etceterakoの勝手にエトセトラ

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コムちゃんとまーちゃんについて(最後に)

2006年12月30日 | 宝塚歌劇
 もうホントに最後にします。
 ブログを開いてからこっち、似たようなことをクドクドクドクド書いてすいません。
 これがホントに最後ということで。明日から「通常営業」(?)に戻ります。

 コムちゃんを読み解くうえでの最大のキーワードは、「内気」じゃないかとわたしは思っているんです。
 若者同士の会話だと、引っ込み思案(←これもあんまり使わないな・・・)のニュアンスを表すのに「シャイ」を使うことが多いように思いますけれど、コムちゃんは「シャイ」っていうよりは「内気」かな。

 小池修一郎先生が、「ようこそ先輩」だっけ??NHKの番組で、小学生相手にミュージカルの授業をするっていうの、ありましたでしょ。あれ、友人Rが貸してくれて一回見ただけですけど、印象に残っているのが、小池先生のおっしゃった「おとなしい子ほど、内側に大きなエネルギーを秘めている」・・・どういう表現を使ったのかは忘れましたけど、そういう話があったんですね。

 コムちゃんは小池先生のおっしゃったそれじゃないかと。
 わたしはそう思ってるんです。

 「命を削る」とかね、「魂を燃やす」とかね。そういう過激な表現が似合う入れ込んだ舞台姿が、トップ後期のコムちゃんの特徴でしたよね。大人しくて内気だったコムちゃんが、ずーっと心の奥底に持っていたものに光が当たった時、ずいぶん珍しい色を放った、ということなんじゃないかと。

 「おとなしい子ほど内側に大きなエネルギーを秘めている」・・・小池先生の言っていることは、基本的には「正しい」と思います。たしかに内気なヒトには、明るいヒトとは違う種類のエネルギーが眠っていて、光を当てればバッとそれが外に出てくるかもしれない。まあ、明るい子よりおとなしい子のほうが、とは言わないけど、おとなしい子にはおとなしい子なりの、別の種類のエネルギーがあるんじゃないですか。

 ただね。小池先生が言わなかったことがありますね。「おとなしい子ほど内側に大きなエネルギーを秘めている」・・・そうだとしても、おとなしい、内気な子に光が当たることは、現実社会にはあまりない、ということですよ。
 内気にじっとしていたら、社会じゃどんな光もつかまえられないですよ。「わたしが」「わたしは」って自分で手を上げて、上手にアピールしていくことが、より大きな光をつかむためには、重要だったりしませんか。・・・まーねえ、こういうこと言うとね、「ひがんだこと言っておらずに、黙って努力をすることが一番大事なのよ。だからアンタはダメなんだ」とお叱りを受けそうですが・・・。わたしが言いたいのは、そういうことじゃなくてですね。「世の中には人を押しのけてアピールするのが苦手な性格っていうのもあるんじゃないですか」ってことなんですわね。でもって、アピールは不得手よりは得意なほうが、何かと有利なんじゃないですか、ってことですね。

 コムちゃんの輝きっていうのは、おとなしい子に光が当たった時のそれで、だから珍しい色だったんだとわたしは思ってます。
 舞台の端で踊ったり歌ったりしながら、退団していく生徒のなかにも、光を当てれば、おなじように輝く人はいたかもしれない。でも、光は誰にでも当たるわけじゃない。
 新人公演で主演しなかったコムちゃんが、急にスポットを浴びて、そこで結果を出してトップにまでなったのは、もちろんコムちゃんの努力とチカラの賜物だと思いますけど。
 なんてゆーか・・・フツーの社会生活でも、おとなしーい内気なヒトにスポットが当たることはあまりなくて、まして芸能界、目立って(アピールして)ナンボの宝塚歌劇団でトップスターで!おとなしいコムちゃんが組の看板を背負う姿を見られたというのは・・・珍しいな、と。これは、レア・ケースだと思うんです。

 最後まで「男役スターの私」という、あってもいいはずのナルシシズムを避け、コメントやインタビューでは斜にかまえて当り障りのない言葉をつむいできたコムちゃん。
 若い頃からスターとしてのスポットを浴びてきたわけじゃないゆえに、コムちゃんはタカラヅカ(という装置)を外から眺める感覚を持っていたんでしょうねえ。虹のなかにいる人は虹を見ることができないけど、コムちゃんは虹の外にいた時間があったから、虹の外見を知ってるんでしょう。「今 幸せです」という卒業コメントからは、コムちゃんが外から見ていたトップ、スターの地位にたどりついたことを、何よりも「感謝」で迎えていたことが察せられます。

 娘役・・・まーちゃんに対して「ラブラブアピール」をしないのも、それなんだろうね。
 娘役としての存在を求められることが多かったコムちゃんだからこそ、「娘役を(架空の恋愛相手として)自分が所有する添え物として扱いたくない」という気持ち、あったと思う。あれはコムちゃんなりの思想、結論なんでしょう。あたりまえに相手役があてがわれてきた(主演じゃないから)ヒトじゃないコムちゃんならではですな。
 コムちゃんのオスカルを見たとき、「ああ、コムちゃんは男役であることと、女性であることに対して、ものすごく自覚的なんだなぁ」と思ったんですね。男役だけど女役のように可愛くて官能的、っていうセクシャルなイメージは、まあ自覚はしてたし、求められればしっかり演じましたけど、コムちゃん本人はそーゆー方ではなかったんじゃないかなー(むしろ正反対)とわたしは思ってました。だからコムちゃんのことを色っぽいとは、わたしは言わないことにしてましたし、「コムミズ」「コムかし」などのカップル呼びもわざわざ避けてきました。(いや、コムちゃん&ちかちゃん、コムちゃん&かしちゃん、それぞれの並びはすごく好きだったんですけどね!男役とのカップル呼びはコムちゃん、嫌かなーと思って。娘役とはカップル呼びしますけど)天邪鬼ですいません・・・。まー、わたしが勝手にそう思ってただけですから(汗)

 それから、まーちゃん。
 相手役のコムちゃんが、天使だの毒蜘蛛だの薔薇だの、珍しい役を振られるヒトだったおかげで、えらい芸風の幅、広がったよねえ!恋する蝶の役は、まーちゃんの健気なカワイさと、ダンス力あってのものだよ!
 王道のラブストーリーはほとんどなかったし、コムちゃんは舞台のうえで「ラブラブ」したがる性格じゃなかったですけど、まーちゃんがここ3年ぐらいでどんどんキレイになっていったこと、退団公演の白い輝きを見るにつけ、「あー。まーちゃん、ちゃんと幸せなトップ生活だったし、充実してたんだなー」と思いましたよ、わたしは。

 そんで、コムまーのダンス!デュエットダンスは、ほんと素晴らしいですね。
 ふたりで踊りだした瞬間、ふっと空気がつながるのが最高だね!コムちゃんがまーちゃんに向かって差し出す手が、ものすごーーーく優しくて、受けるまーちゃんの手もふわっとコムちゃんを包むのがね、好きでしたね。
 組んで踊ると、スピード感があるし。デュエットダンスって、「愛の場面」で、ほんらいはウットリするものだと思うんだけど、コムまーのデュエットはむしろ「火花散る!ワザあり場面!」だなーと思ってました。まーちゃんって寄り添い型の娘役芸だけど、デュエットダンスの瞬間になると、ビシバシとコムちゃんに対峙して踊って、「男役ダンスvs女役ダンス」!みたいな、カッコイイ対等感がありませんか~?そういうコムまーの独特の距離感、大好きだったなー!

 というわけで。(←どういうわけで?)
 劇団さま、コムちゃんとまーちゃんを組ませてくれてありがとぉぉーーーー!(絶叫)

 本当に本当にサヨナラ、コム様(涙)

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