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坂本龍馬 “夢とロマン”を放つ男

2024年05月25日 14時16分01秒 | 歴史

<以下の文は2010年10月20日に書いたものですが、一部修正して復刻します。>

1) 8年ほど前、所用があって高知市へ出かけたことがある。私が泊まったホテルは坂本龍馬の生誕地の近くにあったが、たまたま11月15日に「龍馬誕生祭り」が行なわれ、それを見る機会があった。偶然とはいえ、ラッキーだった。
  坂本龍馬は高知では大変な英雄だが、今や全国的に最も有名な歴史上の人物となっている。 なぜ、龍馬はそれ程までに人気があるのか。 日本史を少しかじった人なら大体分かっているだろうが、彼が明治維新に果たした役割は絶大なものがある。そして、それ以上に、我々は龍馬の中に、不朽の“夢とロマン”を感じるのではなかろうか。
  1835年(天保6年)11月15日に土佐に生まれた龍馬は、1867年(慶応3年)の同じ11月15日に、京都で盟友の中岡慎太郎と共に暗殺された。(慎太郎は2日後の17日に死亡) つまり、龍馬の人生はちょうど32年の短いものだった。
  その32年間の青春に、龍馬は維新回天の原動力となった「薩長同盟」を実現させ、徳川幕府265年の歴史に終止符を打つ「大政奉還」を実現させた。 地位も権力もない一人の青年が、これ程までの大業をなしえたことに、今更ながら深い驚愕を覚えるのである。
  龍馬の中に、我々は多分“無限の可能性”を見るのではなかろうか。この青年の中に、未来へ向けての“計り難い可能性”を予感するのではなかろうか。 満32歳で凶刃に倒れなければという痛切な思いが、おそらく“夢とロマン”を増幅させているのだろう。
 
2) 龍馬がもし10年、20年と更に生命を持続させたならと、いろいろ空想するのが私にはとても楽しいことである。 歴史に「もしも(if)」は禁物だが、龍馬や織田信長の場合は「もし、もっと生き長らえていたら」と、ついつい考えてしまう。そこが、龍馬が夢(空想)を与えてくれる由縁なのだ。
  例えば、作家の故・司馬遼太郎さんも「龍馬の命、長かりせば」ということで、いろいろ述べておられる。 司馬さんの小説「竜馬がゆく」(文藝春秋)の後書きでは、彼が生きていれば「鳥羽・伏見の戦い」は起こらなかったかもしれない、と予測している。 これは、大変重要なことだ。
 (私はここで、余りにも有名な龍馬の足跡を述べるつもりはない。そういうことは、龍馬の伝記等を読んでもらえれば、誰にも分かることだ。「もしも(if)」の世界から龍馬を見る方が、彼の偉大さがより分かりやすくなるだろう。それ程、この青年は我々に夢とロマンを与えてくれるのだ。)
 「鳥羽・伏見の戦い」は、龍馬が暗殺されてから1ヵ月半後に起きた。(1868年1月3日) いわゆる「戊辰戦争」の始まりである。これは、薩摩・長州などの武力倒幕派が、大政奉還をした徳川家(旧幕府方)の息の根を止めるために起こしたもので、およそ1年半続くことになる。
  龍馬は徳川幕府の大政奉還の後に、前15代将軍・徳川慶喜も含めた新政府の体制案を西郷隆盛らに示していた。これは平和革命(無血革命)の構想である。 当時の倒幕派の中に、このような平和革命を目指した指導者は少数派であった。(元々は、土佐藩を中心として唱えられた「公議政体論」に根ざした構想である。)
  ところが、龍馬が不慮の死を遂げたために、この平和革命(無血革命)の路線は完全に消滅していくことになる。 そして一挙に、武力で徳川幕府を潰そうという動きになり、鳥羽・伏見の戦いへと突入していったのだ。
 「もしも(if)」の世界からもう少し展望すると、龍馬が健在であれば、戊辰戦争ももっと早く収束していたかもしれない。 なにしろ彼は、旧幕府方にも人脈(勝海舟ら)があったし、日本全体の立場から物事を考える能力があったから、いろいろの手立てを講じることが出来ただろう。 彼は勿論、武力の効用は知っていたが、それ以上に平和主義的な手法を重んじていたからだ。
  例えば「征韓論」で明治新政府は大分裂したが、龍馬がいれば、もっと違った展開になったかもしれない。 更に明治10年の西南戦争においても、龍馬がいれば、おそらく西郷隆盛に対して何らかのアクションを取ることが出来ただろう。 この戦争の時は、木戸孝允(病気療養中だったが)や勝海舟らは何も出来なかったのだから。
  このように、龍馬がいるから、私は「もしも(if)」の世界に入ることが出来る。 それは、彼に“無限の可能性”を見るからだ。
 
3) 龍馬ほど、新時代のビジョンを明快に示した者はいない。 徳川幕府を倒すことでは、倒幕派の志士達の意志は一致していたが、その後の明確な国家ビジョンを持っていた者は他にいなかった。 龍馬の「船中八策」(1867年)の中に、将来の議会制度や憲法制定、条約改正などにつながる構想が既に示されているのだ。
  例えば、1868年(明治元年)3月に発表された「五カ条の誓文」の最初に、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という有名な一条があるが、これは「船中八策」の中の「上下議政局ヲ設ケ・・・万機宜シク公議ニ決スベキ事」の延長なのである。
 「五カ条の誓文」の起草者である由利公正(越前藩士)と福岡孝弟(土佐藩士)は共に龍馬の薫陶を受けていたから、これは当然かもしれない。 このように、龍馬は新時代と新国家の礎を築いて、明治維新の夜明け前にあの世へ去っていったのだ。
  龍馬が長崎に創設した「海援隊」は、海軍であると共に海運、貿易の結社であった。 この「海援隊」は倒幕のために、薩摩・長州・土佐の3藩を結ぶ接点となったが、龍馬にとっては最大の活動拠点となった。
  幕末、明治新政府の骨格人事を決める際、龍馬が西郷隆盛らと協議した時の話しも有名である。 龍馬が作った骨格案には龍馬本人の名前がなかった。いぶかしく思った西郷が「なぜ、坂本さんの名前がないのか」と質したところ、龍馬は「わしは役人が嫌いだから、ならん」と答えた。 それならば何をするつもりかと、西郷が更に質すと、龍馬は「世界の海援隊でもやりましょう」と答えた。
  これは、龍馬の本心であったはずだ。 維新の大業に最も貢献した龍馬は、本来なら「参議筆頭」(今で言えば首相)になってもおかしくはない。薩摩、長州など諸々の倒幕派の勢力を調整していけるのは、龍馬を除いて他に適切な人材はいなかっただろう。 しかし、龍馬は「参議筆頭」の地位を捨てた。そこに、この男の真骨頂がある。
 
4) 龍馬が「海援隊」を続けていたら、海運と貿易、そして開拓の大立者になっていただろう。彼は世界に雄飛したに違いない。 しかし、その実績と先見性からいって、新国家の「海軍創設」を無理やり押し付けられてしまったかもしれない。
  又しても「もしも(if)」の世界に入ってしまったが、海運や貿易への志は、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)へと受け継がれていく。 龍馬と岩崎は短い期間だったとはいえ、長崎で密接に協力し合った仲だったのだ。
  また、土佐と言えば、明治初期の自由民権運動を思い出す。 板垣退助、後藤象二郎、中島信行(いずれも龍馬の知人)を始め、中江兆民、馬場辰猪、植木枝盛らが輩出して、土佐(高知県)は自由民権の牙城といった感があった。 龍馬が生きていれば、当然こうした運動とも係わりが出来たであろう。
  龍馬自身が最も自由を尊び、民主主義に理解を示す人柄だったから、自分の知人の多くが自由民権運動を起こせば、黙っていられるはずがない。 空想するだけでも、彼がどのような行動を取ったかワクワクするような気持になってくる。
  ルソーの翻訳等で有名な中江兆民は“東洋のルソー”と言われたが、その先見性や識見から言えば、むしろ龍馬こそ“東洋のルソー”“日本のルソー”ではなかったのか。 明治維新という「ブルジョア民主主義革命」(ある学説)を成功させ、最も開明的な指針を示したのだから。
  日本の資本主義の成立にはっきりとしたビジョンを持ち、私生活では妻のお龍と初めて九州への新婚旅行(そういう“意識”を持って旅行した)をするなど、近代人として、同世代の人よりはるかに前進した何かを持っていたのである。
  あえて意地悪く、龍馬の業績を過小評価しようとすれば、彼の「公議政体論」的な平和革命主義は、薩長両藩の武力革命主義(武力倒幕論)に敗北したと言えるかもしれない。 しかし、それは違う。
  なぜなら、龍馬はもちろん武力の重要性を知っていたし、幕府による第2次長州征討戦の時は、高杉晋作と協力して艦隊を指揮し、幕府軍を撃破している。 それに、長州にはありとあらゆる軍事援助を行なっていたのである。
  そこで、はっきりと言えることは、龍馬によって「明治維新」が加速されたということである。「薩長同盟」を実現させ「大政奉還」を成就させたことで、革命は一挙に現実のものとなっていった。 要するに、龍馬は革命の“起爆剤”だったし、その“お膳立て”をしたのである。
  土佐の郷士の末子に生まれたこの男は、維新回天の大事業をやり遂げるために生まれてきたようなものだ。 天がそのために、この男を日本に遣わしたような感じである。 「龍馬の命、長かりせば」と思うところに、この青年に不朽の“夢とロマン”を抱かせる何かがあるのだ。 (2010年10月20日)


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