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叔父の進軍ラッパ(version4)

2023-01-07 14:48:18 | 小説

父の葬儀が終わり、ほっとする間もなく、参列者たちはバスで市営の火葬場に向かった。秋の日差しが丘の火葬場に降り注いでいた。父の棺が霊柩車からストレッチャーに乗せられて、火葬場のホールに運ばれていく間、バスから降りた参列者たちは、喪主の私を先頭にぞろぞろとそれについて行った。

 全員がホールに揃った頃、火葬場の係員が「これが最後のお見送りになります」と述べると、棺は参列者の黙礼に見送られながら鉄の扉の向こうに消えて行った。

 父は87歳で亡くなった。積年のタバコの害がたたり肺気腫で入院したが、退院後は酸素療法になり、鼻にチューブを繋いで、父の言う「犬のような生活」になった。そう長くないと思っていたので、誰もその死に動転することはなかった。しかし、タバコをやめていたらもう少し長生きはできたであろう。何より酸素療法のお世話になるという不自由さはなかっただろうと私は思った。

 父は結局、肺気腫になってもタバコをやめなかった。意志の弱さと言えばそれまでだが、父はそのような弱さを決して見せようとはしなかった。知人がタバコをやめたと知っても、やめるぐらいなら元々タバコが好きでなかったのだとか、タバコよりも大気汚染の方が問題だとか、屁理屈で喫煙を正当化した。

 父には武司と晴男という二人の弟がいた。私の祖父が佐用から姫路に出て文具店を営んでいたため、佐用には祖父の妹である父の叔母がひとりで住んでいた。終戦の間際、そこに家族は疎開した。ところが終戦後、その疎開先で両親が栄養失調に起因する病で立て続けに亡くなってしまった。父には想定外のことで、弟たちの養育が重荷になった。下の晴男は6歳で、13歳も離れていたから親子のように可愛がり、「小粒でもピリッとしている」と思っていたが、11歳の武司が心配だった。もともと自分の意思を示さない方だったが、両親が亡くなってから、ますます言葉を話さなくなった。近所に風呂をもらいに行っても、いつも弟を先に行かせて挨拶をさせ、自分は後ろに立っているような有様だった。

 父は両親が亡くなってからも神戸に下宿し、親の財産を基に学業を続けた。ある日、父が闇市でタマネギやジャガイモ、明石のタコやイワシを買って佐用に帰った折り、武司が勝手に煮付けたことがあった。叔母は、「なんしたこっちゃ。たけちゃんは料理が好きなんじゃろう」と笑った。しかし父は、武司が勝手にしたことが気に入らなかった。「男は料理なんかより、仕事や勉強が大事や。勉強がいやなら、高等科を出て早よ仕事につけ」と説教し、「晴男みたいに元気を出せ」と付け加えた。そんなときいつも武司は、「へー」と返事するだけだった。晴男が、「たけ兄ちゃんは虫や動物の博士やで」と兄を立てても、武司がひけらかすそんな知識も、父は不愉快だった。父は自分や親がしてきた「努力」を弟たちに求めた。それは列強に対抗したわが国の価値観でもあったが、武司の生き方は、頑として「努力しない」ことのようだった。

 ある冬の日、一日中コタツに座っている武司を見て怒りが爆発した父は、中のアンカを取り出して、土間に投げつけた。アンカは割れて、中から火のついた炭が飛び出した。武司は驚いたが、いつの間にか消えて行った。

 そのコタツの上に、父が先日神戸から出した武司あての手紙が無造作に置かれていた。そこには、「もう両親はいない。これから仕事をするか進学するか、どちらにしても自分の方針を決め、その方向で頑張らなくてはならない」ということが書いてあった。それを読んだのかどうか、手紙の裏に赤と青の色鉛筆で、戦闘機の空中戦の様子が漫画的に描かれていた。それを見た父は、怒りよりも諦めのような情けない気持ちになった。

 ある日、叔母が用意した雑炊の夕食後、父が武司に説教めいたことを言った後、「ブー」とオナラをした。父の癖で誰も気にしなかったが、そのとき武司がすぐ「ブー」と、それに応えるように鳴らしたので、叔母や晴男が腹を抱えて笑った。父も笑いながら、「お前は屁だけは一人前や」と、武司を初めて褒めた。それは、父と同等だという武司の主張や、そこに潜む努力という言葉への反感に、父が気付いたためかも知れない。

 父は手に職をつけさせようと、小学校高等科を卒業した武司を洋服屋へ奉公に出した。仕事は真面目だが自転車も覚えず、他の奉公人に遅れる仕事ぶりが禍いし、武司は幾度か仕事を変わった。父はその都度転職先を探したが、最終的に神戸のクリーニング店の住み込みに何とか落ち着いた。それは武司が20歳の頃だった。

 私の覚えている武司叔父は、毎年、盆と正月に神戸の瓦煎餅を手土産にして、私の家に帰って来た。母が、「たまには違ったものを土産にしたらどうなん」と言うと、その後は線香を持って来るようになった。叔父は大抵1泊して映画を見に行き、いつの間にかいなくなっていた。

父は雇い主にお中元とお歳暮をしていたが、普段ほとんど叔父との付き合いはなかった。阪神大震災後に退職した叔父は、復興住宅でひとり暮らしになった。

 父の葬儀に叔父を呼んだのは、父の兄弟だから当然であった。叔父は葬儀中もほとんど話さなかったが、やや丸くなった背中で父の棺に手を合わせてくれるだけで私は安心した。

 精進落しの後、親族は骨上げに再び葬儀場に行った。ストレッチャーから出てきた父の遺骨は、体の配置以外ほとんど形が崩れていた。喪主の私は係員に促され、比較的形の整った喉仏の骨を長い箸で摘まみ、骨壷に納めた。親族がそれに続いた。そのときだった。静寂を破るように「ブー」という大きな音がホールに響いた。だが、それを無視するかのように、粛々と遺骨は納められていった。

 その日の夜、親族が私の自宅で休憩した。誰かがふと、「あれは武司さんやろうな。あんなときによくオナラができたもんやなあ」と言うと、叔父だという証拠もないのに皆は爆笑した。そのとき6歳の私の孫が、「あれは曾爺さんを元気にするラッパやったんやで」と言った。ふと私は、「そうか、あれは父を元気づける『冥土への進軍ラッパ』だったのだ」と思った。冥土への途中、その音を聞いて父は怒ったかも知れない。叔父は、「へー」と言って無視しただろうけど。

 その叔父も今年90歳で亡くなった。父とあの世でこんな会話をしているだろう。

「そんなにいつでもオナラできるとは大したもんや。どうやってそんな技を身につけたんや。努力したんやろう」

「いや、好きなことしかせんかった。せやけど長生きできたから良かったいうことかな」

「うーん。閻魔さんもお前の人生を認めてくれるのかな」


叔父の進軍ラッパ

2022-09-27 16:02:04 | 小説

 父の葬儀が終わり、ほっとするまもなく、葬儀の参加者は会場のあった葬儀場からバスで市営の焼き場に向かった。秋の日差しが丘の火葬場に強く降り注いでいた。父の棺桶が霊柩車からストレッテャーに乗せられて、火葬場のホールに運ばれていく間、バスから降りた参列者たちがぞろぞろとそれに付いて行った。

 喪主の私は、その先頭に立っていた。全員が揃った頃、火葬の責任者が参列者に向かってお辞儀をして、「これが最後の見送りになります」と言った。参列者の黙礼に見送られ、棺桶はストレチャーから鉄の扉の向こうに流れるように消えていった。

 父は87歳で亡くなった。ここ数年、積年のタバコの害がたたり、肺気腫で入院し、退院後は、PTSDのため酸素療法で鼻にチューブをつないで生活していた。そう長くないと思っていたので、誰もその死に動転することはなかったが、タバコをやめていたらもう少し長生きはできたであろう。何より、酸素療法のお世話になるという不自由さはなかっただろうと思った。

 父は喫煙を正当化した。知人がタバコをやめたと知っても、やめるぐらいなら、もともとタバコが好きでなかったからだとか、タバコよりも大気汚染の方が問題だとか、結局、肺気腫になってもタバコはやめなかった。それは意志の弱さかもしれないが、父はそのような弱さを見せようとせず、屁理屈で正当化した。

 父には、武司と晴男という、二人の弟がいた。両親が戦後、疎開先の田舎で、栄養失調に起因する病で立て続けに亡くなった後、父にとって弟たちの養育が重荷になった。父はすでに大学生で神戸に下宿して通っていたが、両親が亡くなってからも何とか卒業をしようと、親の財産をもとに学業を続けた。下の弟は13歳も離れていたから、親子のような感じでかわいがったし、小さいときから「山椒のように小粒でもピリッとしている」と思っていた。しかし、上の弟が気がかりだった。子供の頃から意思をはっきり言わなかったが、両親が疎開先の田舎でなくなっれから、ますます言葉を話さなくなり、行動も消極的になった。

 佐用には、父の叔母、私からみた大叔母がひとりで住んでいたが、そこに姫路の家族は疎開した。ある日、父が神戸から疎開先の佐用の家に帰った。闇市でタマネギやじゃがいも、明石のタコやイワシを買って帰ったが、叔母と役所に出かけた間、叔父は、勝手にタコとイワシを醤油で煮付けた。帰った父は、それを見て、「何で、勝手に作った。叔母さんに料理してもらうのに、下手な料理をして」と怒った。

 そういう父も叔父の料理が食べられないほどまずくはなかったと思った。とにかく勝手にしたことが気に入らなかった。叔父は父の怒りを「へー」と言って聞き流していた。叔母は「たけちゃんは料理がすきなんじゃろう」とわらっていた。父は、「男は料理なんかよりも、仕事や勉強が大事だ。勉強がいやなのなら、小学校を出て早く仕事につけ」と言い聞かせた。おじはそんなとき、いつも「へー」というだけだった。反応のない叔父にはらを立てて、「男はそんな優柔不断ではだめだ」と言った。それから下の弟の方を向いて、「晴夫みたいに元気を出せ」と付け加えた。そんなとき晴男は、「たけ兄ちゃんは、花や虫や動物の博士やで」と兄を立てたが、それは事実だった。ときどき、大学の先生のようにそんな知識をひけらかす武司が父は不愉快だった。

 祖父が佐用から姫路に出て、家業の文房具や造花店を努力して拡大した。父は祖父の期待を担って勉学し、商業大学に進学した。そのような努力を弟らにも求めていた。努力は欧米列強に対抗した日本の価値観でもあったから、父にすればそれが正しい生きる道であった。しかし叔父の武司はそれには無反応だった。正論には反抗するだけの気力がなかっただけでなく、叔父の生き方は、頑ななまでに努力しないことであるかのようだった。近所に風呂をもらいにいっても、挨拶をするのは弟に晴男で、健蔵はいつも弟の後ろに隠れて、ついて行くようなありさまだった。

 あるとき、神戸から疎開先の家に帰ったとき、冬の寒いなか叔父がコタツにこもって座っていたのを見て、怒りが爆発し、布団の下のコタツを取り出して、土間に投げつけた。焼き物のこたつは、土間で割れ、中から火のついた炭が飛び出した。それを叔父が見て驚いたが何もいわずにどこかに消えていった。父は、自分の考えに従わない叔父に苛立った。

 そのコタツを覆っていたアンカの上に、父が先日、神戸から出した叔父あての手紙があった。そこには、「もう両親はいない。これから将来の仕事をするのか、学校に行くにしても、仕事に就いてもよいが、どちらにしても、自分の意思で方針を決め、決まればその方向で頑張らなくてはならない。」というような内容が書かれていた。叔父は、その紙の裏に絵を描いていた。それは戦闘機同士の空中戦の様子だったが、黒と赤の鉛筆を使って漫画的に描いていた。当時は紙は貴重で白紙があれば子供なら絵を描いても不思議ではない。それを見た父は、怒りとともに、自分がこんなに一生懸命になっているのに、という諦めのような情けない気分になった。叔父は絵が得意だったのかもしれない。父の遺品の中にあった叔父の通知表をみれば成績も「甲」評定が多かった。そんな叔父を父は認めていなかったのだろうか。武司叔父は、正論を言う父を尊敬しても敬遠した。

 そんなある日、疎開先に帰った父は、大叔母が用意した雑炊の夕食後、叔父に説教めいたことを言った。叔父は黙って無反応に聞いていた。と、その後、父は「ブー」とおならをした。武司や晴夫の兄弟や大叔母は、いつものことだからと気にしなかった。しかし、そのときは、武司叔父が、すぐ「ブー」と、父のオナラに応えるように鳴らしたもんだから、晴夫が腹を抱えて笑い、父も笑いながら、「お前は屁だけは一人前だ」と言った。それは叔父が父にはじめて褒められた言葉だったのかもしれない。

 父はやる意欲のない叔父に、何か手に職をつけさせようと考えた。小学校の高等科を卒業後、洋服やに奉公に出した。仕事は真面目だったが、自転車も練習せず、他の奉公人に遅れる仕事ぶりで雇い主の不満があり、その後も同じようなことで仕事を変わった。父は結婚後も、叔父が気がかりで、その都度、転職先を探した。そのおかげで、最終的には神戸の洗い張りのクリーニング店で定着した。それは20歳のころだった。その後、武司叔父は、毎年、決まって盆と正月の2回、神戸の瓦煎餅を土産に持ってやってきた。母が、「たまには違ったものを土産にしてはどうなの」というと、その後は線香を持ってくるようになった。叔父は、大抵は1泊して映画に行き、あまり話さず、いつの間にか居なくなっていた。父と母のいる家に来ても落ち着かなかったのだろうか。僕が覚えている叔父は、いつも楽しそうにしたことはなく、聞かれたことは話す程度だった。父も、雇い主にはお中元とお歳暮はしていたが、ほとんど付き合いらしいものはなかったようである。阪神大震災後は復興住宅で一人暮らしだった。

 僕が父の葬儀に叔父を呼んだのは、父の兄弟だから当然であった。しかし叔父はお通夜から葬儀中も、ほどんど話さなかった。ともかく、元気で葬式に参加し、父の墓前で手をあわせるだけで、僕らは安心した。叔父を親族に紹介することもしなかったので、叔父を知らない親戚もあっただろうと思うが、父が叔父を無視していたので、それに習ったような感じだった。

 叔父の火葬の間、親族はいったん葬儀場に戻り、食事(精進落とし)をした。

 その後、骨上げに再度、葬儀場にいった。台車に乗せられたお骨は、一応、人間の骨の様子を残していたが、頭蓋骨以外は形が崩れていた。火葬場の担当者が、「ここは喉仏です。どうそ遺族の代表者がお取りください」と述べたので、すぐ近くにいた喪主の僕が長い箸でそれをつまみ、骨壷に入れた。

 そのときだった。静寂を破るように「ブー」という大きな音が響いた。一瞬、皆は何の音かと驚いたようだったが、誰1人言葉を発せず、沈黙の中、順にお骨は骨壺に納められた。

 その後、僕の自宅で親族が休憩した折、誰ともなくそのことが話題になった。「あれは、きっと武司おじさんやね」と誰かがいうと、証拠もないのにみんな同意した。6歳の孫が「あれはひい爺さんを元気にするラッパやんか。それを聞いて、ふと僕は思った。叔父は、冥土への元気づけにオナラをしたのだ。父はあの世へ行く途中にその音を聞いて、怒ったかもしれない。叔父はきっと「へー」といって無視しただろう。 

 その叔父も、今年、90歳でなくなった。きっと、あの世で、こんな会話をしているだろう。

 父は、「そんなにいつてもオナラができるとは大したものだ。どうやってそんな技を身につけたのだ?」「僕は兄さんの言うことに逆らうつもりはなかったけど努力はできなかった。せもいつでもオナラができるようになったのは、やはり努力したからかな。」

「好きなことだったら努力はできたのかもしれないな。」「好きなことを見つける気がなかったから、僕の責任やろうな。まあ、僕は無理しなかったから、長生きできたし、良かったと思っているよ。」「うーん。いろんな生き方があるってことかな」

あれ、あそこに誰か立っている。閻魔さんかな。すべて天にまかせよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青春の忘れ物

2021-04-02 15:07:02 | 小説

アルバイトや旅行、インターンシップ、フィールドワークなどであわただしく夏休が終わると、大学の後期がスタートする。そして学業に落ち着く暇もなく、大学祭のシーズンに入る。名古屋を中心にした中部地域でも多くの大学が10月から11月にかけて大学祭を開催する。

山際が大学祭の実行委員会に入ろうと思ったのは、2年生になって間もないころであった。クラブ活動を何もやっていないので、就職に有利になるということを聞いていたこともあるが、大学生活にも慣れてきた中で、何かしたいという、なんとなくあせりのような虚しさを感じていたからでもある。

しかし、新しいことに決断できない山際が、意外にそれほど迷わず決めたのは、朝倉という友人が新学期のオリエンテーションのとき、彼の横に座っていたからである。

山際は1年浪人したので、大学では朝倉が先輩になる。朝倉は2年から大学祭の実行委員をしていた。3年になった今年は、おそらく実行委員の中心になるので、助けがほしかったのである。それで高校時代の友人であった山際に声をかけたのである。

朝倉は何事にも気の多い友人であり、失敗もあったが、その積極性には山際も一目おいていた。高校時代からの付き合いもあり、山際も朝倉と一緒なら安心できた。誘いに乗ったのには、もうひとつの理由があった。朝倉が言った次の言葉がなければ、長丁場の大学祭準備へのモチベーションにならなかったかもしれない。

「おととし、高校の同級生の大西咲子が槇山女子大に入ったことは、君も覚えているよな。その彼女が昨年、槇山女子大の大学祭の実行委員をやっていた。」と山際の隣で言った。

彼女のことは忘れていたようで、山際の心のどこかにいつも引っかかっていた。朝倉の言葉は、山際の心を騒がせた。軽い動揺が実行委員への返事を遅らせた。山際が躊躇しているように思えたので、朝倉は帰り道、神宮前の喫茶店に山際を誘った。そして彼を説得しようと実行委員会の活動内容をできるだけ丁寧に話した。それは大体、次のようなことだった。

大学祭のテーマや主な内容、スケジュールは、大体5月の実行委員会で相談して決めることになるが、出演者を変えるか、同じでいくか、誰にするかということが重要な決めごとになる。例年、辛気臭い学術的な講演会やシンポジウム、ゼミナールの研究発表などは減らす方向にある。しかし模擬店はクラブの資金集めになるので活発になってきている。また、一部の教員はゼミの研究発表を重視するので、それを無視できない。要は、いつも同じようなパターンなのでたいしたことはない。如何に楽しいものにするかということだという。

ひととおり聞いた後、山際が、「大西咲子さんが昨年、槇山女子大の実行委員だということだったが、他の大学はあまり関係ないね」と言ったので、朝倉は、次のことを付け加えた。

それぞれの大学は毎年、開催時期をたとえば10月の第3週というように決めている。それは長年の慣行となっているが、それまで他大学との時期の調整が行われてきた結果である。しかし、どうしても開催日が同じ大学がでてくるのはやむを得ない。そこで如何に特色を出すかが、その大学の腕前となる。

つまり、大学間は大学祭の内容や集客については、ある意味ではライバル関係にあるが、実は時期の調整を考えたりする中で、定期的に交流し、お互いにいろんな協力を行うようになってきている。中部地域の大学同士の実行委員会は、6月ごろに調整会議を行うようになっている。開催のプログラム、出演者の手配、会場の設営、当日の運営などで情報を交換する。それだけでなく、お互いの大学祭当日にも、大学間で役割分担して、人員を派遣したりする。

最後に朝倉が言ったのは、昨年の大学祭の交流会が槇山女子大であり、そこで朝倉は咲子に会ったということだった。

朝倉は、「久しぶりに見た咲子は相変わらず綺麗だったよ。化粧をしてるので、その魅力がいっそう際立ってきたようだった。」と言った。

「彼女は高校時代、おとなしいが芯が強い女だと思っていたが」と山際が言うと、「そうだけど、いまでは口も回り、ますます行動的になっていた。」と朝倉は言った。

「大西さんは覚えているが、それで、君と彼女はまだ付き合っていたのかな」と山際はたずねた。

「もう付き合いは止めているよ。君も知っているじゃないか。」朝倉は、いまさら何を言うのかと、不愉快そうに応えた。

山際は、朝倉と咲子の位置関係を確かめったかったのである。確かめたところで、どうこうする気はない。彼女と直接どうこうするということは山際にとってハードルが高すぎると思っていた。しかし咲子への関心は、彼自身が自覚している。

「もう高校3年のころから、なにかぎくしゃくして、3年の2学期頃からなんとなくコミュニケーションがスムーズにいかなくなってね。彼女にすれば受験のほうが大事だったのだろう。成績も我々よりよかったし、名門女子大に行くには付き合いは煩わしかったのだろうな。」と朝倉が言うと、「ふうーん」と山際はしばらく沈黙した。

「だいたい、我々と彼女とは身分が違う。それは最初から感じていたものだが。何しろ彼女の親は自動車会社の偉いさんらしいし、兄はIT企業のエリートらしいから。時流に乗っている家族ってとこかな」と、朝倉は彼女との交際をやめたことを正当化するように、言葉をつづけた。

我々というのは、自分にもあてはまることだが、と山際は思った。

「そんなことは、身分というほどのたいしたことではないだろう。もと皇族とか大名の家柄ならともかく、ただのサラリーマン家庭だし。大西さんは以前から尊大ではなかった。それに家族と大西さんは別人だし、関係ないと思うけど。」と山際は言った。そしてふと、朝倉が自分を無意識に牽制しているのでは、と思った。

山際にとって朝倉は親友なので、2人のいきさつの大体のことは知っていた。しかし、微妙な男女関係の経緯や心理状態は親友であってもわかりにくいものである。特に1年先に大学生になった朝倉との付き合いは、最近は少なくなっていたのでなおさらだった。

「大西さんは今年も槇山女子大の実行委員をするつもりかどうかわからないな。」と、

山際はつとめて事務的に聞いてみた。

「今年もおそらくやるだろう。2年間は絶対にすると思うよ。もう僕には関係ないけどね。」朝倉は言った。山際は、親友でもある朝倉と女性関係でもつれることはさけなければならない、少なくとも実行委員のメンバーになるには、と思った。

 

 朝倉と咲子は高校1年生から同じクラスだった。その上、クラブも同じ美術部だったので、おのずから交際が始まった。そのような中で、何か口実があればお互いの家を行き来する仲になっていた。しかし、親密な関係になることは咲子がさけていた。おそらく、彼女の理性がそうさせた。理性とは高校生としての節度、親の意向への配慮もあったかもしれないが、むしろ咲子の朝倉に対する感情と、それに沿った彼女の意識が理性としてそうさせたのと言った方が正確であろう。

そのような彼女の態度に、朝倉はいつも一抹の不満と将来への不安をもっていた。昨今の高校生の交際なら、ある程度の肉体的な交渉はできると思っていた。しかし、せいぜい手をつなぐ程度だった。それは、外部に交際をアピールする宣伝になったかもしれないが、張り子の虎のように見せかけのものだと思い、欲求不満であった。彼の不満や不安は、彼をあせらせた。しかし咲子は応じなかった。彼はそのような不満を普段は彼女に言わなかった。もともと陽気だったためであるが、強いて明るく付き合った。そんな明るさを咲子は気に入っていたので、付き合うことは嫌ではなかった。

しかしあるとき朝倉は、控え目であったがそのような不満をまとめてメールで書いたことがあった。咲子はそんなことをあえて言いだした朝倉を不愉快に思った。裏切られたように思った。咲子は、もう付き合いに疲れてきたので、それならやめたいという、つれないものだった。朝倉は逆に焦ってそれを修復しようとした。

朝倉は咲子を頻繁に遊びに誘った。それはボーリングやカラオケなどの近場のものもあったが、咲子はしばらくするといつも退屈そうにした。そこで、名古屋市内の動物園や美術館、青少年科学館などにも行った。咲子は知的なことは芸術的なことには関心があったので、それが好きなように見えた。しかしどちらかと言えば、動物園でもジェットコースターや観覧車のほか、いろんな仕掛けのある乗り物がことのほか気に行っていたようであった。そこでは、咲子は思いっきり楽しそうにふるまっていたからである。

そこで、朝倉は夜行バスでのディズニーランドや大阪のUSJにも誘った。彼女はもちろん賛成したが、交通費はともかく、乗り物はもっぱら朝倉が負担したので、朝倉のこづかいでは大変だった。そのような努力でも交際が深まったわけではなく、それ以上の行為には、気後れして手が出せなかった。結局のところそれらは上滑りして、朝倉には徒労のように思えてきた。朝倉はだんだん付き合いの疲れを感じるようになっていった。

山際が朝倉と付き合うようになったのは、高校2年生で同じクラスになったからである。単に席が近かったので話すようになったのだが、よくしゃべる朝倉とややおとなしい、一見内向的な山際は、なぜかうまくいった。

高校2年は大学受験にはまだ時間があり、比較的自由に高校生活を謳歌できるときだった。そんな時期の友人として、朝倉は山際にとって世間の窓口のようだった。朝倉は、遊びや友人などいろんなところへ山際を紹介してくれたからである。その中に咲子との出会いもあった。

山際が朝倉や咲子と知り合いになったのは、山際と咲子のそのような、やや交際が沈滞化してきた2年生の11月ごろだった。咲子が誕生会を自宅でするというので、朝倉が山際を誘ったのである。

咲子の自宅に行く前に、プレゼントを買うため2人は文房具店や雑貨店、家電専門店などを回った。朝倉はいつもの楽天的な様子とは異なり、彼女のプレゼントに神経質なほど慎重になり、迷ったことに山際は不思議に思った。当時の微妙な関係を反映していたためであったが、山際はそのようなことは知らなかった。

雑貨店で、朝倉は、猫のぬいぐるみを買いたがった。バイブレーターのように振動する、肩こりに効くという代物だったが、山際はそれは幼稚だと反対した。その代わりに適当に、近くにあった、真珠のついたペンダントがいいと勧めた。考えるのが面倒くさくなった朝倉は、それに従った。山際は実用的で目立たないものがいいと思い、USBをプレゼントにした。

誕生会はクラスや美術部の数人が集まり、こじんまりとしていたが、会話がはずみ、トランプやカラオケなどで楽しかった。

咲子はペンダントが気に入ったようであった。朝倉は「実はそれは山際が選んでくれた。ほんとうは猫のぬいぐるみをプレゼントしたかったのだけど」と余計なことを言ってしまった。咲子は笑った。

「ぬいぐるみは朝倉君らしいね。でももうすぐ大学生だし、ペンダントでよかったわ。」と言った。朝倉は結果的によかったという安堵もあったが、反面、彼女に対する気持ちが否定されたような感じがした。

それから2週間ほどした秋も深まるころ、山際は朝倉にハイキングを提案した。2年生の最後の思い出、ひょっとして高校生活の最後の思い出になるかも知れないと思ったからである。それはいつになく山際が率先したことであったが、山歩きが趣味であった山際がリーダーシップを発揮できる、わずかな領分であった。そのため、行き先も経験のある山際が考え、鈴鹿山脈の御在所岳に行くことにした。そこは名古屋から比較的近くにある千メートル以上の山として、手ごろだったからであり、コースの取り方によっては、急峻な岩場もあり、高山的な雰囲気もあったからだった。

朝が早いので湯の山温泉に前泊することにした。ところが、朝倉は咲子も誘ってみようと言いだした。彼女との関係を修復するためには、とにかくいろんな口実を探していたのである。山際はそれが朝倉への協力になるのなら、友人として構わないと思った。

「しかし、咲子さんがOKするかな。」と山際が懸念した。

「それは賭けかもしれないが、人生はギャンブルの継続。まあ賭けてみるよ。」と、朝倉らしく応えた。

実は、朝倉は咲子が断ると思っていた。親が許すかどうかということはともかく、彼女が受け入れると思う自信が、最近の朝倉にはなかった。が、意外に咲子がすんなり賛成して、3人で行くことになった。

咲子にとって山や温泉はいつもの学園生活を脱却できるので、気晴らしになると思ったのである。女子の友人同士では、そんな機会はあまり考えられなかったし、男子学生は安心できないかもしれないが、3人ということもあった。少なくとも彼ら2人は信頼できたからである。そのうえ山際がいるのでなんとなく新鮮な感じがしていたし、朝倉との交際が、これから幾分変化するきっかけになることを期待した面もあった。

湯の山温泉までの私鉄は、のどかな田園の中を走った。いつになく咲子ははしゃいでいた。リュックから出したスナック菓子を2人に与えたり、朝倉と楽しそうに高校の教師の批判やクラスメイトの噂話をした。その話す勢いで、手が朝倉の手や肩に触れたりした。朝倉は咲子の屈託のない態度に、久しぶりに心が晴れるのを感じて、嬉しそうだった。

話題が一段落すると、咲子は最近のドラマのテーマソングを軽く口ずさみながら、迫りくる山並みを眺めたりしていた。

そのような2人を眺めながら、山際は、ひょっとすればこの計画が自分は2人のためになったのかな、と嬉しくもあったし、反面ばからしい気分もあった。

旅館は山の斜面を切り開いた道路に面した3階建のひなびたものだったが、学生の身分では、贅沢なぐらいであった。内湯もあり、10畳の部屋の窓からは、鈴鹿山脈の大きな山肌が迫って見えた。

 非日常的な経験は、若い生命を開放的にする。

夕食までの時間があったので、3人は温泉の大浴場に入った。混浴ではないが、若い男女の体力がそれぞれの肉体に熱気をみなぎらせて、それを色づかせた。

 湯につかりながら、朝倉は隣の山際に「きょうはいい日になりそうだな。」と言った。

「高校生活の記念になるといいな。」と山際は応じた。

「なんの記念?」と朝倉。

「それはわからないけど、咲子さん次第かな」と山際は朝倉を応援するつもりで言った。

夕食は食堂で他の家族連れなどと一緒だった。

「こんな日は、ビールで乾杯しよう」と朝倉が缶ビールの大を3本買ってきた。

「高校生だとわからないかな。」咲子が不安そうにいった。結局、「わかってもいいじゃないか」という朝倉に従った。

咲子の浴衣の胸から、桜色した肌が見える。それを朝倉も山際もちらちら見ながら、飲食を楽しんだ。

 「そうだ、美術部の卒業作品を来年描くとき、咲ちゃん、モデルになってくれない?」朝倉は酔いにまかせて、いつもの陽気さを飛躍させて言った。

「えっモデル。それは来年になってから考えてもいいけど。もちろん服を着てね。」咲子は少し顔を赤らめた。

「もちろん。では期待してます。」と、まじめそうに朝倉が言った。

実はヌードを想定していたが、咲子に多少の酔いはあっても、やはりそれは了解しないであろうと朝倉は思った。しかしそのような冗談めいたやりとりは、3人の心を開放していくようだった。

夕食をゆっくり楽しんだ後、3人は部屋に帰って、普段のまじめさに戻った。

山際は2人に、「御在所を登るには主に3つのコースがあるけど、どのコースにする?」と地図を示して尋ねた。御在所岳山頂へは、「一の谷登山道」、「表登山道」、「中登山道」と主に3つのルートがある。しかし、実は第4のルートとしてロープウェーもある。

朝倉は地図を指で示しながら、「ここにロープウェーもあるが、それはどうかな。」と冗談めかして言った。

「それは論外」と山際は応えた。

「しかし、頂上が目的なら、それの方が楽でいいのじゃないかな。」と朝倉。

「それはだめ、何のために山登りに来たのかわからないわ」と咲子が言った。

「頂上に着けば同じだろう」と朝倉は言ったが、即座に咲子が返した。「それは違うわ。登山のだいご味は汗をかいたり、危険なところを登ったりするところにあるのよ。そうでなければ、いい景色を眺めて感動したり、頂上に立って感激しないと思う。」

「わかった。冗談冗談。山際、君に任せるよ」と朝倉が引いた。

「面白い変化があるコースにしましょう。」と咲子が言ったので、山際は岩場もある程度ある真中の「中登山道」を選ぶことにした。

 明日の登山に備えて早く寝ようと、畳の部屋で早い目に布団を敷くことになった。

 「私、真中でいいわ」と咲子が言った。大胆な提案だった。しかしそれは、朝倉を牽制する方法としていいと思ったからである。もし朝倉が真中なら、咲子はその隣になり、山際の目の届かないところで何かされると困ると思った。朝倉が端なら、山際が咲子の隣になり、それは朝倉に悪いということも含んでいた。

「子供のとき、川の字で寝るのが一番安心して寝れる方法だったのよ」と咲子が言った。

「ではそうしよう。」と男たちは賛同した。

咲子はすぐに眠ってしまったようだった。朝倉はしかし、咲子の隣でなんともできない自分を持て余して、眠れそうになかった。山際が眠ったのかどうか分からずに、ふと思い付きのように咲子の顔を覗き込んで、その閉じた唇に口づけをしようとした。触れるかどうかわからない程度だったが、咲子は眠っていて知らないようだった。

 咲子が幾度か寝返りをうったとき、その白い足が布団から山際の方にはみ出してきたのに山際は気づいた。山際はそのとき、自分の体の芯が熱くなるのを感じた。そして、何を思ったのか、ためらいながらもそっと咲子の足に手を伸ばした。そして、大腿のあたりから上を撫でるように触った。

咲子は、「うっ」というようなわずかな音を発して、足をよじった。そのとき、なんともしれない、強いて言えばチーズのような香りがした。それがどこから流れてくるのか、何か記憶があるような香りだったが、彼はわからなかった。彼は変な気分になった。

山際は、そのような大胆な行為を自分が犯した罪を感じて、たじろいだ。そのあと、なかなか眠れなかった。

 あくる日の朝、咲子は何ごともなかったように起きた。「おはよう!」と2人はそれぞれが昨夜の記憶を忘れようと、強いて平静に彼女に接した。

 

岩場にはところどころ鎖が設置されている。急な斜面を滑るように下りたり、岩を巻くように登ったりした。そのコースの途中、2つの長い柱のような岩に四角い岩が乗っかるようにして挟まっているものがあった。

「これが地蔵岩」と山際は指さした。それを見て「自然は面白い造形をつくるな」と朝倉が感心したように見上げて言った。

「私らの美術作品にないような迫力があるわ。」と咲子。

「自然が作ったものには意味はない。人間が意味づけしているだけだよ。人間の価値観や美的感覚を反映しているだけ」と山際が言うと、「犬や昆虫や動物には、岩の形をみてもなんとも思わないだろうな」と朝倉らしい解説をする。

「あら、哲学的なことを言うのね」と咲子が言う。

「でも、長い年月に水中から隆起したり、褶曲したりして鈴鹿山脈ができたということは、自然現象だとしても我々人間にとって想像できないな。」と朝倉が言うと、「でも、鈴鹿山脈が今の姿になって百万年ぐらいしかたっていないらしいよ。」と山際。

「日本列島なんかせいぜい1億年以下でできている。大陸でも2億年、それ以前に地球はいろんな変化があったと地学でならったね」朝倉が続けた。

「46億年以上の歴史。自然の変化に何かの意志があるとすれば、神としか言いようない」と山際が言う。

「神に意図はないと、倫理の先生が言っていたな。神はルールを作って、あとは自然に任せているって。神様も細かいことを考える暇はないからかな。」と朝倉が続けた。

「そのルールは数式であらわされるということかな。自然科学的には」と山際。

咲子は、笑って「宗教や哲学めいた何かまじめな話ね。数学まで来そうだわ。勉強はわすれましょうよ。何か無理しているの?」と言った。

ふと昨夜の行為を男らは思い出した。彼女への昨夜の負債をそれぞれ意識して黙り込んだ。

咲子は思ったよりタフだった。岩場もかなりあったが、予定どおりの時間に頂上に着いた。

山頂は、それまでの急峻な山道と打って変わって、広々した空間だった。ロープウェーから降りた客も合わさって、町のような賑やかな雰囲気を醸し出していた。おまけに1等三角点が登山者を見下すかのように偉そうに立っている。

頂上からは、西に遠く比良山地の山なみ、北には養老山地の山なみが見える。いずれも1千メートルを超える山脈である。そのような遠くから、風が絶え間なく吹き通っていた。

昼食の弁当を食べながら、「咲ちゃんは山登りも好きだったの?」と朝倉が聞いた。

「そうよ。子供のころ、家族でよく行ったわ。だいたい朝倉君は私を普通の女の子のように見て、ほんとうの私をよく見ていないわ」と答えた。朝倉は意識のずれの原因を指摘されたように思った。

「でも結構遊びも楽しんでいるんじゃないの」と不満げに朝倉が言った。

「もちろん遊びは好きよ。でも楽しいだけじゃ、それだけで終わり」と咲子。

朝倉は、今朝の登山コースを選んだときのことを思い出した。そして、ふと、咲子は山際を意識して、そんなことを言っているのかな、という疑念をもったが、それはすぐ山頂の風とともに吹き飛んで行った。

このときの御在所登山は、3人にかけがえのない思い出となった。それから3人で出かけることはなかったし、朝倉と咲子も3年生になってあまり会わなくなっていったからである。

 

高台にある大学は、神宮前の駅から歩いて10分程度のところにあった。学部が3つのこじんまりした大学であったが、専門性の高い教育をしていたので、愛知県内でも一定の評価があった。大学は芝生が広く校舎はその周りに点在していた。正門から入るとそれほど広くない通路に桜やケヤキの並木があった。

桜のシーズンが終わると、ケヤキ並木の新緑がトンネルを作って、その下を緑風が流れるような快い季節を迎える。そんな1年間で最も美しいかもしれない5月、大学祭の実行委員会が開かれた。

朝倉は実行委員会の副委員長に選ばれた。副委員長の重要な任務は、大学祭の内容の計画とスケジュールの策定である。毎年、大体のパターンを引きつくので、大まかな構成は決まっているが、出演者はもちろん変えなければならない。それと、その年だけの魅力あるプログラムを考えることも必要だった。

朝倉は、山際をアシスタントにした。3年生と2年生という上下関係があるといっても、高校の同級生の友人同士は、気兼ねなく対等に相談や議論できるので都合がよいと思ったからである。

会議のあと、学生会館の広いロビーの片隅の椅子にすわって、朝倉は大学祭への意気込みを山際に伝えた。

「君にしてはずいぶんまじめに取り組んでいるのだね」山際がひやかすと、「それは仕方ないだろう。大役を与えられた以上、うまく行くように考えないと。」と朝倉がまじめそうに言った。

「ところで、今年は、昨年よりも楽しいものにしたいのだが、それにはどんなアトラクションが大切かな。お笑いタレントは、是非いいものを招きたい。女装のおかまもいいな。そのほか何かこれといったいいアイデアはないかな」と朝倉が尋ねた。

「僕は始めてだから、よくわからないけど、お笑いタレントは大学祭に必要かな。おかまの演技も大学にふさわしいのかな。」と山際は考えるように、やや遠慮がちに疑問を言った。

朝倉はそのような反対意見を、まじめに受け止めることが大事と思った。

「そういえば、そうかな。一般学生が楽しんで人気がいいのだけど、お金をかける割に学生の評判は悪いし。マンネリになっているからかな。一般学生は勝手なものだな。」と言った。

山際は「でもやはり、いつものアトラクションはいるだろうね。それと大学らしいシンポジウムは絶対不可欠だろうね。」と言った。

「そこが問題。シンポジウムは参加学生が少ない。テーマやパネリストの工夫がいるだろうしね。」と朝倉は言いつつ、ふとそこに自分なりの工夫として、全体を通した大学祭のコンセプトが必要だと思った。そして、そのコンセプトの目玉こそが、シンポジウムになる。つまり、全体をひとつのトーンでまとめるということだ、と朝倉は思った。

「そうだ、いつもはテーマを適当に考えているけど、それとあまり関係ないプログラムを作って、学生集めばかり考えているのが問題だな。」と朝倉。

「では、お笑いタレントもその観点で選ぶのかな」と山際。

「それは無理かな。タレントは客寄せだから、コンセプトにはこだわらないよ。しかし、あれは一番お金を食うから、要検討かな。自分的には、シンポジウムをいいものにしたいから。」

そう言って、ふと朝倉は思いついたように、「君は考えるのが得意だろうから、コンセプトを考えてくれないかな。それをもとにテーマのフレーズを決めよう。」と山際に頼んだ。

そのとき、ふと、開幕を盛り上げるのも新しいものがいるのでは、と山際は思った。山際は、オーケストラをやろうと提案した。朝倉は、それは無理だろうと応えた。「つまり、本学にオーケストラはないし、まさか名古屋交響楽団のようなプロを呼ぶのではないだろうな」それは予算上、不可能であることはわかっている。

「それと、シンポジウムとクラシックをコンセプトでつなぐことはできるかな。無理をすることはない。予算と相談だから」と意見を言った。朝倉は、そんなものに予算を食われると、シンポに使う分がますます減ると困ると思ったからである。

そのとき、他の大学のオーケストラを呼ぶということを山際は思いついた。

「それなら予算もあまり要らないし。せいぜい謝礼程度で、つまり30万円ほどで来てくれないかな」と山際は言った。

「うーん、できるかも。どこの大学が引き受けるかどうかだな。総合大学でないと、オケを持っていないし。」と朝倉が言うと、「君が1年先輩だから、そこはどこか選んでくれないかな。交渉は僕がやるとしても」と山際が頼んだ。

「それと、シンポとコンサートはひとつのコンセプトでつなげると思うよ。そこがクラシックのいいところだ。たとえば、ベートーベンの運命や田園、第9などは、イメージができるので、そのようなシンポにあわせられる。ベルディの椿姫、プッチーニのマダムバタフライも、コンセプトを恋愛や人間の感情をテーマにすればつながる。」と山際が言う。「なるほど、では、まず何をコンセプトにするかということが先決ということかな」と、朝倉は、先ほどの話に戻した。

数日後、第2回目の実行委員会が開かれたとき、朝倉は山際とのこのようなやりとりを要約したうえで、いつもと違う点として、コンセプトを重視し、そこからテーマと内容を考えるという方向を述べた。委員長の田岡もそのほかのメンバーも了解した。

委員長の田岡は、細身のスマートな感じで貫録はないが、あまり発言しないので、何を考えているのかわからない男であった。ただポイントは突いてくるので、みんなが信頼していたし、それだけに発言に威圧感もあった。田岡は、朝倉の話を聞いてから、「それなら、一度、槇山女子大に行ってみようか。女子大は内容をまじめに考えてから全体を計画しているから、きっと参考になると思う。一度話をしておくので、日が決まれば連絡するよ」と言った。

朝倉らもそれに異論はなかった。ただ、話が大きくなるな、と朝倉はやや重荷に感じた。そして、誰に連絡するのかな、親しい女性でもいるのかな、思ったとき、朝倉はふと咲子を思い出した。

 数日後、2人は田岡とともに槇山女子大の正門で受付をした。そこから眺めるキャンパスは女子大らしく、すべてが華麗で清潔感があり、緑がキャンパスにあふれていた。まっすぐに伸びたメイン道路の両側にケヤキ並木が連なり、整然と校舎が並んでいる。その先の勾配のある舗装道路を登って行くと、校舎の一番奥のつき当たりにガラス張りのクラブハウスがあった。大学祭実行委員会の部屋は、そこの部室のひとつがあてがわれていた。

ドアを入ると、同じく3人の女学生が彼らを待ち受けていた。その中に大西咲子がいるのを朝倉と山際はすぐに見つけた。朝倉は昨年の大学祭で彼女を見かけていたので驚かなかった。山際は彼女を見たとき、驚くよりもずいぶん懐かしい感じがした。

一応、初対面のような挨拶を交わしたが、座って雑談を始めると、直ぐに高校時代の思い出話になった。それを見た田岡は、「君ら知り合いだったのか」と驚いたようであった。それとともに、咲子が彼らと楽しそうに話すことに、自分の領域が犯されるような不愉快さを感じた。が、「それなら、話は早い。」と直ぐ取り繕って、本題に入った。

 咲子は、高校時代の面影はあったが、化粧をして大人びていたことはもちろん、実行委員として2年目で、すでに大学祭を取り仕切っているように見えた。それもそのはずで、実行委員長になっていたからである。

 話を一応聞いてから咲子は、「では、とりあえず、本学の昨年のテーマと全体計画を説明するわ」と言って、概略を説明した。テーマがコンセプトを反映して作られ、全体計画はその柱に位置付けられて、体系化されている。その様子は、女学生らしいまじめさと、論理的な思考が合わさっていたように思えた。

 「だれが中心になって考えたの?」と朝倉が聞いた。

「まあ、たたき台のようなものは私が考えたけど、昨年は2年生だったので、3年生の委員長がいろいろ検討して、うまくやってくれたのよ」と咲子が誇らしげに言った。

大学によってこれまでの方法があると思うので、それを否定しないことが大事だとも付け加えた。ただ、こういうものは、だれかが中心になって一人でまず考えて、それをたたき台にして周知を集め検討することがいいと、咲子はアドバイスした。

 「それは、山際君にお願いしている」と勝手に朝倉は言った。先日の経緯からして、そうなるのかな、と山際はある程度納得していたので、あえて反対しなかったし、そのような場で見苦しいことはできなかった。それに、昨年は2年の咲子が考えたことを、同じ2年のしかも同い年の山際ができないとは言えなかったであろう。

しかし田岡が了解してくれるか、朝倉は田岡を見た。田岡はうなずいていた。副委員長の朝倉に任せるつもりだったので、誰が考えてもよかったのである。

 最後に、咲子は「昨年の実行委員会の記録があるから、それを山際君にお貸しするわ。大学によって方法は違うけど、参考にはなるかもね」と言って山際の表情を眺めた。

3人は彼女の親切に対して礼をいって、提案をありがたく受け入れた。

その後は、大学祭の内容の話になったが、槇山女子大では、お笑い芸人を呼ぶようなあからさまな客寄せはしていないようだった。

「大学祭は遊びとしても、やはり大学にふさわしいアカデミックな雰囲気が大事だから。」と咲子は言った。

朝倉は、高校時代の彼女が乗り物を好んだことからみると、ずいぶん成長したと思った。ただ、深く考えれば共通している面があった。それは変化を好み、それを具体化する行動的なところだった。それがいつも彼女の底辺を支えていたアイデンティティだったのだが、そこまでは気付かなかった。

「では、アトラクション的なものは、どんな行事」と朝倉が聞いた。

「そうね、コンサートかな」と咲子が言ったとき、山際は自分が提案していたオーケストラのアイデアと共鳴したように感じた。しかしムニバスコンサートと名付けられたその内容は、学生バンドによるジャスやポップス、オカリナ演奏などの軽音楽や、有名な歌曲、昭和歌謡などの比較的軽いものだった。山際は、「テーマとそれらの行事へのプロセスを詳しく教えてもらえないだろうか」と咲子に尋ねた。

「議事録で大体のことがわかると思うけど、説明した方が早いかもね。」と咲子は言った。そして、帰り際に咲子は、山際君に実行委員会の記録を説明したいので、後で2人で話し

をしたいと、田岡に了解を求めた。

田岡はやや不満げだった。彼女を誘って名古屋の街を4人で、できれば2人で飲みに行こうという魂胆だった。田岡は体が細い割に度量があることを態度で示したかったので、それに反対するような了見の狭い反応はしなかった。「それは必要だろう。大西さん、山際君に懇切丁寧にお願いするよ」と言った。

いっぽう、朝倉は高校時代の御在所岳登山を思い出した。あのとき少しのきっかけがあれば、山際と彼女の交際が始まったかも知れないと思っていた。朝倉が意図的にきっかけを作らなかったことはなかったので、自分を責めなくてすんでいた。その後、きっかけらしいものができなかったことは幸いだった。朝倉は、もはや彼女を独占する資格はないと思っていた。しかし、自分に関係ないと思っても、これが山際と咲子の新たな交際のきっかけとなるかもしれないと思えば、気がかりにならないとはいえなかっただろう。

朝倉の頭を占領し始めたもうひとつの疑念は、それ以上に深刻だった。それは、田岡と咲子が何か関係があるのではないかということである。田岡と咲子に何かあるのなら、山際がそこに割込むと、ややこしくなって大学祭の進行にも影響するかもしれない。帰りの電車で隣にいた田岡との会話が途切れると、朝倉の頭をそんなことが占領し始めた。そして、それが取り越し苦労ならいいが、と思った。

 

山際と咲子は、地下鉄で金山の近くの串カツの店にいった。そこは女子大生が行くような店でなく、サラリーマンや学生がよく行く店であった。チェーン店なので、山際も大学近くの店に行ったことがある。咲子は昔なじみの山際とフランクに話すのにふさわしい店をと、彼を案内したのである。

2人はカウンターの隅のコーナーに並んで座った。ビールを飲みながら、昨年の大学祭の資料を見せ、そのコンセプトがどのようにして会議で決まったのか、そしてテーマの設定、主な行事、アトラクション的な行事、それらの関連の概略を一応説明したが、おざなりなものだった。山際もそれほど真剣には聞いていなかった。疲れていたし、堅い話は飲み屋の雰囲気には合わなかったからでもあった。

「資料を読んでみて、また参考になればいいし、それでわからないことがあれば聞いてよ」と言って、咲子は説明をやめた。

そのあと、身の上話になった。咲子は山際に大学生活のことを質問した。1年浪人していたので、彼女の知らないその間の苦労にも興味があった。

ビールや焼酎、水割りなどをチャンポンで飲んでいると、酔いで山際の視界が狭くなり、隣の咲子に女性を意識するようになってくるのは、やむをえないことであった。

咲子は酒が比較的強い方だったが、だんだん酔いが回ってくるのを感じた。そうしていると、だんだん山際に対して、高校からの感情が高まってくるのを感じていた。むしろ彼を誘ったことの本当のわけは、高校時代に忘れていたものを取り戻すためであることを、心の片隅で自覚していた。

咲子は時を見計らって、「私ね。あの田岡さんと昨年からたびたび会っているのよ。」と告白めいて言った。

山際は、朝倉と同様、それを想像していないわけではなかったので、彼女の言葉にある程度驚いたが、それほどショックではなかった。ただ、なぜいま自分に告白したのか、疑問に思った。

「つまり、つき合っているということ?どの程度」と山際が聞くと、咲子は「まあつきあっていることになるわね。程度は想像にお任せするけど、精神的にはそれほどではないのよ」と応えた。それなら精神以外の面では深いのか、と思わざるをえないような言葉だった。山際は咲子とつきあってもいないし、恋愛感情は持っていないはずだから、それに対して別に嫉妬することはないと思った。

しかし、しばらくして、カウンターの隣の彼女が、その太ももを彼に押し付けるようにしてきたため、彼の体の芯が熱くなってくるのを、どうしようもなかった。彼は少しおののいたが、酔いも手伝って、そっと左手を咲子の太ももに置いた。そして、ためらいながらも、自然にまかせるように手のひらで少し撫でるようにした。彼女はそれを咎めたり、手で除いたりするようなことはなかった。彼のされるままに任せていた。

しばらく後、咲子は微笑んで彼を見返すと、おもむろに咲子は言った。

「わたし、朝倉君に悪いと思ったので、山際君とは親しくなれなかったのだけど、ほんとうはあの頃からあなたのことは興味があったのよ。」

山際は少し驚いた。「そうだとしても、僕は君とつき合っている朝倉君を裏切ることはできなかっただろうし、知らなくてそれでよかったと思うよ」と言うのがせいいっぱいだった。

山際は彼女の気持ちを知った以上、彼女に対する感情が高ぶってくることをどうしようもできなかった。大学祭を機会にして、こうして咲子と行動できることは、運命のような感じすらしたのであった。田岡や朝倉の表情が思い浮かんだ。それは彼の前途に掛る試練かもしれなかった。しかし、女に対するとき、男の利己的な側面は同じだ、それを非難される筋合いはないと思った山際は、彼女をいま独占しているということに、どうしようもない高揚感を感じていた。

しかし、ここでこうして話していることが、なんとなく危険なように思った。

「大西さんありがとう。」と、あえて名字で言うと、「今日のところはこれでおしまいにしない。いまの君の言葉はありがたいけど、少し飲んでいるからね。気持ちはまた変わるかもしれないし。」というと、「まあ、失礼ね。こんなことを私に言わせて、逃げるの」「いやそういう意味ではないよ。もう遅いから。じゃ、今度、日を変えてゆっくり会わない?それまで、資料を読んで質問などをまとめておくから」と、理性を取り戻した山際は、酔いにまけないように律儀な口調で言った。

都会の光と影の交わりのなかで、歩行者は影絵のようにアイデンティティを失う。帰り道、咲子は山際と腕を組みながら、体を預けるようにしてきた。

「酔っているみたいだね」と山際は努めて冷静に言ったが、酔っているのは彼も同じだった。欲望や感情が理性を上まわっていくのをどうしようもなかった。

ビルの横の空き地に彼女を連れていくようにした後、山際は咲子に唇を重ねた。彼女は少し口を開いて舌に触れてきた。

いまの山際には、そのような行為重荷にはならないようだった。

そのときだった。チーズのような香りがした。彼のハッとした。あの湯の山温泉の宿で匂ったものを思い出し、同じだと思った。

山際は自宅に帰って、自分の部屋で寝転ぶと、天井がぐるぐる回っているように思った。それは彼の頭の中も同様だった。咲子、朝倉、田岡が表れて、彼の脳裏を駆け巡った。

酔いがさめると、今日の行為がだんだん重荷になってきた。咲子はどうしてあんなに急いでいたのだろう、という疑問がもたげてきた。それに、あのなんともいえぬ香りのありかが、彼女のものだったのだということが、彼女の彼に対する過去と現在をつなぐリアルな感覚をもたらした。

それらは彼の心だけでなく身体をも刺激するようだった。

 

翌週、実行委員会の会合があった。それまで、山際は朝倉や田岡と会うことをさけていた。講義中も席が隣にならないようにした。咲子との関係において、彼らを無視できないことは、彼の心にずっしりと重くかかっていた。

実行委員会では、コンセプトをどうするかということが議題になった。山際は、それまでいろいろ考えた結果、「アイデンティティ」というのはどうだろう、と提案した。その日の朝それを朝倉に言ったとき、「少し難しいのではないか」と彼は言い、とにかく会議で皆の意見を聞こうということになったのだった。

会議でその意味と理由を聞かれた山際は、「青年期のアイデンティティの喪失は昔から言われてきたが、最近、性同一性障害、つまり男性や女性というアイデンティティが身体と心で違うことや、日本人のアイデンティティの喪失など、いろいろ話題になっている。」と、社会背景を理由にあげた。しかし、その意味はうまく説明できなかった。

辞書をみると「存在の根拠」とか、「環境や時間の変化にかかわらず連続する自己同一性」などと表現されていると言うと、田岡が「だいたい同一性という意味がわからないな。もう少しぴんとくる表現はないかな。テーマがアイデンティティでは難しすぎる。」と言って反対した。

山際は、先日の組織論の講義の中で、滝山信夫教授が言ったことを思い出した。それは「アイデンティティとは、自分らしさである。しかし、個性ではない。その人や地域をその人らしくしているもの、つまりその人を支えている土台のようなものだ。」ということだった。「性別意識、日本人という意識、職業意識などの意識がそれだが、それが最近曖昧になっているので、不安感や精神疾患が増えてきている。人間の意識は、何か明確なものと一体化することで安定する。何かへの帰属がはっきりしていないことが、アイデンティティの喪失をもたらす。世界的な交流によって変化の大きい時代、あるいは未成熟な青年期では、アイデンティティがあいまいになる。」講義でそんな話があったことを、山際は思い出しながら、とつとつと述べた。

田岡は、「その人らしさが、その人のアイデンティティ、その地域らしさがその地域のアイデンティティ、そして名古屋のアイデンティティ、本学のアイデンティティというのならわかるかな」と納得したように言った。

委員のひとりが、「アイデンティティはグローバル化に対するもので、日本人がわれわれを見直すという意味で、時代を示す重要な言葉ではないかな」と応援した。

朝倉は、自分のことを考えていた。自分に明確なアイデンティティがないように思えてきて、咲子との交際もそれでうまくいかなかったのかな、となんとなく自分流に理解した。

そんなな流れで、皆がなんとかアイデンティティをコンセプトにすることに賛成した。

田岡はおもむろに、「では、そこから具体的なテーマと計画づくりが必要になる。今月中に朝倉君と山際君、頼むよ」と、強いて大物らしく、任せるような態度で言った。そして、山際の方を向いて「先日の槇山女子大の委員長とは、あれから何か進展したのかな」と聞いた。

山際はドキッとした。しかし、田岡が公的な会議の場で、個人的なことを聞くはずはないと思いなおした。先日の咲子の話の概略を説明し、それを参考にしてテーマとプログラムを考えるつもりであることを述べた。

朝倉は、先日、山際が提案したオーケストラのことに触れた。

「まだ全体計画が決まっていないので参考だけどね、オーケストラで本学の大学祭のレベルの高さと、アイデンティティを表現してはどうかなと、先日、山際君と話したのだけど」と言うと、田岡が、「アイデンティティをオーケストラで?よくわからないな。まあ、オケのことは槇山女子大の委員長に聞けば、なんとかなるのでは。槇山にも小さいけどオケはあると聞いているし、他大学との交流もあるだろうから、紹介してもらえば」と言った。

山際は、咲子に会う理由ができたと思った。実は、会うことは先日彼女に言ったが、具体的な逢瀬について、まだ連絡していなかったからである。

会議の後、山際と朝倉は田岡に誘われて、神宮前の居酒屋に行った。ひととおり大学祭の話題が終わると、「ところで、先日の帰り、山際君と大西さんはどんな話になったのかな。」と田岡は話題を咲子に変えた。実はどちらかといえば、それが田岡が彼らを誘った目的だった。

彼は、山際と咲子のその後の状況を知るとともに、自分と咲子との交際をあからさまにして、山際に交際をこれ以上の個人的な交際を遠慮させようとしたのである。

田岡は、咲子との付き合いは昨年からのもので、もう1年ほどになること、最初は大学祭の実行委員会の交流から始まったこと、そのうち、金山の街中を歩きまわる間柄になったことを、ある程度の詳しさで話した。

金山は名古屋の副都心になっていたが、飲み屋やホテルも多く、歓楽街的な要素が多分にある。そこで遊びまわるとは、朝倉や山際にも大体の察しがついたし、そう察せよと田岡が示したようだった。つまり、朝倉や山際にとって、すでに咲子は田岡のものになっているということを示したかったのである。

山際は、「昨年の大学祭の資料から、コンセプトやテーマの設定、主な行事などの考え方を詳しく聞きましたよ。これからの本学の取り組みに役立ちそうです。」と、やや大げさに言った。しかし、その後の先日の咲子との経緯を詳しく話す勇気はなかったし、田岡のために、すでに走りだした咲子との交際をいまさらもとに戻す気はなかった。

自分から言えば、せっかく盛り上がった関係を邪魔しようとするのが田岡ではないか、と思った。しかし、咲子の立場からもそういえるのかどうかが問題だった。彼女の自分に対する好意は自分のせいではないし、今後どうなるかは彼女次第だ、と山際は強気になった。

 

山際はメールでいろいろやり取りしながら、数日後の咲子との逢瀬を設定した。大学祭のプログラムの相談、特に、田岡から指示されていた、オーケストラの件があった。場所は、先日と同じ串カツ屋にした。山際も咲子も、先日に戻ってその雰囲気を継続したかったのである。

2人は大学祭のプログラムについて、そのコンセプトの設定方法について話し合った後、山際は咲子に、オーケストラを大学祭に招待できるかどうか尋ねた。咲子は、女性ばかりのオケでいいなら、大学のクラブに聞いてみるが、総合大学のオーケストラの方がレベルが高いので、できるだけ当たってみると言った。

彼女はもう立派な社会人のような立ち回りができるようで、山際は感心した。

それから、高校時代の話になった。特に思い出深かった御在所岳登山のことを話していると、2人ともそこに何か忘れ物をしたような気分になっていった。

おそらく2時間ほどそんな会話を楽しんでから、酔いも回って盛り上がってきたころ、山際は先日のように咲子の大腿に手を置いた。、さらに股間に近づけて、彼女の反応をみた。彼女はくすくすと笑いながら、「それはだめ。ほら、ほかの人が見ているわ。ホテルを今夜とっているので、それまで待って。」と言った。

山際は驚いた。「え、ホテルを予約したの?」

「ええ、シティホテルだけど。今夜会議で遅くなるので泊ると、親に行って出てきたの」と言う咲子は、平然としているように見えた。山際は彼女の覚悟を無益にはできないと思った。しかし、その前に田岡との交際を聞いておきたかった。

「田岡さんから聞いたのだけど、君と昨年来つき合って、かなり深い関係だというけど、それはいいの」と聞いた。咲子は「それはそうだけど」と言ってから、「気になるの?実はあまり乗り気ではなかったのだけど、彼が強引に私を連れまわして、私に考える間もなく…」と言葉を濁した。それまでの明瞭な言葉とちがうことが、彼女の当惑を表しているようだった。

山際は、それはそれでいいと思った。彼女が自分を特別な存在として見てくれるのなら、乗りかかった船のように、将来を賭けてみようと思った。

 シティホテルに着いたころは、もう11時を回っていた。ベッドの前の椅子に座ってから、唇を重ねた。お互いの舌を感じるように、幾度も繰り返した。山際は時間に追われているような癖がなおらず、せっかちにことを運ぼうとした。咲子は女性が覚悟をしているときのように落ち着いていた。

山際はあの香りを感じた。そのありかを探っていた。ひと通りの行為のあと、咲子は一緒に風呂に入ろうと彼を誘った。

 風呂では、彼女はその引き締まった若い肉体を惜しげもなく彼にさらしつつ、彼が抱くのに任せた。山際は普通の女性とそのような経験をするのが初めてだったので、その未知な肉体のはじけるような反応に興奮を抑えることはできなかった。

 風呂を出てから、当然のようにベッドに入り、お互いに若い肉体を求めあった。彼女の香りの部分は、熱く熟している花のように彼を受け入れた。

 

 翌日、金山の駅前で朝食をしながら、お互いに昨夜来のことを思い出し微笑みを交わした。山際は、先日来の咲子の思いきった行動に、気後れがしていた。しかし、もはや自分のものになったという自信が、彼に落ち着きと自信を与えていた。彼女がある意味普通の女性であったことに安心するとともに、その行動力には敬意を感じていた。

咲子は山際を冷静に観察していた。彼女は山際に期待していたのは、田岡などにない、彼がときどき見せる冷静で知的な山際の行動だった。しかし、ベッドでそれを見ることはできなかった。いま見る彼は、彼女が期待した人間であるかどうかはわからなかった。少なくとも普通の男とさして変わらないように思えた。ただ、アイデンティティをコンセプトにするというアイデアは彼女が彼に抱いた尊敬の一部になっていた。

「そうそう、オーケストラの件、早急にあたって見るわね。」と咲子は、まじめな関係に戻ったように、昨日の話をした。「すべて咲きさんにお願いで申し訳ないが、よろしくお願いします。」と馬鹿丁寧に言うと、咲子は笑いながら「わかりました。」とおどけるように応えた。

 

大学祭までは、スケジュールは順調に進んで行った。9月からは、アトラクションのお笑い芸人を大阪で交渉したり、シンポジウムの出演者の手配、さらに某私大のオーケストラとの曲目選定や楽器の輸送、出演料などの打ち合わせ、ポスター、プログラム作りなどの事務的な仕事が山ほどあり、山際や朝倉は慣れない仕事に明け暮れた。

田岡は全体の進行管理をうまくやるため、リーダーシップを発揮した。そのため、彼らの業務の間に咲子が表立って関係することはなかったし、そのようなことをあえて話題にしないことは、暗黙の了解のようだった。

田岡の誘いにも咲子はある程度応じていた。しかし山際との交際だけでなく、大学祭の準備で忙しくなると、忙しいことを理由に、田岡に対して煮え切らなくなっていった。

田岡はそのようなことをあまり気にしない風だった。しょせん、諸行無常。男女の仲はそんなものと割り切っていた。むしろ、山際や朝倉と咲子が高校時代の友人関係にあったのなら、彼らに咲子への優先権があっても仕方ないと思っていた。

山際はそのような忙しさの中でも、時間が許す限り電話やメールで咲子と連絡を取り、例の串カツ屋に咲子を誘った。咲子もできるだけ応じて、逢瀬を楽しんだ。そんなとき、咲子は女性としてやさしく彼を包むようにしたので、山際は逢瀬が安らぎになることを感じていた。そのため、だんだん彼女に対して遠慮なく本音をさらけ出すようになってきた。約束の時間に遅れたり、食事のとき食べ物を口に入れて平気にしゃべったり、ベッドの前に脱いだ衣類を床にほっておいたり、彼女が朝にシャワーをしている最中にトイレに入ったりした。

 

大学祭が近付いた10月の中旬、朝倉は山際を打ち合わせを兼ねて、神宮前の飲み屋に誘った。「最近、咲ちゃんとうまくやっているようじゃないか。」とうらやましげに、冷やかし半分に言った。山際は朝倉に対して、半分は優越感、残り半分は申し訳ない気持ちで、彼女との交際をある程度の詳しさで、適当にあいまいにして話した。

「そうか、咲ちゃんは高校時代から君の方に気があったのかな。いまさら気がついた自分が馬鹿だったな。」と言った。朝倉は彼女を咲ちゃんと呼ぶところに、彼女への親しさをアピールするとともに、山際への優越を示そうとしていたのかもしれない。

山際はしかし、朝倉がふと言ったことが気になった。それは「咲ちゃんは、以前の理知的な面に、行動的な積極性と、感情的な面が加わって素晴らしくなったけど、何か移り気で熱しやすく冷めやすくなったようだな。」と言ったことである。

「なぜ、そういうことがわかるのかな」と山際は聞いた。

「いや、僕とのつきあいもそうだったけど、田岡君ともそうだし、君もそうならないとも限らないよ。それに大学祭の委員のメンバーが、委員長の言うことがよく変わると批判しているそうだ。」と朝倉は言った。

自分に対する多少の妬みがあるのではないか、と山際は思った。自分は別だと思いたかったし、彼女を信じていたかったが、これまでの自分の経験に基づいて言う朝倉のことばは、ある程度はほんとかもしれないと、少し不安になった。

 

10月の第3週、大学祭が開催された。大学祭は実行委員会のメンバーにとって半年間準備してきたプログラムの見せ場である。

大学祭は好天に恵まれて、予定通り進んだ。

通路の並んだクラブやゼミの模擬店では、関係ある他の女子大学の応援も多く、華やかで賑やかだった。お化け屋敷、金魚釣りなどもあった。教室ではクラブの研究発表の展示、映画、文芸際、カラオケ大会などがあった。

ステージでは、開幕の学長、市長の挨拶の後、盛りだくさんの催しものがあった。1日目は、軽音楽、ダンス、おかまの踊り、よさこいなどがあった。2日目はお笑いタレントの演技などがあり、最後は某私立大学オーケストラによる交響曲、特にスメタナのモルダウ、グリーグ、シベリウス、ガーシュイン、武光徹などの小曲が連続的に演奏された。滝廉太郎、信時潔、古関裕而などの歌曲などもあった。キーワードはアイデンティティ、すなわち国民的音楽であった。

シンポジウムもグローバル化とアイデンティティをテーマに、滝山教授の基調講演のあと、大学の教員と有名人がパネリストに参加した。

大学祭の視察と応援、激励を兼ねて、槇山女子大の実行委員長や委員が来る予定になっていた。ところが、委員連中は来てくれたが、委員長の咲子は来なかった。

その日、山際に彼女からメールがあった。彼女の叔母が急になくなり、通夜と葬儀で2日間は動けなくなったということだった。やむをえないことではあったが、山際はすこしがっかりした。それが今から思えばケチのつき始めだったかもしれない。

2日間の大学祭が無事終わり、他大学の実行委員も入れて盛大に大ホールで打ち上げパーティが催された。そのとき、あわてるようにして、咲子が入ってきた。司会をしていた田岡は、咲子を久しぶりに見て、手を振って招いた。そして、会場に向って言った。「…大学祭がこのように成功したのは、槇山女子大の応援のおかげであり、オーケストラのお世話やプログラム作りに大変ご尽力いただきましたことを、特に大西咲子委員長をはじめ、委員の皆様に感謝申し上げたい。」

咲子は田岡の隣に立ちながら、欠席の失礼を理由とともに話した。田岡と咲子は長々と談笑している様子で、山際の方には来なかった。

朝倉は気を聞かせて咲子を山際の方に呼んだ。そのとき、咲子は久しぶりの山際に微笑んだが、あまり話したがらなかった。しばらくして咲子は田岡のテーブルに戻ってしまった。山際は先日、朝倉が咲子について言ったことを思い出した。彼女が心変わりをしたのか、と疑った。

彼は彼女にそれを確認するため、「きょう、帰りに一緒に飲みに行かないか」と、その場からメールを送った。彼女はそれに対して、メールで「今日はだめ。まだ先日の親戚の手伝いがあるから」と返事した。そんな様子を見ながら、「誰からのメール?」と田岡が聞いた。その目は山際を探していた。

その夜、田岡と咲子がともにホールを出て帰るのを眺めながら、朝倉は山際に言った。「咲ちゃんは、しばらくすると気が変わるから、今夜またメールでもしたらいい。」

山際はその夜、咲子に「会いたい」とメールを送った。このまま彼女との関係が終わるとは、とても信じられないし、受け入れられないことであった。しかし、なぜか彼女から返事がなかった。

山際はその後、頻繁に彼女にメールをして、彼女と付き合いを継続しようとした。彼女のいまの状態を無視したストーカー的ともいえる行為に、ついに彼女はそれを「デリカシーのない人だ」とメールで非難してきた。山際は謝った。しかし、彼女の態度がやや冷たくなり、不安になればなるほど、早く会いたいというあせりの気持ちが募った。

そうこうしていると、彼女から来週の槇山女子大の大学祭で会おうというメールが来た。山際は、「首はまだつながっているな」と感じた。しかし、彼女がさらに付け加えたのは、「先日渡した昨年の大学祭の議事録を見たいという大学の友人がいるので、そのとき持ってきてほしい。」ということだった。借りたものだから、返さないといけない。いままで借りっぱなしで、いいかげんな人間と思われているのかもしれない、と山際は考えた。しかし、それが彼女との交際の消滅を意味しているようで、いやな胸騒ぎを禁じえなかった。

 

槇山女子大の大学祭は、女子大らしくこまごまとした気配りに満ち溢れていた。正門のぬいぐるみの出迎え、案内役の女性のコスチュームに着飾ったエスコート、模擬店の整然とした並び、プロのバンドに合わせた学生のダンス、美術展、大学オーケストラのミニコンサートなど、すべての面でセンスがよかった。それらは緑やガラス張り校舎の多いキャンパスと相乗効果をもたらしていた。

咲子は久しぶりに山際と会った。2人で会場を歩くと目立つので、最後のシンポジウムの会場で会おうと咲子は彼に約束した。そのとき山際は、手持ちの資料を返そうとした。咲子はそれを見て、直ぐにそれを受けようとはしなかった。鞄を持っていて重そうだったので、彼はそれを返すことを躊躇した。シンポジウムの時でもいいと思った。

 

山際は、咲子がいつものような明るい態度で会ってくれたことに安心していたので、大学祭を楽しむ気分になれた。大学祭をひととおり見ながら、山際は田岡や朝倉と出会わないか心配だった。彼らが来るとは聞いていたが、咲子との約束があったので、彼らと同行することは避けたのである。しかし、これが咲子との最後の日になるかもしれないという不安は、いつも脳裏から離れなかった。

シンポジウムの基調講演は全国的に有名な経営評論家、竹田正隆氏の「組織と女性」であった。共同体が組織の基本にあること、そこにアイデンティティあり、女性のコミュニケーションの能力が組織を生き生きとさせる」というものだった。竹田正隆氏と交渉し、招くのに成功したのは咲子だった。

山際は、隣に座っている咲子の横顔に生気がみなぎって、目が輝いているのを見て取った。自分はこのような彼女にふさわしい存在だろうか、彼女との将来があるなら、そうならないといけないのだが、なれるだろうか、と思わずにはおれなかった。

シンポジウムが終わってから、2人は以前に行った串カツ屋に行くのが当然のように、どちらともなく誘って行った。

乾杯のあと、お互いの大学祭の成功を祝った。その後唐突に、山際は咲子に「僕は咲きさんを失いたくない。」と言った。

咲子は、「別に、つきあいをやめるとは言っていないけど。それなら、あまりメールをしないで。私はあなただけでなく、田岡さんや朝倉君、そのほかの男性とも付き合いたいのよ。あなたとは、まだ恋人にはなれないかもね。」と応えた。

山際は了解した。咲子とのつきあいが続くことだけで、満足だったから。

 

遅くなり、彼女をタクシーで送ることになった。2人は後部座席に並んで座っていたので、彼女の太ももが彼のそれにくっついた。彼女は、酔いもあったのか幾分顔を赤らめていた。そして、恥ずかしげに少しうつむき加減に前を見ていた。

山際は先に神宮駅前でタクシーを降りなければならなかった。

帰り際、咲子は「ここでチューしちゃいけないよ。」と言った。そして、すぐ、「このほっぺにチューして」と言った。山際は言われたとおり、彼女のほほに唇をあててから、タクシーを降りた。

彼は今日の1日の疲れにかかわらず、彼女と別れることにならなかったことに満足した。

電車に乗ってから、山際は手にまだ資料を持っていることに気付いた。

「しまった、渡すのをまた忘れてしまった」とつぶやいた。

それにしても、何回も渡す機会があったのに、どうして彼女はそれに気付かなかったのかな、と彼は不思議な気持ちだった。

 

あの日、咲子はそれを返してもらいたくなかったのかもしれない。そう思ったのは、それから彼女に幾度か会ってからのことだった。

その忘れ物はまだ彼の部屋にある。

いつ返そうか、と彼はときどき思うが、彼女が求めるまで待っておこう、それがある間は田岡や朝倉よりも自分を、彼女が選んでいる証拠だと思った。

 

 

 

 

 

 


かたつむり

2021-03-25 10:13:17 | 小説

「かたつむり」

                        色波臭平

 

 「行ってきまーす」という小学生の姉妹の声に、片桐は何となく励まされる気分になった。普段は片桐を見送ることが少ない妻の八重子が、その日は子供らを見送った後、片桐を追うように玄関までついてきて「昨夜の件よろしくね」と言ってから、封筒を片桐に渡した。中身を見ると5万円が入っていた。

「石島さんにこれを渡して。その代わり借金はお断りしてね」片桐は頷いた。うやむやにしないための念押しだな、と片桐は妻の意図を悟った。 

それは昨日のことだった。大学時代の親友の石島が、何年かぶりに職場に電話をかけてきた。久しぶりの再会を嬉しく思ったのと、何か大事な話があるような気もしたので、珍しく定時で退社し、駅前の飲み屋に行った。

ここ数年の仕事や家族の話がはずんだことはいうまでもない。何より学生時代の大半、勉強以外の時間を学生会活動に費やし、学生生活を共有した仲だった。当時の学生会は、かつての70年安保の頃のように、大学批判や社会批判を掲げてデモやストライキなどをするということはなくなっていた。ごく一部に化石のようなマルクス主義を大義に、暴力革命を是認する団体もあったが、普通の学生会活動は主に学生の生活を快適にすることを目指して、大学当局に要望することなどが主なもので、ずいぶん穏健になっていた。それでもサラリーマンになれば言いたいことも言えず、家畜のようになる。日々かたつむりのように生活を担っていくのだから、せめて学生は企業中心の社会を批判し、正義を代弁してやるのだという、思い上がりともいえる純粋さは残っていた。そんな折、彼らは社会問題や社会の矛盾を考え、議論をした。

学生会のメンバーの中に八重子がいた。彼女はどちらかといえば事務局的な存在で、政治的な関心もさほどなく、片桐や石島の中でアイドル的に振舞ってた。しかしその中で冷静に結婚を考え、二人を評価していた。八重子が片桐を選んだのは、石島の人生の方が面白そうだが、片桐の方が堅実な人生が送れそうだったからである。もちろん片桐との性格が合うこともあったが。

卒業後、片桐は大手電機メーカーに就職したが、石島は就職をせず、70年安保時代の活動家がやむなく生活のために経営した塾を手伝うことにした。片桐は案の定、それほど目立った業績を上げることもなく、かといって問題もなく、人並みに昇進していた。一方、石島の塾は時代に乗って順調に伸びていたが、近年、かなり厳しい経営状況になっていた。

片桐は飲み屋の席で、石島に敬意を表すように「僕は大企業だけど、いまだに課長手前で足踏みしているのに、君はもう経営者だからたいしたものだ。創業者は70歳を超えているから40歳台の君が頼りだろうな」と言うと、石島は「社長の責任が重くて、なんとか潰さないようにするのが精一杯。少子化や大手有名塾との競争などで、知り合いの子供とか、兄や姉が学んだとか、そんな者しか来てくれない。塾生はだんだん減って、経営もじり貧という状態だ」と言った。そして、だいぶ時間がたってから、時を見計らったように、「実は、300万円ほど貸してもらえないだろうか。従業員やアルバイト学生の当座の給料に困っているので」とあらたまった態度で頼んだ。

片桐は、自分名義の口座から貸すことはできそうなので、貸そうと返事しようとしたとたん、妻の八重子の顔が浮かんだ。独身なら一存でできたのだが、やはり生活を共にする者を無視できない。それが夫婦だろうと思った。実は共通の友人である石島の頼みに八重子も賛成してくれるだろうと期待していた。「わかった。妻の了解がいるので一日待ってほしい」と返事を保留した。

しかし、家に帰って夕食後のテーブルで八重子に話すと、彼女は難色を示した。「いくらあなたのお金でも、それはだめ。返してくれる保証はないし、これからどんどん子供にお金がかかるようになるのがわからないの。それと、いま私がボランティア活動をできるのも、生活が安定しているからよ。もしそのお金がなくなれば、パートにでも行かなくちゃならなくなるわ」と言った。つまり家族と自分自身の生活を守ることが友情よりも大事だ、と結論づけたのだ。そう現実的に言われれば、片桐も納得せざるを得なかった。

八重子から手渡された5万円を入れた鞄は片桐にことさら重く感じられた。石島には失礼になるだろうな。友人関係も終わりかな、と思いつつ職場に着いた。

片桐の職場は総務部広報課だった。机に座ってから携帯で石島に電話し、夜に会う約束をした。いやな返事は、早くした方が却って気が楽になると思ったからである。

ところでその日の午後、取引している広告会社の狭間社が、テレビコマーシャル用の企画ビデオコンペの作品を持ってきた。いつもは総務担当の女子社員が持参するのに、このたびは社長自ら持ってきたのだった。片桐はいつもと違う気配に「また重荷になることが増えるのかな」と思った。

応接室で狭間社の社長は片桐に、「今回の企画コンペ、なんとか我が社に決めてくれませんか。実は資金繰りに困っているんです。コンペ作品の作成にもかなり経費がかかっているんです。ほんとうにコンペは殺生な制度ですよ。」と言った。狭間社とは、彼が広報課に着て以来5年以上の付き合いだった。受け手がなく困っていた安く急な仕事を、隋契約で頼んだこともあり、恩義があった。しかしこのたびのような予定価格100万円以上の企画は、審査委員会に掛ける規則になっている。広報課の課長補佐であっても裁量の余地はない。それが経費節減と公平性を担保し、コンペで質も担保しようというものだ。

「社長の意欲はよーくわかりますし、なんとかしたいのですが、これは審査委員会で決めることですので、たとえ天皇陛下が頼んでもだめですよ」卓郎の言葉に、社長は取りつく島もないと思ってあきらめた。「でも企画ビデオコンペに参加を頼んだのは、片桐さん、あなたですよ。企画コンペでもかなりお金がかかるし、選ばれなければ大損なので…でもしかたありませんな」と社長は、最後は諦めるように行って去って行った。寂しげな後ろ姿を見送りつつ片桐は、審査委員会を左右するなんて論外でやむを得ないと思っていた。

夜に片桐は石島と昨日の飲み屋で会って、丁重に断り、5万円を渡した。石島は5万円を受け取らなかった。「僕は小遣いをもらいたいのではないので」と言うと、雑談もそこそこに飲み屋を出た。片桐はその5万円から支払った。八重子もそれに文句は言わないだろうと思ったが、憮然とした石島を見送る気分にもならず、飲み屋を出て直ぐに別れた。

その翌日の午前、まだ昨日の重い気分が支配して、うつ病のようにふさいでいた片桐は、部長秘書の永沢を通じて、総務部長に呼び出された。広報課長とともに部長室に行くと、部長が「実は、例のテレビコマーシャルの企画ビデオコンペの件だが、A社に決まるようにしてもらえないだろうか?理由は言えないが、実は上層部からの依頼があって…」とおもむろに言った」「え、それは無理です。企画ビデオコンペは審査委員会で決めないと制度を無視することになります」と片桐は即座に応えた。しかし、課長は「わかりました。なんとかしてみます」と応じたのである。

広報課に帰ってから、課長は片桐に「審査委員長は誰かな。君がなんとか方法を考えてくれないか」と頼んだ。「そんな無理難題を言われても、…第一、委員長が決めるものではありません。広報課長も委員の一人ですが、ただの一票しかないのですよ。」「それはわかっている。それなら私が考えるから、委員のリストをもってきてくれないか」と命じた。

それから課長がどのような作戦を立てたのかは、片桐にはわからなかった。しかし、最終的に審査委員会の結論はA社になったのである。

片桐は、狭間社に申し訳ないと思った。そんなことができるなら、これまでいろんなことで広報課を助けてくれた狭間社に決定できたはずだ。公正さを目的に設置されている審査委員会を誘導するなんて何ということだ。片桐は狭間社の社長に詫びたかった。しかし、何をもって詫びるのだろう。何と言ってもA社は委員会の公正な審査で決まったのだということは表向きの事実だった。あるいは結果は、公正な審査を通じた偶然の一致だろうか。担当事務局として全作品を見た片桐は、A社が最善とはとても思えなかった。

その翌日、どうしても知りたいと思った片桐は、帰りに部長秘書の永沢をフランス料理に誘った。彼女は、片桐が新任社員として勤めた総務課で一緒に働いた仲なので、気安く応じてくれたのであるが、もちろんそれだけではなかった。彼女は彼に昔から好意をもっていた。彼の結婚後も多少の感情の交流はあった。それを見越して片桐は永沢に、コンペの委員会に対して何か行われてか知らないか、と聞いた。彼女はしばらく考えて躊躇した後で、おもむろに話した。片桐が総務部長に呼び出された日の夕方、総務部長と広報課長が、委員それぞれに電話をしていたと告げた。メールで連絡しなかったのは、証拠を残さないためだったのだろうか。

翌日、片桐は広報課長にそのことを問いただした。課長はそんなことは知らないと応じた。片桐は永沢に聞いたとは言えなかった。しかし先回りして課長がこう言った。「それは永沢君から聞いたのか?もしそうなら、君と永沢君の間を問題にすることだってできるよ。そうすれば君の課長昇進はないだろうな。それでもいいなら、この件を問題にするか。しかしそれは皆が損をすることになるだけだがね。よく考えてみることだ」

片桐はこのコンペの不正疑惑を無視せざるを得なかった。結局それが皆の、そして自身の保身になるからである。しかし狭間社には何としても申し訳ないと思った。

数か月後、石島の学習塾が倒産したことが新聞に出ていた。テレビのローカルを見ていた妻の八重子が驚いたように、「石島さんの塾、そんなに経営が悪化していたの。貸さなくてよかったね」と言った。「貸さなかったので倒産したのかもしれないのに、お前はよくそんなこと言うな」と、片桐は妻を非難した。妻は何も応えず、その日のボランティアでの読書会で、ユダヤ人をビザで救った杉原千畝の話をしたことを言った。「ほんとうに偉い人ね。勇気のある人だわ。何千人もの命を、外務省の方針に反して救ったのだから」

それを聞いた卓郎は、「それならルール違反をしても結果がよければいいということになるな」「え、ルール違反?でも結果があれほどなら、許されるのよ。大事なことはそれが人類愛や多いなる理想に殉じるなら、ということね」片桐は、八重子の考えの矛盾を感じるとともに、狭間社長や石島への自分の態度にやり切れない気持ちになった。

庭で遊んでいた小学校低学年の二女が、キャーと叫んだ。どうしたの、と妻が走っていった。「ナメクジがこんなにたくさん、葉っぱの裏についている」そこにはよく見ると10匹以上の小さなナメクジいた。「あら、ずっと前からいるよ。いくら駆除しても増え続けるのよ」すると二女は言った。「でもカタツムリはいないね。どうして?」答えに詰まった八重子は片桐の方を向いた。

片桐は以前、カタツムリは殻を持ってナメクジよりも進化した、と言ったことを思い出し、少し返事に困った。「おそらくカタツムリの殻は自分を守るためだったので、逆に生きる力が弱くなってしまったからかな」

子供と妻は、そんな無理をしたような理屈に声をたてて笑った。


蘇った記憶

2021-03-16 14:10:17 | 小説

 還暦を過ぎたある日、机でとりとめもなく人生を振り返っていると、またしてもその言葉に行き当たった。なぜ、おばさんは「いやらしい子ね」というあんなひどい言葉を僕に投げかけたのだろう。そう思っても記憶の迷路に入ってしまうと、いつもうやむやになった。

幼い日の記憶の迷路には、戦後のバラックが建て込んだ雑然とした街並みや、そこで遊びに明け暮れた日々のピソードの断片が浮かんでは消えた。それらは記憶の中で脚色され、美化されて、楽しい思い出を彩っていた。その言葉は思い出の中のひとつの汚点のように残っていたが、ほどなくおばさんの家族がどこかに引っ越してしまったため、その後の思い出に支障はなかった。

 それは、僕が小学校に入った年の秋の終わり頃のことである。何故かわからないが、2つぐらい年下の男の子を追いかけている。その子は必死に逃げていた。そしてバラックの立て込んだ路地から、僕たちの家の前の空き地に出た。そこには、その子の母親が、「ねんねこ」で背中に赤ちゃんをおんぶして立っていた。男の子は母親のお尻の後ろに隠れた。遊びの中だったので僕は微笑んだが、母親は敵意のまなざしで僕を睨むようにして、「いやらしい子ね」と言って、僕から男の子を守ろうとした。男の子も僕をさけるように必死に母親にしがみついている。

2人の眼差しに取り付く島がなく、気まずさにいたたまれなくなった。おばさんのすぐ後ろが僕の家だったが、はじかれるようにもと来た道を戻ろうとして振り向くと、「ねんねこ」から少し顔を出した女の子が見えた。その無垢な表情に少し気持ちが救われたのだろうか、妙に印象に残っている。

 「いやらしい子」という、僕に投げられた叔母さんの言葉は、僕にとって長年の疑問として残った。「ごんたやな」とか「だぼさく」(あほの明石方言)と言われたのなら、まだ救われたかもしれない。「いやらしい」というのは、当時、女子が男子を非難するときによく使った言葉だが、大人の女性も使っていたのかもしれない。男が女からうけるこれ以上の軽蔑の言葉はなかった。

 おばさんの家族が僕の外祖父(母方の祖父)の家を間借りしたのは、僕が幼稚園に行っていた頃だった。印刷業を営んでいた祖父の家は戦災で作業場もろとも消失したが、戦後のバラックから2年後にいち早く家を再建した。祖父の子供らは既に結婚したり、大学に行って下宿していたので、なぜ祖父が夫婦の生活に広すぎる家を建てたのかはわからない。そのため初めから余裕があり、2階は空いていた。おばさんの家族は、その2階を間借りしていた。

ちなみに僕の家は、祖父の家の土壁を共有するように接した2階建のバラックだったので、祖父母の家族のような一体感があった。おばさんの家族が僕の家族に入居の挨拶に来られたとき、おばさんは、「お兄ちゃんに遊んでもらえるね」と息子に言った。僕とは2つ違いだったから、きっといい遊び相手になると思ったに違いない。僕も弟ができたような新鮮な喜びがあっただろう。

 僕は男の子を「けんちゃん」と呼んでいた。僕が階段の下から呼びかけると、けんちゃんはいつも急いで降りてきた。まだ3歳ぐらいだったが結構すばしこかったので、鬼ごっこやかくれんぼ、相撲などをしてよく遊んだ。

主な遊び場は、祖父の家の土間、家の前の空き地、そして空き地の端にあった納屋のあたりだった。おばさんは、家の前の水道で炊事の下ごしらえをするときなどに、よく僕らの遊びを微笑んで眺めていた。

納屋は普段は誰も入らないため、不要な木材や縄、祖父の家が昔印刷業を営んでいたときの機械の残骸、焼夷弾で溶けて固まった鉛の活字などがあった。それらは使い物にはならないが、子供の想像力をかきたてるものばかりだった。片隅には、ドラム缶でできた風呂もあった。近くに風呂屋が出来てからはお役御免となっていたが、子供が隠れるのにはちょうどよい大きさだった。

 納屋は隙間だらけだったので、外からの光が差し込み、明りがなくても内部がかなり見えた。天井に100ワットの裸電球があったが、それを使う方法は知らなかったし、第一、子供に手の届くところではなかった。

僕の思い出の中には、けんちゃんのほか決まって同い年の2人の幼友達が出て来る。男の友達はオサムと言った。女の友達はキクミと呼んでいた。キクミに対して女の子という意識はなく、空き地でオサムとチャンバラごっこや相撲などをしたとき、キクミも一緒にしていたように思う。

 オサムの家には小学校高学年の姉がいた。あるときその姉は、「裸ごっこ」をするといってスカートもパンツも脱いで、ゲートルのような長いものを体にぐるぐると巻いた。巻き終わるとアメリカのターザンだと言って、僕らに挑んできた。そのため、やむなくオサムと僕は、その子に馬乗りになったり足を引っ張ったりした。「股裂きの刑や」といってオサムが姉の片方の足を持ったので、僕ももう一方の足をつかんで広げると、姉は、「それは卑怯や、アメリカにそんなンないわ」と叫んだ。遊びが一段落したとき、その姉の巻物はほとんど外れていた。そのとき、僕ははじめて男と違う女の形を意識したように思う。

 「裸ごっこ」は、妙に僕を刺激した。ある日脇腹に新聞を抱え、新聞配達の真似をしてオサムの家に行った。姉はいたが、あいにくオサムがいなかった。僕を相手に裸ごっこをしてくれることはなかったが、それは当然だろう。

僕は、同い年の2人との遊びが増えてくると、なぜかわからないが、けんちゃんを叩いたり、小突いたりして、よく泣かせたように思う。けんちゃんと遊ぶのは何かものたりなくなっていたのかもしれない。しかし、今から思えば、ちょうどそのころ、母親のお腹が大きくなっていた時期で、だんだん僕をかまってくれなくなり、その欲求不満もあったのかもしれない。

小学校に入る頃、母は僕の妹を出産した。僕は、1人っ子でなくなったのであるが、出産後はますます母親にかまってもらえなくなったのは当然だろう。いっぽう、「けんちゃん、遊ぼう」と誘っても、彼は直ぐに2階から降りてこなくなっていた。おばさんが、「どうしたんや、兄ちゃんと遊ばないの」と促すと、仕方なく降りて来たようなことがたびたびあった。

そんな日には僕はけんちゃんを喜ばせようと、入学祝に買ってもらった二輪車の荷台に彼を乗せて走った。小さな二輪車は不安定で、バランスを崩したようなときに僕は怒って、たびたび彼の頭を小突いたり、毛をひっぱたりした。 僕はその乱暴さを自覚していなかった。遊び相手がいないけんちゃんは楽しんでいるにちがいない、彼を遊んでやっているんだと勝手に思っていたかもしれない。だが、けんちゃんが僕にイジメられていると思っていたとしても不思議ではない。おばさんはきっとわが子を守るため、僕を心の中で非難していただろう。だとしても、おばさんの「いやらしい」という言葉には合わない。

 僕の家は海に近かったが、なぜか高台になっていて、北へ行く道は緩やかな下り坂になっていた。そこはチェーンのない二輪車にとって、漕がずに走れる快適な道だった。もちろんアスファルト舗装などはなく、ガタガタ走ったが、結構スピードは出た。その途中に魚の仲買いをしているキクミの家があった。

一年生になってキクミは少し女の子らしくなり、近所の子らと縄跳びをしていたり、家の前の段差にしゃがんで友人と糸取りをしていた。ある日、二輪車でその前を通り過ぎると、キクミは手を休めて、くりくりしたどんぐり目で僕の方を見ることがあった。僕は誇らしげに二輪車でその前を走った。

 その道はウマが荷車を引いていく道でもあり、ときどき馬糞がころがっていた。そんな時代だったので、子供らはよく路上で小便をした。それは女の子も同じだった。あるとき、僕が坂道を二輪車で下っていると、キクミが道の片隅でパンツを下げて「おしっこ」をするのを見かけた。僕は横目で、男と違うスタイルで小便が飛び出すのをみた。キクミは特に恥ずかしそうにはしなかったが、大きな目で僕をにらんだ。

 そんなある日、坂道を二輪車で下っていると、キクミが、僕を呼びとめた。二輪車の荷台にキクミを乗せると、なぜか急に元気がでてきた。坂道を下ってから、お寺の多い幹線道路を通ると道が広く走りやすかったので、いっそう足を速く回転させた。キクミが、「わーいい気持ちやわ」とはしゃいだので、いい調子になって僕の家の前の空き地まで乗せて行った。

 空き地は、小春日和日の日差しがあたっていた。少し喉が渇いたので、家の前の水道のところに行って、蛇口に口をつけて水を飲んだ。キクミは水を飲まなかったが手を出したので、水道の栓をひねってやると小さな手をこすって洗うのがかわいかったように記憶している。

そのあと水道のすぐ横の納屋にキクミを連れて行った。おとなからすれば大胆かもしれないが、僕がそうしたのは他愛もないことだろう。キクミがおしっこをする様子を思い出し、どうしてしゃがんでするのか、どこからおしっこが出てくるのか調べたいと思ったのかもしれない。

かまぼこの板の止め木を上げて、木のドアを開けると、中は薄暗かった。キクミは、僕について倉庫に入ってきた。そこで僕はキクミに「ちんちんを見せてえな」と言った。そして、「僕のはこんなん」と言ってズボンからそれを出してみせた。するとキクミは臆することなく、しゃがんでパンツを下げた。倉庫は暗かったが、あちこちの隙間から入ってくる光で結構明るかった。パンツから出たその個所はかすかな光に白く膨らんで、割れ目が見えた。

と、そのときだった。ドアのかなり上に節穴があり、そこから誰かの目が覗いているのが見えた。びっくりしたのは言うまでもないが、それは変なところの目玉の動きに驚いたのであって、羞恥心はなかった。キクミも悪びれた様子はなく、僕への用が終わったようにパンツを上げた。僕もズボンを戻した。そしてドアを開けた。するとドアの外にいたのは何と、おばさんだった。

おばさんは、背中に女の子をおんぶしていた。そして、「何をしていたの?」と薄笑った顔で僕に聞いた。とっさに僕は「ナメクジを探していたんや」と言った。叔母さんは半分笑った顔で、それ以上何もいわずに、おんぶした子供をあやすようにしてどこかに消えた。

 記憶をたどっていた僕は、はっとした。そうか!おばさんが「いやらしい子」と僕を蔑むように言ったのは、つまり、その日の行為を意識してのことなのだ。

つまり、おばさんは、けんちゃんをイジメていた僕を咎めたいと思っていたが、間借り人の立場で強く言えなかったのだろう。たまたま僕がけんちゃんを追いかけ、彼が母親の後ろに隠れたとき、まさに僕を軽蔑する言葉として出て来たのが、その日の僕の行動を軽蔑する「いやらし子」という言葉だったのだ。今まさに、そのわけがわかったのである。

幼い僕は、キクミへの行為の意味、そしてけんちゃんをイジメているという自覚はなかった。しかし、明らかにそこには性に対する関心と、それに無意識に影響された自分がいたことに気付いた。

 おばさんたちの家族は、僕が2年生になる前にどこかに引っ越して行った。その理由は知らないが、いま思えば僕のイジメもその原因だったのかと思う。出来るなら会って誤りたいが、けんちゃんももう還暦だろうし、それを聞いても驚くだけかも知れない。