ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

あれから(2011年3.11)10年、脳裏をよぎること(20210314)

2021年03月14日 | 考え直すために

 2021年3月11日、あれから10年が過ぎた。何か書こうと新聞の切り抜きをしたりしてみたが、何をどうまとめたらいいのかわからない。私事を抜きに書けないので、ブログには書きにくいという事情もある。

①あのとき私は東京にいた。東京にいた私だったが、これまで経験したことのない強さの揺れが長い時間続いた。度肝をぬかれそうだった。周囲を見回し、視界内の安全を確認し、声をかけあった。居たのがボロな建物なので。小康状態となってから、街に出て当たりを確認した。信号は停まっていたり、電源はぼちぼちしかついていなかった。私も帰宅難民となった。翌日都心をかなり歩いて帰宅したときは暗闇の時間になっていた。

②地震が東北だと聞いて、福島や女川の原発は大丈夫なのか、まず心配になった。東京でこの揺れだから相当ヤバイだろうと思っていた。さらに大津波が襲ったと聞いて、万事急須だと直感した。メルトダウンを起こすことが懸念された。しかし政府や、テレビからの情報では、「大丈夫」だと情報を隠していた。ウソばっかりだった。否、ウソばかりだ(現在形)。

③直後から心あるジャーナリストや写真家が現地に飛んだ。その大胆な行動に、勇気に、私は感服させられた。放射能下の装備も経験もない私はひとまず様子を見るしかなかった。

 半年後に私は息子にドライバーをお願いし、宮城県・福島県を回った。想像以上の惨状に、絶句するしかなかった。1995年1月の阪神淡路大震災も凄かったが(同年3月に行った)、これをはるかに上回る被害であり、多くの人達が命を落とし、暮らしの道を絶たれていた。特に福島第一原発周辺は、復旧作業員も近づくことができず、そのままだった。電車が線路から大きく外れて倒れたまま、農地に漁船が流されていた。

④この大惨事の中で、当然のことながら、福島支援・脱原発の大きなウネリができていく。こうしたなかで、沖縄への関心が低下することも避けられない。福島か沖縄かと考え、私は敢えて従前通り沖縄を中心に取り組むことをきめたのだった。これはオスプレイの沖縄への強行配備が成されようとしていた時間(2012年13年)と重なる。

⑤この災害が起こる前の私は、原発現地に行く機会を殆ど持っていなかった。新潟県柏崎刈羽と茨城県東海原発、青森県六ヶ所村ぐらいだった。柏崎原発では、近づくと不審者発見の大音響に驚かされた。近づく奴は『テロリスト』扱いされているのだと気づかされた。

⑥沖縄と福島は、共通することがある。差別され、「中央」に利用されていることがだ(国益論)。だからといって同列に論じることは誤っている。歴史が違うし、事柄が違う。だからこそ、今沖縄にいて福島を見ることは、もっと丁寧に見、考えなければならない。例えば、あのとき米軍は核戦争後のレスキューを見立てて、「お友だち作戦」を展開したのだ。これを単純にご苦労様とは言えない。もしも核戦争となれば、レスキュー可能な人がいたとしても助け出される人は絶対的に限られてしまう。だから私たちは、そんなマニュアルや作戦を必要としないアジアを世界をつくらなければならないのだ。

⑦2万人もの死者、行くえ不明者が出た大震災だ。未だに4万人もの人が避難を強いられている。被災者はどれだけの数にのぼるのか、計算してみないとわからならないが、要はひとり一人の被災による生死が問われ、その後の暮らしが問われている。マス(集合的知見)に括られない見方をしていきたいものだ。

⑧防災・減災、脱原発はあまりにも当然なありかただ。民主主義も自治もこうした事を実現するためにもっともっと磨いていかなければならないはずだと私は考えるが、この国の政治は逆を向いたままだ。時間が止まったままだ。『復興オリンピック』を掲げ、『コロナ禍に勝った証としてのオリンピック』だとか宣いながら本質を覆い隠していくこの国の政治を打破しなければならない。人々の命の営みを押しつぶす原発、「大義」を伴うオリンピックはいらないのだと、私は言うしかないと考えている。

⑨12日の夜、息子から電話が久方ぶりに掛ってきた。如何したんだと思ったら、「3.11から10年が経つのだね」と言ってきた。半年後に行った現地で知り合った人と話し込んだりしていたが、10年経っても、忘れることのできない記憶は、その後の人生をも左右していくのだろう。身体に染みこんだ痛みや優しさを生きて欲しいと思っている。私の存在がプラスになったのだ、なっているのだと思えた瞬間だった。まだまだ死なずに頑張るからねと私は伝えた。

⑩大震災からの教訓も沖縄戦からの教訓も、ひとり一人の生死のことを考える事が重要なのだと結論づけられる。10年後の先日の揺れ(震度6強)の中で再び10年前の記憶がフラッシュ・バックした人が少なくなかったと聞いている。人間がつくり出した原発をなくすことはできるが、地球に生きる以上、地震をなくすことは不可能だ。そのうえで、ひとり一人の生死のことを考えたら、私たちが選ぶべき道は見えてくるはずだ。

 今沖縄にいる私も、この10年から学びながら、一日一日を生きていきたい。

 

 

 



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