etceterakoの勝手にエトセトラ

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月組「MAHOROBA-遥か彼方YAMATO-/マジシャンの憂鬱」Ⅱ

2007年09月30日 | 宝塚歌劇

から続いてます。

●正塚ヒーローはきっと幸せになるっ!
 いくら孤独をうたいあげても、わたしにはシャンドールは不幸には見えんのです。ゆくゆくはモラトリアムを卒業して、なんだかんだいってうまいこと人生わたって幸せになるんじゃないか、という気がする。だから「まあ、ムコにでもなってメデタシじゃないか」と想像しちゃったりするワケ。
 たとえモラトリアムを卒業しなくても、たぶんそれはそれで、シャンドール・・・正塚ヒーローは幸福なんじゃないの。孤独と自分のなかで静かに揺れながら、そうやって暮らしていくことにある程度の快感と満足があるんじゃないの。
 彼にはモラトリアムを続けるだけの、良識も常識も能力も資産もあるんだもん。

 春樹小説の主人公もまた、非決定を貫く「地盤」を持っています。
 たとえば「1973年のピンボール」

 僕と僕の友人は渋谷から南平台に向う坂道にあるマンションを借りて、翻訳を専門とする小さな事務所を開いていた。資金は友人の父親から出た、と言っても驚くほどの金ではない。部屋の権利金の他にはスチールの机が三つと十冊ばかりの辞書、電話とバーボン・ウィスキーを半ダース買ったきりだった。余った金で鉄製の看板をあつらえ、適当な名前をひねり出してそこに彫りこませて表に掲げ、新聞に広告を出してしまうと二人で四本の足を机に載せウィスキーを飲みながら客を待った。七二年の春のことだ。
 何ヵ月か経ってから、僕たちは実に豊かな鉱脈を掘りあてたことに気づいた。驚くほどの量の依頼が僕たちのささやかな事務所に持ちこまれてきたのだ。僕たちはその収入でエアコンと冷蔵庫とホーム・バー・セットを買った。
「俺たちは成功者だ」と友人は言った。


 能力があって、スポンサーの協力を得てチャンスをモノにした、と。幸せな人生と言えませう。
 にもかかわらず、主人公にとって日々はバラ色ではないんだあね。

 どれほどの時が流れたのだろう、と僕は思う。果てしなく続く沈黙の中を僕は歩んだ。仕事が終るとアパートに帰り、双子のいれてくれた美味しいコーヒーを飲みながら、「純粋理性批判」を何度も読み返した。
 時折、昨日のことが昨年のことのように思え、昨年のことが昨日のことのように思えた。ひどい時には来年のことが昨日のことのように思えたりもした。一九七一年九月号の「エスカイヤ」に載っているケネス・タイナンの「ポランスキー論」を訳しながら、ずっとボール・ベアリングのことを考えたりもした。
 何ヵ月も何年も、僕はただ一人深いプールの底に座りつづけていた。温かい水と柔らかな光、そして沈黙。そして沈黙・・・・・・。


 「僕はただ一人深いプールの底に座りつづけていた」・・・直接そうとは言ってないけど、これは孤独だ、と言っているんでせう。こういう春樹の「孤独」の感触、わたしには正塚先生の舞台に現れる孤独と、まったく同じ感触に見えるんです。何かが似ている。なんか共通するものがあるな、と思う。

 「マジシャンの憂鬱」で、シャンドールの「透視」が社会現象にまでなり、「彼こそヒーロー!」と歌われた直後に、シャンドールが歌う「人さまざまに通り過ぎてゆく この胸を吹き抜けるように 夢とりどりに色あせていく (中略) 安らぎさえ切なく感じる」っていう歌、上記の春樹の文章に、ぴったり重なりませんか??
 1973年のピンボールでは、翻訳事務所で成功した主人公が、それでも「深いプールの底に座りつづける」ような孤独を感じ、マジシャンの憂鬱では透視能力者として脚光をあびたシャンドールが、「欺き続ける孤独」のなかに佇んでいるんですよ。

 これだけのものを持っていながら、彼らは孤独だ(何かむなしい)、と言うんですんね。客観的に言って、彼らは恵まれているし、相当幸せな人生じゃないかと思うんだけど。
 そんでもって、「沈黙」というのがひとつ共通のキイワードだと思います。春樹は「そして沈黙。そして沈黙・・・」と書きました。

 以下は清水良典の「村上春樹はくせになる」で、「風の歌を聴け」について書かれた部分です。

 無口と自己療養
 「僕」の言葉の表現に対する「ジレンマ」は、決して大学生時代に始まったものではなかった。作品の中に唯一、「僕」が言葉に躓いた「小さいころ」の経験が語られている箇所がある。
 小説の「7」に、小さいころの彼の体験が書かれている。あまりに無口な彼を両親が心配して精神科医の家に連れていき、治療してもらったというのだ。精神科医はカウンセリングをおこない、その治療は週に一度、一年間続いたと書かれている。
 (中略)
 自分のことを語ろうとしても、うまく語れず、数値に置き換えるしかないという、ある種の絶望。その数値の氾濫は、「ゼロ」とされた人間を呑みこんだまま語られない言葉の裏返しです。その延長においてみると、この小説は「僕」が自分について語りだした小説のようでありながら、じつは語りえないものをそっくり別の記述に置き換えたようにして書かれている。
 うまく語れない、ということを語るための小説。そんな奇妙な構造を『風の歌を聴け』は持っているのだ。

 わたしはかねてから、「なんで正塚ヒーローは、あんまし自分を語らずに、うんとかああとか人の話ばっか聞いてるのかなぁ」と、それが不思議だったのよ。ほら、柴田ヒーローとか、自分の決意や想いを、ちゃんと言葉にして恋人に聞かせるでしょ。わたし、柴田ヒーローのああいうとこにもメロメロで。そんなふうにふたりきりで「じつはおれは~」みたいな話されたら、イチコロよね(目がハート)という。
 ラブストーリーというのは、けっきょく「なんでホレたか」「どうやってホレたか」というのが肝要なわけで、そういう二人きりの「じつはおれは」「まあ、あなた!」みたいな場面、ヒロインが相手を知るためにけっこう重要だとわたしは思うのよ。
 ところが正塚ヒーローは・・・ヒロインといくら会話しても、どうも正体がつかめないというか・・・。ハッキリ語らないでしょ。じゃあ、ヒロインはいったいヒーローの何にホレたのか、それがわかんないのよ。春樹小説でもそうです。こんな自分たち(ヒロイン)に何も語ってくれん男の、ドコに惚れたのかねえ・・・と思うのだ。容姿??じつは容姿なのかっ!?(わたし自身が容姿重視で恋愛できるほど、自分の容姿がよくないからわかんないだけなのかっ!?)

 まあ、そういうわたしの好みはさておいても。
 ハルキもハルヒコ(正塚)も、とにかく自分の本音のところを、他人にしゃべらん。こっそり地の文(ハルキ)または主題歌(ハルヒコ)で伝えてきたりする。ハルキ小説は果てがないようにも思われる饒舌なおしゃべりが続くというのに、つい大切なことは語られません。マジシャンの憂鬱は、セリフの多いコメディであるにもかかわらず、主人公は大事なことはしゃべってみせない。

 うまく語れない、ということを語るための小説。そんな奇妙な構造を『風の歌を聴け』は持っているのだ。

 この清水良典の指摘は、正塚先生にもいえることだ、と思うんだよ。

●斜にかまえるということ
 「マジシャンの憂鬱」、コメディなんですけども・・・。作者および観客は何を笑っているのか、というのを考えてみたいと思います。

 マジシャンには「個性的(と正塚先生が考えているらしい)」キャラクターが登場し、独特のポーズやセリフまわしでわたしたちを笑わせます。主にお笑い担当なのは以下のふたりですね。

・「女だてらに」強いヒロインのヴェロニカ
・「熱い」殿下

 ・・・あのね、笑われる対象が主人公じゃない!んだよね。
 最近のコメディだと・・・植田御大の「パリ空」もコメディでしたが、あれは主人公が道化をやるでしょー。わたしあれ、けっこう好きだったのだ。主人公が自分で道化ってくれてるから、「アホだなーっ」って遠慮なく笑えたんだよ。
 マジシャンの憂鬱、笑いをドコで作ってるかというと、主人公の醒めた視線を通した、ヒロインと殿下の行動ですね。

ヒロインが空手みたいなポーズをとる。女だてらに。→可笑しみがある
殿下が異様に熱い!→主人公との温度差に可笑しみがある

 主人公と周囲の「温度差」の可笑しみがコメディなんですね。
 わたしは思うんだが、ヒーローを守ってあげると言っちゃう強いヒロインも、死んだはずの婚約者をしつこく調べる情熱家の殿下も、とてつもなくマトモで善良な人間だと思うんだよ。とても「笑われる」器じゃない。現実社会で評価されるタイプの、すばらしい人間ですよ。それを敢えて「笑う」対象として持ってくるところが、ハルヒコ作品の個性なんだろうなぁ。
 つうか、フツーの感覚で考えれば、シャンドールのほうがよっぽど、斜にかまえて「なにあのひとー」って笑われる対象になると思うんだよね(笑) 職場にシャンドールと殿下とヴェロニカがいたとしたら、はみ出すのは絶対シャンドールだよ。陰口言われるのはシャンドールだね(笑)
 世の中と、価値観がアベコベなんですね。
 またもや清水良典「村上春樹はくせになる」から。「ノルウェイの森」についての文章です。

 それはある深刻な゛生きにくさ〟の実感である。社会や他社との関係をうまく結べず、自分をうまく伝えることができないのである。
<「私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ」>
 それに対してワタナベは「ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外を歩きまわってる」と反論する。彼らが異常で精神を病んでいるのではなく、社会全体がふかく病んでいて、真っ直ぐな人間がむしろ「ねじまがって」いるかのように自覚してしまうひずみをもたらしているのだ。
 そういうワタナベの周囲への反発は第四章で、バリケード封鎖後の大学で大学解体を叫んでいたリーダーたちがちゃっかり授業に出席しているのを見て「おいキズキ、ここはひどい世界だよ」と思うところにも表れている。「こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ」と書かれた際の「こういう奴ら」とは、言葉が巧みで要領もよく、社会でうまく立ち回っていく人間のことだ。
 彼らをもし「健常者」というのなら、この小説はそういう「健常」な世界を遠い「あちら側」と感じ、うまく折り合うことができない「こちら側」の人間たちばかりで構成されているのである。


 ほら。

 そういう「健常」な世界を遠い「あちら側」と感じ、うまく折り合うことができない「こちら側」の人間たちばかりで構成されているのである。

 そういうことだよね。マジシャンの憂鬱のコメディは、「こちら側」の視線を通して「(健全なる)あちら側」を眺め、そこに可笑しみを見出す、というつくりになってるんですよね。

 ねえねえ、似てるでしょ~!ハルキとハルヒコ。

●正塚作品の描く夢
 フィクションとは、嘘と本当のバランスだ、というわたしの持論にそって考えていくなら、ハルヒコ(&ハルキ)がつく最大の「嘘」というのは、そんな斜にかまえた価値観でも、特に(主に経済的な)支障なく世の中をわたっていける・・・というのが、彼の見せる「夢」なんでしょう。ああいう生き方、凡人にはできませんよ。よほど資産(または才能)を持っていなけりゃ、食いっぱぐれます。

 そんなワケで、わたしはハルキもハルヒコも、「(作品のすべてが)リアルで現代的だ(=共感がメインの作品)」とはあまり思わないのよ。柴田作品とおなじぐらい、ファンタジックだと思うね。架空性つよいとおもうよ。どこで嘘をつくか、というのが正反対なだけだね。

 マジシャンの憂鬱、これは100%主人公の物語で、だから主人公に100%の感情移入をするのが、存分に楽しむためのコツだよね。「わたしはあのキャラクターが好き」「わたしはこっちのほうが共感できる」とか、そーゆーのじゃないんだね。なにせ主人公の主人公による主人公のための物語ですから。

 主人公に感情移入しちまえば、すっごくラクなんですよ。だって、主人公は物理的に苦労してないもんっ。主人公の前に、たいした障害は現れない。透視をやれば当たってもてはやされ、愛が欲しいわけじゃないけど自分のこと好きだという女性が現れ、透視をやめて外国旅行するだけの資産があり、とりあえず「バカやる」ための仲間(同居人)はおり・・・。うーん、いったいこれ以上の幸福がありましょうや。

 ストーリーが終って、シャンドールは何も変わってません。変える必要がない。敢えて「河岸を変える」ために、外国へ行くことにしたけど、それは仲間(あるいは過去)との決別を必ずしも意味しない。いつかふらっと国へ帰ってきても、自然にあつまって、スッと仲間に戻ることができるんじゃないの。

 「A Wild Haruki Chase 世界は村上春樹をどう読むか」は、ハルキ作品の(海外の)翻訳者や出版関係者をあつめたシンポジウムの様子を収録した本なんですが、このなかで香港のリャン・ピン・クアン氏が、春樹キャラクターについて、うまいことドライな表現でまとめています。

 三つ目の点は、男性の登場人物たちについてです。彼らは強固な性格の持ち主とは言えそうもないのに、その自我はそうそう簡単には変わらないのです。『羊をめぐる冒険』の「鼠」は、ご存じのように結末で別の姿になりましたが、人生に対する姿勢に変わりはありません。もしくは、彼は過去から連綿として繋がっている、あるい過去を乗り越えて成長したのだということもできるでしょう。『ねじまき鳥クロニクル』の猫が行方不明になり戻ってきたときも、その見かけは変わっていますが、すぐに昔の姿を取り戻します。村上春樹の登場人物はひじょうにおもしろいと思います。彼らは時にきわめて頑なですらあります。柔軟に物事を受け入れながらも、ある一定の姿勢や価値にこだわってもいる。意志的に何かをしっかり摑んで離さないでいるように思えるのです。

 正塚ヒーローの備える特質と、ほぼ一緒じゃないですか??
 ものごし柔らかでマッチョじゃないのに、ある事柄に対してはかたくな。おのがスタイルにこだわる、と。

●世代の問題
 わたしにとって春樹作品というのは、「ふーん」なんです。ムードに酔うのは楽しいし、文章が軽いから旅行にはもってこいで、長距離移動でひとりのときは、だいたいハルキもっていきますけど、ま、それだけ深刻には読んでいないということなのよ。電車に揺られながらぼーっと読むもの、という。ハルキってよく売れている(らしい)し、まあ要は現実のとなりにあるファンタジー、夢物語みたいなかんじで、みんな読んでるんじゃないのー、と思っちゃってたんだけど。(わたしがそうだから。)

 去年、夏目房之介(※「シークレット・ハンター」のときにバリバリ引用した、漫画評論家ですね。)のエッセイ読んでいたら、夏目が二十代のときに「僕ら世代の感性をあらわすものが登場したと思った」と記す名前の一群に、村上春樹があって目をみはったのでありました。・・・そおなんですか。そんなに「共感」できましたか、ハルキに。
 ちなみに夏目は1950年の生まれ。春樹は1949年。みごとに同世代です。

 彼らはなぜ、こんなに斜にかまえているのか。自分のライフスタイルを貫く幸福をつかんでおきながら、全体をおおう鬱々とした気分の正体は?

 「ユリイカ臨時増刊 総特集 村上春樹を読む」(同じユリイカですが「村上春樹の世界」とは別。「世界」は1989年の出版で、「読む」のほうは2000年です)に掲載された、宝塚研究や評論でヅカファンにはおなじみ、川崎賢子せんせいと川本三郎の対談、「ふたりの春樹」から引用。

(引用者注:川本の発言です)
 どこかでみんな、八〇年代のバブルの時代、村上さんの好きな言葉で言えば、「高度資本主義社会」ですよね、その中に自分もどっぷり入っているんだけども入りきれない、その違和感の行方をどこに持っていったらいいのかということをみんな、いま悩んでいるんじゃないですか。

 これは、ハルキが「アンダーグラウンド」つう作品で、社会的な題材をあつかうようになったオドロキを語る発言の一部なんだけど・・・。
 まあ、「どこに持っていったらいいのかということをみんな、いま悩んで」いるわけじゃなくて、むしろ真っ只中にこそ悩んでいたんじゃないか、という気がしますけども。わたしの意見ではね。あの時代、「バブルに絶望した」みたいな文章、ときどき見かけましたからね。いまもときどき、「あのおかしかった時代」として、当時の失望と絶望について触れた文章とか、ときどき見かけるよね。わたしは実感としては、バブルは知らないから。(バブル崩壊時、中学生でした)社会人になってから、「バブル期のすごい話」を酒の席で聞き、バブルには「景気よさそうで、仕事がたくさんありそうで、いいなあ」というイメージしかないんだけどね。

 はい、つぎ。(もうすこしで終わるので、もーちょっと我慢しておつきあいください)
 また清水良典の「村上春樹はくせになる」

 ことさら書かなくても何となくその「絶望」を察して共有してくれるような同世代の読者を、暗黙のうちに期待しているようにも読める。そのことから全共闘世代と呼ばれる、若い頃に学生運動にのめり込んだ末に挫折と葛藤を味わった世代の読み手が、その世代的な挫折感や絶望感を重ね合わせて村上春樹を読むという現象が盛んに見られた。

 清水良典は「しかしハルキの魅力は、もっと普遍的なもので、そーゆーのだけがハルキの創作モチベーションではなかろう」とこのあと続けるんですけども・・・。まあ、全共闘どーこーも、たしかに彼らの感性にかげを落としているのは本当なんじゃないの。(普遍性もないこたぁないけど、やっぱり何より時代の寵児、という感じがしますけどね。春樹には)
  まあ、わたしは全共闘とゆーのも、実感としては知らないんですけどね~。
 
 バブル経済、全共闘・・・。
 乱暴にまとめてしまうと、テンションの高い時代だったんだよね。(想像)
 そのテンションについていけない、あるいは脱落した・・・という挫折感から、彼らの鬱々とした気分はきている気がする。
 世の中が高揚してるからこそ、モノ書きは逆に鬱々しとったんだろうな。
 いまは逆に、世の中鬱々してますからね。鬱々した世の中に、どれだけ希望をキープできるか、というのが、今後は重要だろうな。かえって高揚感のある明るいモノがウケるんじゃないかな、と思うんだけど。(そんな時代にこそ、レヴューだ!というのがわたしの持論なんだけどな。)

 あと、バブルや全共闘とも絡むけど、「アメリカ」っていうのが、ひとつキイワードだと思うね。このへん、詳しくないので突っ込んでかけないけど、もっとちゃんと調べて練ったら面白いと思うよ。わたし、正塚先生の作品には「アメリカの影」を感じるのよ。どの作品を見ても、ふつうに舞台はアメリカだろうと思っているところがあって、今回も「殿下」が出てきたところで「わっ。アメリカじゃないんだ、そういえば!」と思い出したぐらいです。(ふつうにアメリカだと思っていた。)

 ごめんなさいごめんなさい。にはみだしちゃった・・・。


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