のテニス・コートを譲って貰はなかったのは手落だった。『犬入る可らず』と書いてある英文の立札が、何か知らくすぐったい風刺に思へぬでもない。」というのは、率直な市民感情である。などという記述がありました。


(箕輪坂からの入り口)

(入り口から階段を上がったところに 坂名の標柱)

(山手公園)

(公園内のベンチ)

(公園で遊ぶ親子)

(テニスの発祥の碑)

(テニスで遊ぶ市民)

遊行坂について

2016-12-10 09:00:20 | 日記
 本町本通りを北に向って歩いて行くと公園があり、そこから下って行く坂道があったので、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 明治30年の頃のある日、番傘をさした一人の少年が、片方の手に鼻緒の切れた足駄をぶら下げ、ベソをかきながら雨に濡れた坂道を上がっていた。「遊行坂は、今でも、かなりな急坂である。ぼくの8、9歳頃は、もっと道が悪かった。雨の日の通学などには、やたらに辷ったり転んだりしたものである。」と後年いまは亡き吉川英治は回想する。(「忘れ残りの記」)
 明治31年、7歳のころの少年の家は、横浜植木会社の裏手の所にあって、彼はその裏門から、園内の幾箇所もの上り下りの屈折を越えて表門を出ると、桜並木と呼ばれていた山手通りへかかり、遊行坂を下りて車橋をわたる。学校は橋をわたって左手へ折れたところの「横浜市私立山内尋常高等小学校」であって、その当時、市立小学校が少なく不足していたので代用小学校に指定されていたのである。
 道は,のっけから登りにかかって、実にだらだらとながい急坂で、左側はところどころ上の住宅へ上がる石段の入口を設けた崖に沿い、右手には桜の老木が枝を張ってかぶさり、車の上下の割りには夕方ともなれば人影のすくない、小暗いところである。その途中に「時宗浄光寺」と門標のある寺があり、そこのところがちょっと階段の踊り場といった感じにくびれていて、寺の庭を見下ろせる場所になっている。
 坂は、そこのあたりから右手にある石川小学校にかかるところから更に角度が険しくなり、文字通りの胸突き坂である。吉川英治一家が越してきたのは、およそ明治32年のころである。
 「日本人の家は桜並木の角にある雑貨店とおなじ通りの西にある神崎騎手の邸宅ぐらいで、この近所は殆ど外人の家だった。ぼくらはこれを古風な意味でも何でもなく、日常語として、”異人館”とよんでいた。」などの記述がありました。

(山手通りからの遊行坂の入り口の公園)

(遊行坂の標石)

(坂の標石)

(坂の中間付近)

(左は桜)

(坂下の出口付近)




狸坂について

2016-12-06 08:59:27 | 日記
 本町道通りの平楽交番の脇から、中村町2丁目へ向かって下る坂を狸坂と云う。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 この坂の名前は、屋根に狸の瓦を置いていた家があったことからだと云うが、あるいはその通りかも知れない。だがこの谷間へ向かって真っすぐに下って行く坂は、木の枝がかぶさって昼も小暗いところがあり、いかにも狸でも出そうな様子がある。昔はもっと茂みが深かっただろうと思われるからである。だが「横浜市史稿」にはこう出ている。
 「明治13年4年頃坂の辺に某画工が住み、某家に大きな陶製の狸を飾って置いてあったことから、其の名が付いたと云う。」として、次に「大場澧翁談」と云うのがある。
 「明治初年に江戸浅草の浮世絵師松本芳延(国吉門人)が横浜に来て、今の狸坂の中程に住んでいた。此人は狸大好で、何でもかんでも狸づくめであった。彼の家は草葺で、先ず門に掛けた額は松本軍医総監筆、遊狸アンとあり、玄関入口には畳表の暖簾を下げ、沓脱石は鼓形、客間は狸の睾丸八畳敷、床の間のお記物に仁清作の陶狸、煎茶道具、盆までも狸形、狸の絵、室内の額は各国の狸の絵、屋上には大狸の焼き物を掲げ、庭は手入れもせず、如何にも狸の住むような有様であった。明治4年に坂上に避病院が出来、同15年に虎列刺病が大流行したので、この坂を患者や汚穢物が通行すること引きも切らぬので、流石の遊狸庵主も神経を病むばかりでなく、遂に自身も同病に罹って歿した。依って家族の者は当所を人手に渡って、東京に帰った。遊狸庵主居住以来、この坂を人呼んで狸坂と云った。
 これで見ると、屋根に置いたのは狸の瓦ではなく、陶製の狸そのものであったらしいのだが、さてその遊狸庵主松本芳延と云うのがわからない。「国吉門人」という国吉が、国芳のことであるとすれば、その門下に同じ読みの「一慶斎芳信」と云うのはある。しかしこの絵師が横浜へ来たかどうか。横浜に住んだ絵師としては二代広重、貞秀、芳富、芳盛、すこし後になって国鶴、国松などがあげられるが、芳信も芳延も見当たらない。ただし、芳信には文久元年作の、葉巻をふかしている髭の人物を描いた「亜墨利加」神奈川台の坂の茶屋をコマ絵の背景にした婦人像「和蘭陀」同じく背景のコマ絵に神奈川沖の黒船をもってきた婦人像「英吉利」など横浜絵が作品になっているので、おそらく横浜に来たことはあるのだろう。しかし絵はすべて駄作である。この芳信と遊狸庵芳延が果して同一人であるかどうか、間違っていれば遊狸庵先生には誠に失禮話である。
 勿論今、それらしい家のあるはずもないが、樹木繁茂した入口に狐の像を置いた家がある。もしやこれは稲荷の祠でもあるか。・・・・というような記述がありました。

(本町本道通りからの入口)

(坂の入口から少し中付近)

(坂の中間付近)

(坂の中間付近)

(坂下の出口の道路)