リカリズムな日常

6拍子に彩られた破天荒な毎日

「純粋な創造」とは

2011年11月02日 | 本音と実情

拓は昔よくこんなことを言っていた。
「曲を書いてる途中でどっかで聞いたことあるフレーズだなって気付いちゃうと、もうその先が書けなくなる。
世に出てないフレーズだけで曲を作ろうとしても、結局どっかしらで似たり寄ったりになっちゃうんだ。」
と。

それは非常に耳のよい彼ならではの悩みだろうと思っていた。

私だったら。たとえどっかで聞いたフレーズに似ていると気付いてしまっても、後で誰かに指摘されたとしても。
この心から頭から純度高い状態で産まれたことを知ってさえいれば動揺はない。
そこになんらかの曇りがあったとしたら、きっとやぶって捨てたくなるのだろう。
だから、大丈夫。と考えている。

なぜならば。
既に世に出回っている作品から理論から、それに汚されない創造なんて、本当に出来るだろうか?
答えは否。
意識的にも無意識的にも、絶対にどこかで影響されているのだ。影響されず生きてこれた人にきっと曲は書けない。
それら全部含めて。好きも嫌いも環境によるものも後付けでも、それら全部含めて「これが私です!」と叫べる勇気が作品になるのだろう。


そう。勇気。
これが、「純粋な創造」への必要不可欠な要素だと私は思っている。
正々堂々と、潔く。
力み過ぎても抜き過ぎても違うし、小さくまとまりすぎても大きく見せびらかしても、立ち止りすぎても進み過ぎても壊れてしまう。
最強のバランスが、それを後押しする。

拓だって、そうやって自分の葛藤と闘いながら作品を生み出すことをやめないでいる。
そうして上記のような悩みは口にしなくなっていった。


「純粋な創造」は、作曲や表現活動だけにとどまらず、価値観や道徳観、人生観や倫理観にも当てはまると思っている。
人が人として成長し生きてゆくのにそれらは持たずにはいられないものだ。
人は、呼吸し、生きて感情を揺らめかせるだけで、別に芸術に関わってなくったって、すでに表現者なのである。

けれど、いつも勇気だけで気を張って生きるなんて疲れちゃう。
いつも新鮮な気持ちで立ち向かうってとても難しいこと。
そういうとき、なんとなく目にしてきたもの、そういうものだとして認識してきたもの、出回っている価値観に頼る。
とくに深く考えずに選んでどっかで依存もしながら生活する。

そうすると、どんどんにぶっていくんだと思う。しまいには自分の都合のいいものしか信じられなくなったり。
そうやって年をとって、安定的な保守的な考えに胡坐をかきがちになるんだと思う。


安定とか安心とか、は純粋な創造とは真逆のものだ。
不安や葛藤や恥ずかしさから目をそらしたら出来ないから。
時には自分の全てを全否定されてしまうような恐怖に立ち向かわなきゃならないこともある。



今の日本が。
まさにその状態なんじゃないかと思う。


いろんな情報が出回り、どれが本物かもわからない。
明日の生活がどうなるかも。保障なんかどこにもない。
平和ボケで安定してきた私たちにとって、これほど自分の価値観、倫理観、優先順位を試される環境はない。
今、まさに「純粋な創造」ができる時なのだと思うのです。


スピリチュアル界で「アセンション」だとか「2013年問題」だとかいわれてきたけれど、こういうことだったのかとすごく納得。


私は結縁という名があるけれど。だからなんだってんだ、って感じ。
救ってくれる神様がいるわけでもズルすることを教えてくれる神様がいるわけでもない。
それでよかったと思う。
宗教が未だ根強く残るのは、そういうことだろ?
あたしが宗教が苦手なのは、そういうことだ。


ああ、ちょっと熱っぽく言いたくなってきたよ。
超個人的な怒りを書き出せば。
「一般常識」を本物の自分の価値観として語る人がいないから、そんな常識はかっこ悪いとすら感じる。
「社会人として云々」ってのも、帰属意識が強い人しか語らないから納得できない。
愛情と束縛を履き違えてるバカな親はたたきつぶしたくなるし、
噂話だけで人を酒のさかなにする奴はもっと嫌いだ。


難しい面倒なヤツで、いい。私はきっととても難しい人間だ。

「嫌い」「苦手」も、いづれは受け容れられるように。
私の純粋な創造は、やめないつもり。
途中で迷っても。ココに帰ってくるよ。

 


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