散歩と俳句。ときどき料理と映画。

養蚕機織図屏風 その3

前回引用した
〈中国では古く秦漢の時代から耕織図が描かれているが、それは支配・知識階級が農民の労苦をいたわり範を垂れるための、鑑戒(いましめとすべき手本)的意味合いの強いものでした〉
という解説に対して、ワタシはあまりにも無批判に引用したと反省している。
〈支配・知識階級が農民の労苦をいたわ〉るはずなどない。
なにが〈帝王教育〉だ。この時代に〈農民〉などという言葉があったのかどうかは知らない。
しかしほとんどの〈農民〉は奴隷であったことは間違いない。
美術史の中にこのような恥ずべき認識が登場するのは、なにも耕織図にかぎったことではない。
この国の王朝文化と呼ばれる飛鳥時代、奈良時代、平安時代の文化を語る時に
庶民の生活に言及した論考はほとんどない。

百姓の働く姿を描いた絵画はたしかに重要である。
しかしそれを〈帝王教育〉に結びつけて語ることは注意を要する。

たとえば東京大学のサイト〈農場博物館〉に次のような記述がある。
〈「御製耕織圖詩」は宮廷画家の焦秉貞が画を描き、中国清朝第4代皇帝の康熙帝が詩を吟じて付した耕織図です。耕織図は、農民の勤労を支配階級に示すための中国絵画の画題でしたが、南宋朝(1127~1279)時代には、芸術・技術資料両面から優れたものが描かれるようになり、江戸時代の日本では、狩野永納などによって描かれています。焦秉貞作の耕織図は、稲作「耕」と養蚕「織」の作業工程が詳しく描かれており、西洋画の遠近法を取り入れていた最初の中国画といわれています。この版の序文も康熙帝によるもので、稲作(耕)と養蚕(織)の作業工程それぞれ23 場面を描写しており、台北の國立故宮博物院外部リンク も所蔵しています。康熙帝は、唐朝の第2代皇帝の太宗と並んで、中国史上屈指の名君として知られています。耕織図からみてとれる、国倉の中枢は「稲作と養蚕」、すなわち、「食・衣」であるという考え方は、宮中における、天皇陛下の稲作や、皇后陛下の養蚕に通じるところがうかがえます〉
と中国の名君からこの国の皇后まで引き合いに出して解説を始める始末である。

下の図は、焦秉貞 作画/康熙帝 作序・作詩、による「耕 第十圖 插秧」の一部であるが、
ここには農民の生産への喜びは感じられない。奴隷状態の人民の姿である。

上の図の拡大図。〈插秧〉とは田植えのこと。

翻って伝・狩野元信作〈養蚕機織図屏風〉を観てみよう。
養蚕の労働に従事する登場人物の細かな表情までは判別し難いが、
「耕 第十圖 插秧」に描かれた人物よりはまだ活気がある。

さて突然だがワタシはここで白土三平の貸本時代の傑作『忍者武芸帳 影丸伝』を思い起こす。
一向一揆の結果、短い期間であったが百姓による自治を獲得した
越後の人民の働く姿を描いた数ページである。


また『カムイ伝 第一部』にもこういうシーンがあったはずだ。

もちろん白土三平はこういった百姓の農作業を描くにあたって、さまざまな〈耕織図〉を見ているだろう。

美術史とはなんの関係もないマンガの絵であるという批判は無効であるのは自明だ。
この生き生きと働く百姓の姿は、あらゆる圧政と搾取、支配から自由になったときに初めて得られる。

支配階級の〈帝王教育〉などというまやかしにとらわれた美術史家は、この白土三平の絵をしっかりと眺めることだ。

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