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島隠れゆく

2018-11-16 15:16:11 | 小説

 

 不思議な体験はいつもの通勤の帰り道だった。JRに乗ると直ぐ、どこかの子供が、「狐の嫁入りや」と叫び、日差しを受けたガラス窓に雨が流れていたのを覚えている。三宮駅で席が空いたので窓側に座ると、私の前に女性二人が座って来た。ひとりは五十前後の上品な感じの細面の女性で、その隣は丸顔にあどけなさの残る若い女性だった。おそらく親子だろう。私の隣には初老の男性が座った。頭はほとんど禿げて夕陽に光っていたが、昔の僧侶のような風格があった。やがて若い方の女性が、高知県に赴任する婚約者と早く結婚したいと母親に話し始め、私の隣の男性が複雑な面持ちでそれを見ていた。須磨を過ぎると街並みが消え、窓を通して広々とした海原が見える。淡路島の細長い島影が近づき、その先端に夕日を背にした明石海峡大橋が現れると、快い疲労感と眠気の中で意識が薄れていくのを感じた。

 気が付くと尻と足もとの砂の感触が快かった。砂浜に腰を下ろしていた私は、ここはどこかという不安に襲われた。なぜか目の前に見えるのが淡路島だと直ぐに分かったが、その東側の海は朝霧に霞んでいた。

 私は近くに、二人の女性が平安時代の装束で立っているのを見て驚いた。ひとりは細面で年配、もうひとりは丸顔であどけない感じだった。二人はどこか見覚えがあった。「小野の君(きみ)、やっと目が覚めましたか。もう気分はよくなりました?」と、年配の女性が笑顔で言った。彼女らのあでやかな服装から目を戻すと、自分も平安装束を身にまとっている。そういえば私は、船酔いで休んでいたはずだったが、つい居眠りしていたのかも知れない。「もうご一行は先にお寺にお着きです」と若い方の女性。その言葉に立ち上がった私は、沖合に停泊している船に気付いた。遣唐使船より一回り小さかったが、朱色と紫で彩られた姿は貴婦人のようだった。

 私はこの度の朝廷の人事異動で、土佐の国司に赴任する橘氏に随行していたのだった。難波津から土佐へ行く途中、遠回りして明石に寄ることになったのは、明石のある寺院が是非にと招いたからである。そこの住職は都でも知られた和歌の有名人だった。

 桓武天皇の平安遷都から百年余り経っていた。都では歌合わせや歌会が盛んに行われ、柿本人麻呂が模範的な歌人として崇められていた。私が橘国司の付け人と決まってからは万葉集のほか、小野小町、在原業平、菅原道真などの業績や作風を徹底して学んだ。土佐は奈良朝時代から橘氏や紀氏などが国司を勤め、和歌の教養が必要と思ったからである。

 我々一行六名が招かれた寺院は、砂浜とまばらな漁師家を過ぎた、背の高い松に囲まれた所にあった。住職の法源和尚の剃り上げた頭と、威厳ある顔には見覚えがあった。

 応接の間には花筵(はなむしろ)が敷き詰められていた。そこで夕食を兼ねた宴の後、和尚の取り計らいで歌会が始まった。和尚が、「当地は万葉集にも詠まれた柿本人麻呂公ゆかりの地ゆえ、今夜は万葉の調べが似つかわしく思います」と口火を切った。橘国司が、「では、明石を題目に万葉調で始めるとしましょう」と続けると、和尚は和歌を読む講師(こうじ)として侍らせていた娘の妙子に目配せした。隣に読師(とくし)として座っていた母の貞子に促されて、妙子は小袿(こうちき)の胸元から用意していた短冊を取り出した。そして、「ともしびの明石大門に入らむ日や 漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」など人麻呂の明石に因む歌三首を朗詠した。 

 続いて同席者の歌が順次詠まれた。私は今朝、船から朝霧を見て、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に」と上の句は考えていたが、実は下の句に困っていた。遂に苦し紛れに、「かえり見すれば月傾きぬ」と短冊に書いて読師の貞子に渡してしまった。講師の妙子が「小野の君の御歌」とそれを詠むと、和尚をはじめ同席の者全員が腹を抱えて笑った。貞子や妙子も口元を押さえて笑いをこらえていた。

 私はそれが、人麻呂の有名な歌の下の句であることを思い出して恥ずかしくなり、どこかに消え入りたい気持だった。そのとき妙子が私の方を見ながら、「でも、上の句はなかなか風情があっていいと思いますわ。ねえ、お母様」と言って、貞子の顔を見た。「そうですね。下の句だけ少しお考えになったらいかがでしょう」と言いながら、貞子は国司と和尚を交互に眺めた。私はその言葉に救われた気持ちになった。国司は、「まあ、いま直ぐでなくてもいい。今夜出来なければ、土佐に着くまでに出来ればいいとしよう」と微笑んで言った。国司の心配りであったが、私には却ってそれが宿題のように重く感じられた。 その後、別の題目で二首発表したが、名誉を挽回する作品は出来なかった。

 歌会を終えてから法源和尚は、お礼の後で満足げに、「沢山の歌のうち、お気に召すようないい歌はありましたか」と橘国司に聞いた。「都に帰ってから歌集が編纂されるなら、大いに推薦しましょう」と国司が言うと和尚が、「それならあと五年もかかりますまい。歌集を楽しみにしています」とお世辞めいたことを言った。「まあ、小野の君が助けてくれるからね。ははは」と国司が応えた。それを聞いた私は、ますます気が重くなった。

 その夜、なぜか貞子と妙子が私の寝床の傍に来て、明石の地名の由来や、菅原道真が太宰府への途上、明石の駅(うまや)に残した漢詩の話などをしてくれた。そして二人は京の都の話をしてほしいと私にせがんだ。妙子は興味に目を輝かせ私の話を聞いた。思いがけなく楽しいひとときになったのは、妙子の聡明さと美しさに魅せられたからでもある。

 翌朝、私は貞子の計らいで、国司らより少し早めに砂浜に出た。近づく天馬船を眺めながら妙子が私の手を握ってきた。貞子は、「土佐のお仕事が終われば、小野の君と今度は京の都でお会いしたいですね」と言った。妙子は遠くを眺めていたが、ふと、「あのお船が島に隠れるまで、お見送りしますわ」と言って私を見た。「有難う。島隠れする船を思ってください」と返事して、あっ、と私は思い当った。「出来た!」と私は叫んだ。昨夜の歌の下の句が浮かんだからである。怪訝そうな二人に披露すると、「素敵な歌になりましたね」と二人は、胸の前で手を合わせた。

 「間もなく明石に着きます」という車内放送を聞いた。周りの家族三人はいつしか消えていた。私は帰ってきた浦島太郎のように周りを見渡し、DNAに潜んでいた記憶が一瞬に蘇ったような体験に呆然とした。

 帰り道、私は気になって明石駅から遠回りして人丸神社に立ち寄った。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく船をしぞ思ふ」という人麻呂の歌碑が静かに立っていた。

 紀貫之が編纂した古今和歌集に、その歌は「よみ人しらず」として載っている。そのことを知ったのは、何年も後のことである。

 

           ——  完  ——