武弘・Takehiroの部屋

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日本の鉄道は大隈重信と伊藤博文が造った

2024年06月04日 10時00分35秒 | 歴史

<2002年2月6日に書いた下の記事を復刻します。>

日本の鉄道は、大隈重信と伊藤博文が造った。 私は昨年(2001年)12月のある日、たまたまNHKのテレビ番組「その時 歴史が動いた」を見た。 題名は「汽笛一声・日本の産声(うぶごえ)」であった。その番組を見て、最後の方で涙があふれにあふれて止まらなかった。これほど感動した番組はない。

内容は、大隈と伊藤が、あらゆる難関と障害を乗り越えて、日本に初めて鉄道を開通させる物語であった。二人の不撓不屈の精神が、日本に初めて文明開化の証しを打ち立てたのである。 このNHKの番組を見ていない人も多いだろうから、以下、VTRに保存した番組に忠実に従って、私見も入れながら内容を紹介させていただく。

1) 大隈と伊藤が日本に鉄道を開設しようと思い立った時、二人はまだ30歳そこそこの少壮官僚であった。二人は当時の民部・大蔵両省の役人で、大隈が今でいう次官、伊藤が局長であった。
二人には、鉄道に対する熱い思いがあった。 大隈は佐賀藩にいた当時のまだ10代の若い頃に、藩が作った模型の蒸気機関車が動くのを見て、これが文明のシンボルだと感激したのである。 一方、伊藤は22歳でイギリスに留学した時に、大英帝国に張り巡らされた鉄道を見て驚愕したのである。以来、二人にとって、鉄道を日本に開設することが大きな夢となった。
明治2年(1869年)、大隈と伊藤は偶然、民部・大蔵両省で仕事を同じくすることになった。 これは正に天の配剤であった。二人は鉄道建設に向けて、すっかり意気投合したのである。明治新政府は、二人の鉄道建設を求める建議書を認め、いよいよ日本にも鉄道開通の道が開かれることになった。

2) ところが、大隈と伊藤の前に、想像を超える難問が山積していたのである。 当然のことだが、借金まみれの新政府には金がなかった。勿論、鉄道建設の技術もなかった。さらに、直接の上司である明治政府の実力者・大久保利通は、鉄道建設には無理解だった。大久保は、治安維持や軍事にもっと金をかけたいと思っていたのである。
その上に当時の世論は、「機関車は煙りを吐く魔物だ」とか、鉄道の開通で「沿線の宿屋、かご屋が潰れてしまう」と、激しく反対したのである。 また、鉄道建設予定地の地主達は、ほとんどが用地買収に反対を表明した。これでは、正に四面楚歌、二人の周辺には恐るべき困難と障害が起きていたのである。
しかし、大隈と伊藤は、始めたことは進めなければならない。 まず資金の面で、当時の商人達に出資を求めた。鉄道開設に協力したら、莫大な利益がもたらされるだろうと説得した。ところが商人達は、「そんな得体の知れないものに、金が出せるか!」と、出資を拒否した。

3) 金のメドが立たず困っている二人の所に、アメリカ公使館の人が訪ねてきた。日本の鉄道建設に、資金面で協力するというのである。しかし、話を聞いていると、金は出すが鉄道の運営権はアメリカが持つ、というのである。大隈と伊藤は、その申し出をただちに断った。
その大きな理由はこうだ。 当時、欧米先進諸国は植民地に鉄道を敷設して、搾取した物資を運ぶ手段に使っていたのだ。そして鉄道を武器にして、さらに植民地化を進めていたのである。 伊藤は、留学先のイギリスからの帰途、インドやアフリカで、そうした実態をつぶさに見てきたのである。 鉄道の運営権を与えれば、日本は植民地化される恐れがある。大隈と伊藤が、アメリカの申し出を断った理由はそういうことである。
当時のアジアは、インドがイギリスの植民地になっていたのを始め、中国(清)は、欧米の列強に絶えず侵害を受けていた。明治維新で新国家を築いたばかりの日本は、まだ極めて弱小国家である。いつ、インドや中国(清)の二の舞いになるかもしれない。そういう恐怖が厳然としてあったのである。二人がアメリカの申し出を断ったのは、当然であったろう。

4) 次に、大隈と伊藤の所に現れたのは、イギリス人の投資家であった。彼は、個人的に出資をしたいと言ってきた。個人的な出資であれば、日本が植民地化される恐れはない。 利率は年利12%と高かったが、ここまで来て背に腹は変えられない。ようやく資金のメドがついたかと、二人は安堵して、イギリス人の申し出を受け入れた。 
金の工面が出来て、いよいよ鉄道建設がスタートする。明治3年(1870年)3月、新橋駅の着工が始まった。 鉄道建設は、ようやく軌道に乗ったのである。 ところが、そこに思いも及ばない事態が発生した。例のイギリス人が母国で、日本の鉄道建設のために出資者を募っていたのである。利率は9%だという。彼は9%の利率で出資を募り、12%の利率で日本に貸し付け、3%の利ザヤを稼ぐというのである。 
その情報がイギリスから伝えられると、世論は激昂した。1銭も金を使わずに、巨額の利益をあげるというのは「詐欺」だ! 起債制度のない当時の日本では、そんなことは夢にも考えられないことである。 「大隈や伊藤はイギリス人にだまされたのだ!」「恐れ多くも、天皇陛下の土地を外国に切り売りしようなんて、売国奴だ!」 世論は憤激して、その矛先は大隈と伊藤に向かった。二人の所に脅迫状が届いた。 大隈と伊藤の命を狙う暗殺者が徘徊した。 イギリス人にだまされた以上、二人の立つ瀬はない。ついに大隈が、責任を取って鉄道担当を外された。イギリス人との契約は反故にされ、鉄道の着工は中断となったのである。

5) 大隈と伊藤は、悶々たる日々を送るようになる。大隈は暗殺の恐怖から、この世の終わりとばかりに毎晩酒を飲み、伊藤は同じ恐怖から眠れぬ毎夜を過ごした。 しかし、そのまま終わってしまっては元も子もない。二人は鉄道の夢を忘れたわけではない。日本の近代化のためには、なんとしても鉄道が必要なのだ。その思いは募るばかりである。
ある日、大隈は意を決して、あえて危険な賭けに出た。外国の圧力を利用して、鉄道工事の再開を政府に認めさせようというものである。彼は、当時最も影響力のあるイギリスのパークス公使に直談判し、日本政府に働きかけて欲しいと頼んだ。大隈の熱意が通じたのか、パークスに何か思惑があったのかどうか分からないが、彼は日本政府を説得することになった。
パークスは、日本が近代国家になるには鉄道の建設は不可欠であると、熱心に日本政府に説いた。当時世界最強のイギリスの公使に説得されて、政府もついに鉄道建設を了承せざるをえなかった。 こうして、大隈は再び鉄道担当に返り咲き、イギリスの銀行から借金をし直すことになった。イギリスから100万ポンド借りたが、鉄道建設には、その内30万ポンドしか割り当てられず、残りの70万ポンドは政府の財政再建に当てられることになった。

6) 当初、大隈と伊藤は、新橋から大阪までの壮大な鉄道建設を計画していたが、資金不足など幾多の障害が起きたため、当面、新橋から横浜までの路線に短縮せざるをえなかった。 それよりも、新政府の国家事業の目玉として、一刻も早く鉄道開通を実現したかったのである。
二人はイギリスから技術者を雇い入れ、神業のように早く鉄道を造って欲しいと要請した。資金も不足しているので、枕木には鉄を使わず、木を使うことにした。多摩川の橋も鉄骨や石を使わず、木造とすることになった。機関車も、発注していると遅くなるので、イギリスが当時のセイロン島に送ることになっていたものを、急きょ取り寄せることにした。 こうして、鉄道建設はなんとか軌道に乗ることになった。
ところがここに来て、またまた大問題に直面することになる。前述したように、ほとんどの地主が土地の買収に応ぜず、立ち退きを拒否するのだ。特にひどいのは、高輪の旧薩摩藩の屋敷で、ここは立ち退きどころか、測量さえ認めようとしない。旧薩摩藩は、旧長州藩と並んで、明治維新の最大の原動力になった所である。西郷隆盛や、大隈らの上司である大久保利通といった維新の元勲を擁している。 大隈や伊藤がいくら頑張っても、とても太刀打ちできる相手ではないのだ。

 鉄道用地の買収は、完全に暗礁に乗り上げた。もはや万事休すという状況である。あらゆる難関を突破してきた大隈と伊藤ではあったが、今度ばかりは手の打ちようがない。 二人は進退きわまって、絶望感に打ちひしがれた。鉄道建設はもうダメか・・・しかし、その時、大隈の頭脳に稲光りが走った。奇想天外な策が浮かんだのである。彼は「妙案がある」と伊藤に告げた。そして、「陸がダメなら、海だ! 海の上を行けばいいじゃないか。海の上に石垣を築いて、その上に線路を作るんだ!」 大隈は叫んだ。
『窮すれば通ず』という言葉がある。 大隈の頭脳に稲光りが走ったのは、正にこういう状況であったろう。大隈と伊藤の意志が天に通じたのだ。不屈の意志を持った者に対してのみ、天は“天才的なひらめき”を与えるのだ。 大隈のアイデアは、イギリス人の技術者に認められた。海岸沿いに石垣を築いて、その上にレールを敷くことは充分に可能であるという。ついに大隈達は、打開策を発見したのだ!
しかも、この打開策は、用地買収の面倒な手間もいらなければ、立退料を払う必要もない。その上、新橋・横浜間を最短の距離で結ぶことになる。一石三鳥とはこのことだ。大隈と伊藤は勇躍して、夢の鉄道建設に最後の拍車をかけることになった。

7) 新橋・横浜を結ぶ鉄道は、全長29キロに及ぶ。その内、10キロ近くが海の上を通るという、世界に類例のない画期的な路線工事がはじまった。 海上路線は、海岸から50メートル沖合いに高さ4メートルの石垣を築き、その上にレールを敷設していった。一刻も早くということで、工事は急ピッチで進められていったのである。
そして、明治5年(1872年)9月。大隈と伊藤が夢にまで見た鉄道が、ついに完成した。 9月12日、その時が来た。さわやかな秋空が広がる下、新橋駅で歴史的な鉄道開通式典が挙行された。 天皇陛下を始め、政府の顕官らが9両編成の特別列車に乗車。午前10時、第1号機関車は勢い良く汽笛を鳴らす。汽笛一声、機関車はゆっくりと動き出した。 その時、日本は近代化の第一歩を踏み出したのである。 特別列車は、民衆の歓呼の声の中を横浜へと走り去っていった。それと共に、鉄道への反対や非難の声も消えていったのである。

8) 明治維新後わずか数年で、日本が鉄道を開通させたことは世界中を驚かせた。極東の弱小国家が、まさかこんなに早く自前の鉄道を建設するとは、思ってもみなかったであろう。
大隈と伊藤の夢は実現した。特別列車に乗った上司の大久保利通も、「愉快にたえない。鉄道の発展なくして、国家の発展はありえない」と語ったという。1日にして、大久保も鉄道ファンになったのである。新橋・横浜間は徒歩で10時間もかかっていたのに、鉄道でたったの53分に短縮された。正に近代文明が開花したのである。
政府は大隈と伊藤の労をねぎらうため、二人に書付を授与した。「鉄道創建の始め、物議紛々を顧みず、定見を確守し、ついに今日の成功に及びしことは、叡感(注・天皇陛下が感心しておほめになること)浅からず」というものであった。 大隈と伊藤は感涙にむせんだ。二人の努力がようやく実を結んだのだ。思えば鉄道建設を建議してから約3年、幾多の難関、障害を乗り越えてようやく成功に達したのである。
鉄道開通を期に、日本は真に近代化のスタートを切ったのだ。政府はその後、全国に鉄道網を張り巡らしていくことになる。

9) 人間の関係とは面白いものである。もし、大隈と伊藤が期せずして鉄道担当にならなかったら、日本の鉄道開通は明らかに遅れていただろう。鉄道に夢と情熱を抱く二人が、たまたま同じ担当になったことで、鉄道建設に拍車がかかったのである。これは正に天の配剤であったと言えよう。
後に、大隈重信と伊藤博文は明治政府の要人となり、やがて二人とも内閣総理大臣を務めるなど、近代日本の政治に偉大な足跡を残すことになる。 鉄道建設当時の不屈の精神、その非常な労苦、変わらぬ熱意を思えば、二人が後日、日本の政治に大きな貢献を果たしたのはけだし当然の結果と言える。
以上、私はNHKの番組「その時 歴史が動いた」に触発されて、鉄道開通物語をまとめてみた。番組のVTRにできるだけ忠実に従って、私見を交えながらまとめたつもりだ。 このホームページを読んだ方々には、鉄道開通に至る苦闘の史実を理解していただいたと思っている。 私は、この物語を打ち込んでいる最中にも、感動に襲われ涙があふれてきた。 「汽笛一声・日本の産声(うぶごえ)」は、実に素晴らしい内容の番組だったと思う。この場を借りて、NHKに感謝したい。(2002年2月6日)

 後書き・・・日本の近代化を開いた第1号機関車は、東京・神田須田町の「交通博物館」で静かに余生を送っていたが、「交通博物館」が2006年5月14日閉館したため、2007年10月14日より、さいたま市にオープンした「鉄道博物館」に展示されている。


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