散歩と俳句。ときどき料理と映画。

養蚕機織図屏風その2

〈養蚕機織図屏風〉は六曲一双屏風の大きな画面に、
画面の右から左へと進んで蚕を育て、繭から生糸を紡ぎ、機を織る様子が描かれている。

本展で展示された〈養蚕機織図屏風〉の全体像の画像を見つけることはできなかった。

養蚕機織の画題は、農民の苦労を知るという意味で、
帝王教育の一環として中国で耕作図とともに描かれたものだ。
この国には室町時代に梁楷筆の「耕織図巻」が伝わっていたことが知られている。
原本は失われているが、伝梁楷筆とされる『耕織図巻』などの模本や版本が残り、
この国に伝わり狩野派の耕織図の重要な手本となった。
〈耕織図巻〉の名が示す通りに稲を作り蚕を飼い機を織る過程を画題としている。
今回展示された〈養蚕機織図屏風〉と対をなす伝・狩野元信作〈耕作図屏風〉も存在するのだが、
会場の案内には「アメリカ・個人蔵」と表示され、小さな写真での展示がある。
この件についてはおもしろい発見もあったので、次回に書いてみよう。

中国における養蚕、農業の姿を描いたものを手本にしているから、
風俗や人物の衣装や髪型、農機具は当然中国的な表現となっている。
しかし、養蚕という生産・労働に従事する農民の姿は生き生きと描かれている。
あるサイトには以下のような解説があった。

稲を作り蚕を飼い機を織る過程を描いた絵を総称して耕織図の名で呼んでいます。我が国の農業が描かれた絵図の古いものとしては、例えば国宝の袈裟襷文銅鐸(弥生時代・神戸市桜が丘遺跡出土)の竪杵による脱穀場面などがあげられるが、絵画らしい絵画としての耕織図が登場するのは、ずっと時代が下がった室町時代のことで、しかも中国の耕織図を模したものでした。中国では古く秦漢の時代から耕織図が描かれているが、それは支配・知識階級が農民の労苦をいたわり範を垂れるための、鑑戒(いましめとすべき手本)的意味合いの強いものでした。そうした中で12世紀の30年代に南宋の県令楼しゅうによって、芸術的かつ技術史資料としても優れた耕織図が描かれました。この図は原本が失われているが伝梁楷筆とされる『耕織図巻』などの模本や版本が残り、我が国に伝わり狩野派の耕織図の重要な手本となっています。中国では清代になると時の皇帝康熙帝の下命により、宮廷画家焦秉貞によって西洋の遠近法等による耕織図『康煕帝御製耕織図』が描かれ、これも我が国に伝わり絵師達の手本となっています。我が国の耕織図は、描かれ始めた頃から中国の鑑戒画とは異なり、襖絵や屏風とし風景の鑑賞を目的としたものが主でした。我が国の耕織図は、狩野派ばかりでなく雲谷派ややまと絵系の絵師達によっても描かれ、やがて時代が下るにつれ実際の農村風景を写したものも増え、江戸時代には農業技術を知る上でも参考になる絵も描かれるようになった

種浸について描かれた3人の人物と詩の耕織図
粉本となったのは南宗の一地方県知事が著し、江南の農桑事情を図解した画期的な農業図絵。それぞれの図は勧農の詩と一対になっており、後世にいたるまで為政者、民間を問わず絶大な人気を博し、模写も多く本資料もその一つで、宋魯本の写しに手を加えたもの。

三重県総合博物館所蔵の〈耕作図巻〉(江戸時代)秋(稲刈りの風景)。

久隅守景の《耕織図屏風》 久隅守景は、狩野探幽門下の四天王と称された。

耕織図屏風〉作者/東東洋。時代/保元年(1839)。品質形状 絹本著色 六曲一双。
本図では左隻に農耕、右隻に養蚕の過程を中国の風俗、風景で描く。

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