メッタ斬りジャリズム

これからは個人ジャーナリズム(ジャリズム)の時代!しがらみのない自由な立場から世の中をメッタ斬る!

フジ25時間テレビカキコした一覧

2005年07月24日 23時21分56秒 | Weblog
【フジテレビ25時間テレビで、2ちゃんねるに自分が書きこみしたもの一覧】


やはり青木さやかではメインは無理。
なんでこんなにつまんないんだろ?CMの方がおもしろいぐらい。
こんなつまらん番組作ってたら、そりゃテレビはネットに抜かれるわなあ


自衛隊と在日米軍大運動会、いい企画だな。日本でもこんな企画がテレビで出来る時代になってきたんだな

非常に右翼的な意図を感じて、なかなかいいぞフジテレビ!
自衛隊や米軍を当たり前にバラエティーに出す時代に。
いい企画だな。


フジテレビ25時間テレビ、始まる前は『ナイナイ坊うざい。始まったら意外におもしろいかもよ。』
っていう論調だった2ちゃんねるが、
番組開始と同時に一気にトーンダウン!



村上とか山中マラソンとか、鶴瓶中継とか、くだらん企画いらんのになぁ。せっかくのいい流れをスタッフの企画がことごとく潰してる…。馬鹿スタッフ余計なことすな

から騒ぎA級戦犯は、
村上を出したやつ
中居にふる台本を書いたやつ
名古屋人にしか受けないワッキー


くだらん企画いらんのになぁ。せっかくのいい流れを…。馬鹿スタッフ余計なことすな

なぜ今年はこんなにつまんないか反省会始めようぜ!
CDTV行こうかな?

こんな馬鹿な地方局はデジタル投資で潰れてしまえ!


最後の鶴瓶は、テレビ業界の衰退に、最後の悪あがきの図だった。

フジ社員のための番組だったな。
フジテレビの文化祭。

テレビ局はエラそうなこと言える立場にないから。


そんなこと言ってても、実際は衰退産業の道を歩み始めてますから。
こんなくだらん企画しか作れないなら、ほっといても衰退産業。

フジ社員のための番組。

テレビは衰退産業の道へ。

山中では感動しない。身内でやれ。
全くくだらん。こりゃテレビは衰退産業になるな。ほっといても。
くだらん企画もうやめろ!山中のオッサンが走ったって仕方ない。


フジ25時間テレビ〓ー中身なき期待感

2005年07月24日 10時19分02秒 | Weblog
フジテレビ25時間テレビ、オープニングから朝5時半まで、ぶっ通しで見続けてしまった。
ご飯も食べずに…。

一言。今年は最悪につまらない。特に開始から深夜帯に入るまではひどかった。企画がひどい。フジテレビとは思えない。

山中マラソンや鶴瓶の逃走とか。演出にしてもつまらない。
余計なくだらん企画やらなくていいのに。

それに司会が青木さやかでは全然ダメ。青木さやかではそんな大役は無理。鶴瓶も逃走で、お笑いが誰もいない。


昨年の片岡飛鳥的演出が神すぎた。
でも始まる前は、2ちゃんねるの論調すら、
「昨年にこだわる懐古房は死ね。」「今年も始まったら面白いかもよ」という論調だった。

しかし始まったら途端にトーンダウン!つまんねーの嵐。

やっぱりな。
ただの期待感だけで、いい前評判をしてしまう。

これは、民主党やauへの評価と通じるものがある。


これは最近の持論なんだが、『何かやってくれそう』とか『何か変えてくれそう』という期待感だけで、いい評価をしてしまう。
実際に何が変わるかなんて具体的には何も分からないのに。

単なる期待感からの評価。これは、今の民主党やauへの評価と同じだ。


『民主党なら何か変わるんじゃないか。』

⇒実際にやってみたら何も変わらないって!多分。

今回のフジテレビ25時間テレビだって、前評判は期待感から高かったが、始まったら途端にトーンダウン。

多分、民主党が政権を取っても同じことが起きるだろうし、ドコモからauに機種変更した時も同じような気持ちになるのではないか?

中身のない『変化への期待感』。これは危険だ。


今回のフジテレビ25時間テレビで、その前と後の差を如実に体験出来た。



…と、たかだかフジ25時間テレビで、持論を展開してみる(笑)。


最近のテレビが失った『生』感覚。

2005年07月23日 02時33分38秒 | Weblog
いよいよこの週末はフジ25時間テレビだ。
テレビ雑誌も買ったし、DVDも買ったし、準備万端だ(笑)。

しかし、今年はたいした企画がなさそう。
昨年あんなに伝説にまでなった片岡飛鳥的演出がうまく行ったのに、なぜ今年も同じ路線でいかないんだろう?

でもこうしたお祭りは好き。
最近のテレビにはないもの。それは『生』感覚である。
みんな編集でゴテゴテに作り上げられて、どれを見ても同じになってしまっている。
同じようなテロップ、同じような効果音、同じようなCMの入れ方、引き延ばし等々…。

視聴率を恐れる余り、編集ばかりに頼る。小手先の技術ばかりで何とかしようとする。業界で常識とされた既成概念を打ち破れなくなり、自らがんじがらめになっている…。

そうした自らが作り出したあらゆるしがらみを打ち破るのは、“外圧”か、こうした長時間の『生』スペシャルしかない。
(※ここで言う外圧とは、フォーマットセールスなどのことを指す。)


最近のテレビが忘れてしまった『生』感覚が、自然な形で復活する。それがこうした25時間テレビの醍醐味である。


“コンドーム性教育”は性教育に非ず

2005年07月10日 13時17分49秒 | Weblog
◆【真の性教育】“コンドーム性教育”は性教育にあらず~真の性教育とは、人間の深み・尊厳を教えること~〔確定板〕



性教育は、コンドームを配ることではない。

真の性教育は、『人間としての深み』、すなわち、『人間には、性よりも大切なことがいろいろある』ということを教えることこそ真の性教育だ。

つまり、人間は動物とは違うということ。
動物とは違って、人間とは幅広く深い活動が出来る生き物であり、性だけが人間の活動ではない。
人間は性のみに生くるにあらず、である。

それが、人間としての尊厳を認識させる訳であり、ひいては『いのちの大切さ』を教えることにもなる。


いのちの大切さを教えようと、過剰に性や恋愛の尊さばかりを教えようとすると、かえって人間としての幅を狭める。

人間はそれだけではない、幅広く深く、動物とは違う世界を持てる生物である認識を教えることが重要である。


エイズや性病から守ることばかりが性教育になっており、対症療法的で、非常に浅くレベルが低い。

その技術を教えることが性教育ではないはずだ。


エイズや性病が蔓延するのは、コンドームを付けないからではない。
付け方を知らないからでもない。
性ばかりが最高の価値になりすぎているからだ。
愛は素晴らしい、愛は自由だ、の名の元に無秩序な性が横行しているからだ。

性ばかりに興味・関心が行くような社会構造―とくに情報分野―になりすぎている。


性ばかりに関心が行き、性が最高の価値になる―――これこそがエイズ・性病蔓延の根本原因でありながら、すぐエイズ・性病蔓延の話になると、「学校でコンドームの使い方を教えないからだ」となるのは馬鹿げている。

さらに、使い方を知らないのではなく、知ってても付けないのだ。

いくら付け方を教えても改善はしれている。

それをコンドームのせいにして、「コンドームの付け方を教えることこそ性教育」みたいに考えているのは、勘違いも甚だしい。


しかし、誰もこれを指摘出来ない。
“コンドーム性教育”反対派の意見でも、「寝た子を起こす」式の論理しか見られない。

寝た子を起こすもさることながら、それ以上に大切なのは、『人間は性のみに生くるにあらず~人間にはもっと幅広く深い人としての活動がある』。
これを教えることだ。

これこそが真の性教育であり、この深みこそが『教育』と呼べるのだ。

人間としての深み・尊厳を、性を通じて教える教育であって欲しい。
コンドームを配るのではなくて。