ふしょうなブログ

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それでも生きる(渇いた雨について)

2005年08月28日 21時33分44秒 | 詩の背景
  死に場所を求め仮想空間をさまよう若き魂達。つい最近でも警察官を襲い自殺の為の拳銃を奪おうとする痛ましい事件まで発生しました。

  何故そんなに死に急ぐのか、部外者には当人の心の内を伺い知ることは出来ませんが、本当に死ななければならない程の理由があるのか、あったのか、問い詰めたい気持ちを抑える事は出来ません。

  そんな死に急ぐ若い魂達が存在する反面、与えられた生を全うすべく残された人生を生きる老婆の姿。手押し車を押すが為に傘もさせず、身につけたレインコートは深く折れ曲がった背を雨から守るには、あまりにも古びていて、何かに躓いて前に倒れたら最後起き上がれない程に折れ曲がった背中。(老人達が一番身近な危険で恐れるのは骨折する事とか。特に足腰を骨折した場合、最悪病院のベッドに寝たきり状態になる恐れがあります。一人暮らしで身寄りの無い場合、それは死を意味するのです)

  それでも老婆は生きています。これまでの様々な思い出の数々を心に抱いて生きています。哲学者のように生きる理由など問い詰めるまでも無く生きる為に生きる。生きているから生きる。

  日本は世界に類を見ない速度で高齢化社会への道を突き進んでいます。だれもが直面する老いとの関わり方、そして人生にとって孤独とは何かを問い詰めて生きるべきか、それとも生を授かりし一人の人間として、当然に生きる。

  結論は簡単には出そうもありませんが、詩作を通じ考えて生きたいと思います。


  さて、詩の中身について簡単に自己分析してみましょう。
  まず、第1連の「鎖」、「足枷」は身体の不自由さを表現しました。現代詩フォーラムに投稿した際、kwさんより適切なコメントを頂戴しましたが正にその通りです。視力も白内障気味で悪くなっている上に自由に動かない身体。力の入らない掌、簡単に上がらない腕、二三段の段差さえ上れない程に弱った足腰。普段の生活さえ若い僕たちには想像もつかないぐらいの困難を伴うようです。

  希望ある未来など遠い昔のおとぎ話、今はただ、今日の為に生きる老人に取っての糧は過去の思い出です。(言い切ってよいものかどうかについては、異論あると思いますが)そんな過去の思い出でさえ、記憶も定かでは無くなり、今はもう断片的な思い出を繰り返すばかり。第2連、第3連はそんな状況を表現しました。

  詩の終わりを「涙が重くのしかかる」とした意味は、歩く老人の「心」は常に悲しみで溢れているのか?本音の部分での心内を知る良しもありませんが、生を受けてから今までの生き様の重みが心にのしかかっている様を表現してみました。

  尚、タイトルの「渇いた雨」は、「涸れた心に降る雨は砂漠に降る俄か雨のように、降っても心の奥底深く似吸い込まれ、決して心を潤さない」、そんな意味合いを込めたものです。

(まとめ)
  孤独は一人暮らしでも、大勢の家族に囲まれていても感じるものなのかも知れません。それは老人に限らず、若い僕たちにとっても、何気ない瞬間にも感じるもののようです。一人で生まれ一人で死ぬ定めに生まれし者の宿命と言えるのでしょうか。


渇いた雨(現代詩フォーラム)
URL:
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=1864


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