「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「三条大橋」(さんじょうおおはし)

2007年02月02日 00時30分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 東海道五十三次の出発点で重要な交通上の要衝であった三条、そこに架かる橋が「三条大橋」である。かつて橋の東北隅に橋の建設の由来を記述した「駒札」があり、京都市の名前で次のように記載されていた。
 『橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期にはすでに簡易な木橋が鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正18年(1580)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造をした。また、擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度とせしむるものなり。磐石の礎は地に入ること五尋(約9メートル)、切石柱は63本也(略)…」』とあり大工事であったことがうかがえる。
 以後たびたび流出したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復されてきたが、昭和25年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74m、幅15.5m。

 しかし「駒札」は、平成2年春まで存在していたが、翌年秋には無くなっている。橋の西北隅には、天正18年と刻まれた石柱が電話ボックス横の狭い場所に風雪に耐えてポツリとあった。 ここの橋脚用石柱を7代目庭師・小川冶兵衛が、平安神宮と円山公園にある池の飛び石(沢渡)や舟場に利用している。平安神宮では、神苑見学コースの最終出口のところに3本の石柱が置かれており、駒札には「この石柱は天正年間(370余年前)豊臣秀吉公が造営した三条・五条大橋の橋脚で、神苑内には50数個が保存されており、「津国御影天正17年」と銘のあるものもあり、中神苑の飛島にもこれらの石材が使用されている」と記されている。

 西より2つ目の南北擬宝珠には池田屋騒動時についたとされる刀傷がある。また、橋の西詰には十返舎一九の「東海道膝栗毛」の主人公・弥次喜多像が立っている。

 野次喜多は清水寺に詣でて、「清水の舞台から傘をさせば飛び降りても平気か?」と聞いて嫌がられたり、三条大橋付近に宿泊し、まんまと梯子を買わされる話などがユーモラスに出てくる。
 また、野次喜多像の下には旅の安全を祈願する「撫で石」がある。この石は鞍馬から産出した鞍馬石で、鉄錆色の珍しいもので、還来神社の「無事に還り来る」という信仰に習ったもので、撫でて旅の安全を祈願したという。

 京阪三条駅側、東詰には寛政の三奇人と称された高山彦九郎の「皇居望拜之址」の像がある。天下の公道で跪座した面構えは、悲壮感が漂っている。彦九郎は尊王の志厚く、当時の天皇家の衰微を泣いて嘆いたと伝えられる。

 近接の史跡を紹介しておくと、京阪三条駅の南、京阪三条南ビルの敷地内に「小川亭跡」を示す石碑が建てられている。小川亭の女将てい(大正12年7月10日、90歳歿)は、勤王ばあさんとして有名で、特に肥後藩の志士と親交が深く、その世話をした。当時、小川亭に出入りした志士として名を記録されているのは、住江甚兵衛、河上彦斎、轟武兵衛、宮部鼎蔵、山田信道、高木元右衛門、藤村紫朗、桂小五郎など。
 また、NHK大河ドラマになった「花の生涯」(舟橋聖一作)のヒロイン村山たか女が、長野主膳とともに大老井伊直弼に協力したという理由で捕縛され、生き晒しにされた場所でもある。(後、救出され金福寺の尼僧となる)文久8年(1863)2月13日早朝には等持院の足利三代(尊氏・義詮・義満)の木像の首が三条河原に晒されたこともあった。当時から三条大橋は人の往来が多かったので、そういった舞台に利用されることになった。

 三条大橋が駅伝の発祥の地であることを知る人が少なくなったが、最初の駅伝は、大正6年(1917)4月27日に行われた読売新聞社の主催による「東海道五十三次駅伝競走」とされる。京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池までの23区間、約508kmのコース、到着したのは翌々日の午前11時34分と記録に残る。この競走のスタートとゴールである三条大橋と上野不忍池の近くには「駅伝発祥の地」の碑が建っている。

 所在地:京都市中京区三条通
 交通:京阪電鉄三条駅下車、駅前。
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