散歩と俳句。ときどき料理と映画。

ホラー映画 その5小林正樹『切腹』2

平田弘史のマンガを高く評価した文学者として三島由紀夫がいる。
三島は『切腹』について下記のよう言及している。

〈外国の批評家が、「切腹」からギリシア悲劇を聯想したことは、私には興味深い着眼と思はれ、それは作家が意図した否定とは逆に、たとへ形骸化したとはいへ、一民族の一時代のモラルを宿命と見て、これに対する人間の抵抗と挫折を、包括的に肯定した批評であつた。因みにギリシア悲劇が、人間の死の場面を決して舞台に出さなかつたことはよく知られてゐる。かくして「切腹」は、知性的な部分と感性的な部分の、両刃の剣を持つた作品であつた。そしてその愬へ方が、相反する方向へ向ひながら、そこに異様な均衡を保ちえた作品であつた。ただ作者が、残酷場面の意図を、主題の強調と展開のために必要だつたと、もつぱら知的に説明してゐるのは疑問のある点で、この作品の残酷さを残酷美に高めたものは、むしろこの作品の感性的側面の力であり、又、一見知的に見える構成と場面設定の単純性は、実は伝習の形式美と不可分であることを言ひたかつたのである。そしてそれは私がここに事々しく言ふまでもなく、観客がつとに、無意識の裡に感じとつてゐたことである〉

言いたいことはわからないでもない。しかしわかりにくい気を衒った文章である。
つまり
〈竹光での切腹という残酷さについては、真刀の切腹でも実際はもっと凄惨であるとし、「演出者があのシーンに、輸入品にすぎぬ近代ヒューマニズムの怒りをこめたつもりであるなら、観客の反応は計算の外だつた」として、どんなに残酷に強いられた切腹であったとしても、その行為自体は、「武士の名誉を賭けた意志的行為」であり、映画の演出者がその「〈名誉〉の固定観念と、〈誤まてる〉道徳」を笑おうとも、一般的な観客の心の奥底でその自殺行為に「美学」を感じることは否めなく「切腹者のいさぎよさに、高潔な意志のあらはれと、一つの美の形を無意識に見てゐる」と、この映画の成功の要因を解説している〉

ということであろうが、これははっきり言って間違いである。
〈切腹者のいさぎよさに、高潔な意志のあらはれと、
一つの美の形を無意識に見てゐる〉などということはありえない。
ただ自分の腹を切り、介錯で首が転げ落ちた三島である。
自身の死をそう見てほしいという望みがあったのだろう。

三島由紀夫の自主製作映画『憂国』(1966年)の製作動機にも影響を与えているとの説もある。

三島由紀夫『憂国』。恥ずかしいくらいつまらん映画である。

この映画の音楽を担当したのは武満徹だが、
小林正樹との仕事はこれが最初で続けて『怪談』、『上意討ち 拝領妻始末』(東宝/1967年)
『日本の青春』(東宝/1968年)、『いのちぼうにふろう』(東宝/1971年)、
『燃える秋』(東宝/1978年)、『東京裁判』(東宝/1983年)、
そして小林正樹最後の作品『食卓のない家』(MARUGENビル製作/1985年)まで続くことになる。

『上意討ち 拝領妻始末』の三船敏郎。

『東京裁判』。ワタシは観ていない。

『東京裁判』メイキング。中央の椅子に武満徹。

ツレアイが武満徹の映画音楽の演奏の準備で
ウチに「他人の顔」「乾いた花」「燃えつきた地図」などの楽譜がある。

それもあって武満徹が担当した『切腹』『怪談』の音楽をあらためてユーチューブで聴いた。
どれもアバンギャルドなテイストで、当時としてはとても斬新な映画音楽である。

どちらも本編をユーチューブで観ることはできるのだが、
無料配信ではなくレンタルになる。
ビンボー人のワタシはカネをはらってまで観るという贅沢はできない。

音楽を聴きながら成瀬巳喜男監督の1967年の映画『乱れ雲』を思い出したりした。
この映画を初めて観たとき武満徹の邦画とは思えない音楽に驚いたことがあった。

『乱れ雲』の加山雄三と司葉子。


大根役者の加山雄三ではあるが、
この作品ではその大根ぶりがかえって主人公の拙さを表現できていたように思えた。

〈続く〉

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「映画」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事