こんにちは、4月になってから急に気温が下がり朝晩寒い釧路ですが、今日あたりからやっと日中も暖かくなってきました。どうやら今年の桜の開花はいつもより早そうです。
さて、先日、熊子の実父の33回忌法要がありました。早いもので父がいなくなり33年も経ったのだと感慨深い思いがあります。
熊子の父は職業軍人でした。戦前の実家は馬車屋を営む大店であり、父はその二代目でした。ですが祖父は父を職業軍人として溺愛し、兄の話ですと毎日神棚に何十万ものお小遣いを置き、父は好き放題にお金を使えるボンボンでもあったようです。終戦間際のあの沖縄戦の戦艦大和を護衛する戦艦にも乗り込み、アメリカの猛攻撃に遭いましたが、八丈島に逃げのびその戦艦の全員は無事だったとの事。
釧路空襲では家屋敷はすべて焼けてしまい、祖父もいず、戦後の父は慣れぬ商売に身を置きましたが、ことごとく失敗していきました。
熊子は父40歳の子供であり戦後の生まれですから晩年の父の姿しか記憶にありません。柔道3段でハーモニカーが上手く、お人よしで年寄りを大事にする姿や、
大酒のみで豪快な姿や、お金のことで母が困り果てても、人にお金を貸してしまう姿や、バスの中では胸ポケットからお酒の入ったボトルを出して飲んでいる姿や、そんな姿を小さな頃の記憶として強くあります。
熊子が成長し話しても解る頃は、よく戦時中の話をしてくれました。中国での憲兵時代の話や八丈島に逃げ延びた話は地図を出してきて話して聞かせてくれました。当時は中尉であり逃げ延びた八丈島で大尉に昇進したようですが、すぐに終戦を迎えました。釧路では警察からの誘いがあったようですが、馬車屋を継ぎ失敗し魚屋になり失敗して、雑貨商になり、最後は店をたたんで借家にし、父は人の世話になって行きました。
小学校前の鮮烈な記憶に、父の給料日になると母から父を迎えに行くように言われて幼い姉妹4人で父の勤める会社に出向き父を迎えに行った記憶が残っています。大酒のみで人のいい父は、困っている人がいるとお金をすぐに渡してしまい、母は困っていましたから、子供達を見張り番にしたのでしょうね。
父と一番似ているといわれる熊子ですが、残念ながら父に可愛がられた記憶がありません。父は男の子がほしかったようで、末っ子は男の子と思い込んでいたようで、生まれてきたのがタマのような女の子でしたからガッカリしたようです。そんな訳で父とはあまり話さない熊子でしたが、父といつかは屋台で飲み、大人の会話がしたいと願っていました、が、熊子の卒業を待たずに父は60歳で命が尽きました。
父が病に倒れ母は付きっ切りの看病をしました。寝る時間もないそんな母が可哀想で、当時看護学生だった私は夜間は母を少しでも寝かせるために病室に泊り込み、深夜は専門書を読む傍ら父の看病もしました。父は本を読んでほしいといつも希望し母と交代でいろんな本を読んで聞かせました。特に源平合戦の歴史ものが好きで、義経の活躍に体を動かすことができませんでしたが、手をたたいて涙を流し聞き入っていた姿が忘れられません。
最後の頃は酸素テントの中の父でしたが、夢をいつも見ているのか、戦時中にいると勘違いしたのか、閣下!、閣下!と言ってはいつも敬礼をしていました。
父と屋台で肩を並べて飲む夢は叶わない熊子ですが、今は兄が父の代わりのように思います。兄はますます父に似てきました。
兄にとってはいろんな思いのある実家模様ですが、こうして時を経て、兄と妹の絆がしっかりとでき、空の上から父は驚きと感動と、そして感謝をしてくれていると確信しています。
父への思いを書きました。ごめんなさい。
法要に横浜の兄と姉が来てくれました。今回は私のわがままな振る舞いで兄と姉を心底困らせ困惑させてしまったのです。もう以前のように笑いあうことができないかと悩みましたが、こうして変わらず優しく熊子に接してくれました。
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お兄ちゃん、お姉さん、ほんのわずかな時間でしたが、こうして一緒に過ごす時間がまた実現しうれしかったです。今度は自然に思うままに、また一緒に笑え会えたらと願っています。
さて、先日、熊子の実父の33回忌法要がありました。早いもので父がいなくなり33年も経ったのだと感慨深い思いがあります。
熊子の父は職業軍人でした。戦前の実家は馬車屋を営む大店であり、父はその二代目でした。ですが祖父は父を職業軍人として溺愛し、兄の話ですと毎日神棚に何十万ものお小遣いを置き、父は好き放題にお金を使えるボンボンでもあったようです。終戦間際のあの沖縄戦の戦艦大和を護衛する戦艦にも乗り込み、アメリカの猛攻撃に遭いましたが、八丈島に逃げのびその戦艦の全員は無事だったとの事。
釧路空襲では家屋敷はすべて焼けてしまい、祖父もいず、戦後の父は慣れぬ商売に身を置きましたが、ことごとく失敗していきました。
熊子は父40歳の子供であり戦後の生まれですから晩年の父の姿しか記憶にありません。柔道3段でハーモニカーが上手く、お人よしで年寄りを大事にする姿や、
大酒のみで豪快な姿や、お金のことで母が困り果てても、人にお金を貸してしまう姿や、バスの中では胸ポケットからお酒の入ったボトルを出して飲んでいる姿や、そんな姿を小さな頃の記憶として強くあります。
熊子が成長し話しても解る頃は、よく戦時中の話をしてくれました。中国での憲兵時代の話や八丈島に逃げ延びた話は地図を出してきて話して聞かせてくれました。当時は中尉であり逃げ延びた八丈島で大尉に昇進したようですが、すぐに終戦を迎えました。釧路では警察からの誘いがあったようですが、馬車屋を継ぎ失敗し魚屋になり失敗して、雑貨商になり、最後は店をたたんで借家にし、父は人の世話になって行きました。
小学校前の鮮烈な記憶に、父の給料日になると母から父を迎えに行くように言われて幼い姉妹4人で父の勤める会社に出向き父を迎えに行った記憶が残っています。大酒のみで人のいい父は、困っている人がいるとお金をすぐに渡してしまい、母は困っていましたから、子供達を見張り番にしたのでしょうね。
父と一番似ているといわれる熊子ですが、残念ながら父に可愛がられた記憶がありません。父は男の子がほしかったようで、末っ子は男の子と思い込んでいたようで、生まれてきたのがタマのような女の子でしたからガッカリしたようです。そんな訳で父とはあまり話さない熊子でしたが、父といつかは屋台で飲み、大人の会話がしたいと願っていました、が、熊子の卒業を待たずに父は60歳で命が尽きました。
父が病に倒れ母は付きっ切りの看病をしました。寝る時間もないそんな母が可哀想で、当時看護学生だった私は夜間は母を少しでも寝かせるために病室に泊り込み、深夜は専門書を読む傍ら父の看病もしました。父は本を読んでほしいといつも希望し母と交代でいろんな本を読んで聞かせました。特に源平合戦の歴史ものが好きで、義経の活躍に体を動かすことができませんでしたが、手をたたいて涙を流し聞き入っていた姿が忘れられません。
最後の頃は酸素テントの中の父でしたが、夢をいつも見ているのか、戦時中にいると勘違いしたのか、閣下!、閣下!と言ってはいつも敬礼をしていました。
父と屋台で肩を並べて飲む夢は叶わない熊子ですが、今は兄が父の代わりのように思います。兄はますます父に似てきました。
兄にとってはいろんな思いのある実家模様ですが、こうして時を経て、兄と妹の絆がしっかりとでき、空の上から父は驚きと感動と、そして感謝をしてくれていると確信しています。
父への思いを書きました。ごめんなさい。
法要に横浜の兄と姉が来てくれました。今回は私のわがままな振る舞いで兄と姉を心底困らせ困惑させてしまったのです。もう以前のように笑いあうことができないかと悩みましたが、こうして変わらず優しく熊子に接してくれました。
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お兄ちゃん、お姉さん、ほんのわずかな時間でしたが、こうして一緒に過ごす時間がまた実現しうれしかったです。今度は自然に思うままに、また一緒に笑え会えたらと願っています。
お父様の33回法要無事終わりよかったですね
昔の男性は確かにワンマンでしたね。。
熊子さんがお兄様と仲良くされている事を
お父様も天国から、喜んでいられると思います。
お兄様とお姉さまに再開でき
ほんとに良かったですね
私もコメントを読んでいると
父の事を思い出して胸が熱くなっています。
ラーメンはほうれん草がのっていないのですかぁ~
戦争中のお話もお若い熊子さんは、ごまんとご存知なのですね。
お兄さん・お姉さんと再会良かったですね。
とても文章が上手でびっくりです。
写真も上手またまたびっくりです。
料理もおいしそうに撮れていて、すごいですね。
お変わりなく元気そうで良かったです。
しかし美味そうなものを食べてますね~
有名な炉端焼き屋さんがあると噂で伺っていますが、ここなのでしょうか?
熊子姉さん達の顔が見えなかったのは残念です。
4人の写真は板前さんに写してもらったの?
ホロリとしました・・
思いでは・・・
横浜のお兄様 久しぶりですねっ お元気そう!
お姉さまも いつものままで美しい!久しぶりですね お兄様に甘えて愉しく過ごされたことかと・・・!
なんだか こちらもうれしいです
惜しむらくは 皆さんのお顔が、、、見えないの。。。 えっ?
見えないようにしてる? 惜しいですねぇー
こんなご馳走を前にして いい場面なのに(笑)