ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

関心を持ち、考えよう(20231028)

2023年10月28日 | 考え直すために

 昨日、2023年10月27日(金)、私は10時過ぎから辺野古に行ってきた。帰宅は17時近くになっていた。県外からお出での方と話しに行ったのだ。私は26日まで石垣島に行っていた話しや、2009年の鳩山政権の問題点、地位協定を変えることはできるのだろうか、「辺野古が唯一」という通り一遍の裏側、1996年の「安保再定義」の今日に至る大問題など、話は尽きなかった。

 その後、辺野古浜まで下りていただいてボロボロになったフェンス(2011年5月設置)も見た。あちこち丸開きの状態になっていた。潮の力は偉大なり。テトラポットの先の埋め立て地も見た。帰路は、階段を登り、短縮。辺野古の海をみていただいた。歩くとき、下るより上る方が安定する。

 その人は、辺野古・沖縄に関心を持ち、住まいの場での立脚点をもち、考えを巡らせているようだ。筋がいい。

 私はついつい絶望的な事を口にする。地位協定を変えるにしても、単純には不可能だ。そもそも地位協定を変えるという発想をどれだけの市民が、野党が持っているのだろうか。心許ない。米軍のやりたい放題に加担しているのは、この国である。どうぞどうぞというばかりだ。野党も含めて、考えは全く十分ではない。こうした野党の慢心が与党の奢りを助長する。

 米軍兵・軍属・家族は、海外から、あるいは海外への出入り自由だ。ノー・パスポート。まして今回の共同訓練のように在日米軍兵外の兵隊は、如何にして入ってきたのだろうか? 全く不明なのだ。沖縄に居ない陸軍等の部隊が入ってきている。彼らが今回の影の立役者なのだ。

 何事も表向きの「公開」(宣伝)と隠蔽は違う。公開の裏に意図(悪意)がある。こうした動きを私たちは看破しなければならない。

 私は思う。関心がなければ、考えが及ばない。目に入らない。耳に聞こえない。肌に感じない。話題に昇らせることもない。「見ざる、聞かざる、言わざる」というよりも、もっと日常の感覚。素通りしていくだけだ。

 蝶の飛翔を見ていると、フェンス(隙間)を巧みに超えていく。見事だ。しかし道路を横断しようとして、車の風圧に接触し、犠牲になっている。蝶は動かない相手なら機敏に対応できるのだが、動く相手にはできないようだ。

 しかし我が人間達は、生きるために如何なる対応をするのか、どうにも鈍い。自分も、体調不良だと分かっていて、ノリだけで決行してしまい、ダウンを喫したばかりだ。偉そうなことを言えない。人間はあれこれ分けて考えることができるから、矛盾することを平気でやれる。極端に言えば、「愛しているよ」と囁きながら、虐殺に手を貸すことができる。メチャクチャな脳が悪いのだ。脳を支配できる政治が悪いのだ。

 「ノー!」という拒絶の言葉(言動)は、大切なことだ。理屈立てる以前に拒否する身体。「ノー!」という拒絶を発する主体であり、そこに相手を凝視する(凝視し得なくても)力。

 人間は特殊な、偏った生物だ。生きていることを、まま自覚できなくなる。戦争反対の根拠は、「生きようよ」ということにあると、私は考えている。「殺されたくない、殺したくない」のだ。しかし下手をすれば、殺人鬼になってしまうのがまた人間だ。この違いが分かる人間になることだ。なりたいものだ。

 「万物の霊長」を嗤え! 生きることに関心を持てば、疑問は尽きなくなる。調べたり、考えるようになる。悩むことは健全なのだ。悩む事で、自身と繋がり、新しい自身と出会えるかもしれない。悩むことで友もできる。自分ばかりが悩んでいると思うと「不幸な世界」に入ってしまう。自分の中の、もうひとりの自分。そして他人。他人(the Person)の中にも、もうひとりの他人がいるはずだ。

 



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