武弘・Takehiroの部屋

兵庫県の斎藤元彦知事は辞める必要はない。
県民の直接選挙で選ばれたからだ。
それが民主主義というものだ!

“やまとなでしこ”は消えない!

2024年09月01日 13時52分50秒 | エッセイ・私事など

<今は少し考えが違いますが、2002年10月に書いた以下の記事を復刻します>

1) 2年ほど前だったが、民放テレビのドラマで「やまとなでしこ」というのを放送していた。「人生は金なり」という松嶋菜々子さん扮するスッチーが、やがて真実の愛に目覚めて、最後に魚屋の独身男性と結ばれるという話だったと思う。
その時、久し振りに大和撫子(やまとなでしこ)という言葉を聞いたような気がした。なにか新鮮な感じがした。 というのは、「大和撫子」という言葉自体が、化石か死語になってしまったと思っていたからだ。
若い人達は「やまとなでしこ」とは何か、国語辞典をひもといただろう。 そして「大和撫子」とは、日本女性の美しさ、清らかさを讃えた言葉であることを知ったに違いない。 これは、日本の男性が永遠に憧れるものなのである。そういう意味で、「大和撫子」の言葉が一般的に復活したことは嬉しい。

ところで、現実の日本を見ていると、時々「やまとなでしこ」はどこにいるのだろうか、と考えてしまう。 多分いるはずなのだが、なかなか眼前に現われない感じがするのだ。 実は“茶髪”に姿を変えて、そこにいるのかもしれない。しかし、どうも見えにくい感じがしてくるのだ。
「やまとなでしこ」なんていう言葉は、戦前の国是といった“良妻賢母”の名残りみたいなものだろう。 戦争に敗れて、昔の美名は風化してしまったのだ。しかし、それが復活してくるということは、単に懐古趣味というだけでなく、日本の男性が胸の奥底深くに抱く夢なのかもしれない。

2) 昔、原節子さんという女優がいた(ご本人は今でも健在だという)。 清楚で美しく、しとやかで慎ましく、日本女性の典型のような存在だった。 イメージとしては、こういう人が「やまとなでしこ」なのだろう。
映画などの「宮本武蔵」に出てくる“お通”もそうだ。 昔、八千草薫さんが演じたそれは、純朴でひたむきで、無私で真実な“お通”を見事に体現していたと思う。(若き日の八千草薫さんの可憐さは、未だに脳裏に焼き付いている) タイプとしては、こういう人が「やまとなでしこ」なのだろう。
現実の日本では、こういう女性は稀(まれ)のように思われる。時代の変化によって、こういう女性を望むことは困難であろう。 現代の「やまとなでしこ」は、もっと形を変えた存在としているはずだ。
しかし、現代の日本では、先程も述べたように、「やまとなでしこ」を見るのは難しいようだ。 逆にそうでない現象を、我々はあまりに多く見せつけられているのだ。 極端な例かもしれないが、テレビ等で自分の下着を1万円で売りつける少女などを見ていると、なんと破廉恥なことかと、ほとんどの人達が嘆くだろう。

 勿論、マスメディアはそれを批判的に取り上げているが、どこか興味本位に扱っている節もうかがえる。 プチ家出の少女が東京の夜の街を徘徊し、ビルの屋上で寝泊まりしているのを、厳しく諭すわけでもなく、まるで現代の“風物詩”のような感じで放送しているのもあった。
社会環境が、昔とまるで変わってしまったのは事実である。特に都会での激変は凄まじい。 それは仕方のないことだが、少年少女達の自堕落な生活振りを、さも現代風だと言わんばかりに取り上げたとすれば、マスメディアも落ちたものである。
こんな社会環境、こんな低俗なマスメディアの下では、「やまとなでしこ」どころか、逆に不良少女ばかりが生まれてきそうだ。 いかがわしい男に少女が売春することを、“援助交際”などと馬鹿げた命名をしたのは誰か。日本のマスメディアではないか! まるで、売春や買春を奨励しているように聞こえるではないか。 恥を知れ!と言いたい。

3) テレビのCMを見ていると、お父さんら中年の男性が馬鹿にされたり、揶揄されているものが非常に多い。 これが現代風というものだろうが、その場合、中年の男性をからかったり皮肉ったり、馬鹿にしているのは、おおむね女性である。
普通は微笑ましく見られるのだが、中にはキワドイものもある。さすがに老人(男性)をからかったり、馬鹿にするようなCMは皆無と言ってよい。 しかし、中年の働き盛りの男性が、やたらに馬鹿にされているようなCMを見ていると、還暦を過ぎた私などは腹が立つこともある。
戦後、あらゆる面で女性が強くなり、男性が弱くなったことは事実である。 これは相対的なものだが、戦前、女性の地位があまりに低かったことを思えば、仕方のないことだと言えるかもしれない。 しかし、悪い例になるが、犯罪の面でも女性による凶悪な事件、殺人事件などが増えていることも事実だ。 これも現代風と言えるのだろうか。

 こうしたことを考えると、昔風の「やまとなでしこ」というのは、現代においてはほとんど絶望的と思われる。 これは、日本の男性の恣意的な願望ということで片付けられそうだ。しかし、我々日本の男性は「やまとなでしこ」に憧れ続けるだろう。
ところが、その日本の男性は、戦後どうなったのか。 弱くなったと言ってしまえばそれまでだが、かつての凛とした「日本男児」「ますらお(益荒男)」は、ほとんど姿を消してしまったのではないのか。 実は日本の女性は、そういう「りりしい」日本の男性に憧れているはずだ。 そういう意味では、お互いさまである。
(私が若い頃、ある有名な独身の女性評論家が次のように言った。「日本には、男らしい男がいなくなった。立派で勇敢な男性はみんな戦場で死んでいった。 残ったのは、どうしようもない男(クズ)ばかりだ」と。 非常に厳しい見方だが、日本の男性は心して聞いた方がいいかもしれない。)

4) さて、日本の男女が、お互いに嘆いているばかりでは仕方がない。「やまとなでしこ」も「日本男児」も姿を消したとなれば、それだけ希少価値が出るというものである。 ダイヤモンドや、絶滅寸前の生物を探し求めるようなものだ。
私は男だから、どうしても「やまとなでしこ」に憧れる。 今年6月、友人から「日本には“やまとなでしこ”はいないが、モンゴルには沢山いる」と甘い言葉をささやかれ、勿論それだけの理由ではないが、モンゴルへ旅行したことがある。(別稿「モンゴルで感じたこと」を参照) そして、私なりに現地で「モンゴルなでしこ」を発見したつもりだ。(別稿『モナ・リザ』を参照)
できれば、「やまとなでしこ」は日本にいて欲しい。「日本男児」も是非いて欲しい。 しかし、強くてわがままな“猛女”が羽振りを利かし、柔弱でメソメソした“優男(やさおとこ)”が持てるような日本ではないか。 こんな日本に誰がしたのか! 戦後民主主義のせいなのか。

 話しは少し変わるが、一昨日、北朝鮮に拉致されて死亡したといわれる横田めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさん(15)のインタビューをテレビで見た。多くの日本人が見たと思う。 他の人はどう感じたか知らないが、私には、ヘギョンちゃんは純粋で飾り気がなく、素直そのものに見えた。
これは、北朝鮮が拉致事件の幕引きを計るためのプロパガンダとか、したり顔の識者らがコメントしていたが、そんなことは勿論分かっている。 それはそうだが、私はヘギョンちゃんの顔を見ているうちに、わが「やまとなでしこ」のことを連想し、この文を書く羽目になってしまった。
北朝鮮の体制が悪いことは百も承知だ。 そんなことはいくらでも書いてきたが、私が感じたことは、北朝鮮には、ヘギョンちゃんのような「朝鮮なでしこ」が無数にいるのではないか、ということである。
「将来の夢は?」と聞かれ、ヘギョンちゃんは「朝鮮労働党の活動家になること」と、愛くるしい笑顔を浮かべて誇らしげに語った。 党と国家への忠誠心に輝いているように見えた。 今の日本に、このように答える少年少女がいるだろうか。勿論いないだろう。
ということで、私が考察するところ、民主主義国家には「なでしこ」は育ちにくいという考えに達した。「なでしこ」は全体主義国家に生まれやすいのではないか。 日本も戦前は、天皇を現人神(あらひとがみ)として崇め、君に忠、親に孝といった「教育勅語」があり、忠君愛国の精神に貫かれていた。(事の善し悪しは別として) こうした中から、無数の「やまとなでしこ」「ますらお」が誕生してきたのである。

5) これを色彩に例えると、全体主義国家は「原色」で、民主主義国家は「混色」なのである。 なぜなら、全体主義では唯一絶対の価値観しかないが、民主主義では様々な価値観が認められているからである。
ところで、原色と混色では、どちらが美しく清々しく見えるかといえば、勿論それは「原色」である。 原色の方が、人間の視覚にはるかに強く、鮮やかに映るからである。 先日の釜山でのアジア大会でも、北朝鮮の若い女性の応援団は実に美しく、鮮やかに映っていた。 みんな「朝鮮なでしこ」のように見えたではないか。 北朝鮮が得意とするマスゲームも、一糸乱れぬ原色的な美しさを誇示している。
戦前と違って、民主主義の「混色国家」となった今の日本では、もはや「やまとなでしこ」は見つけにくいのだ。 我々日本の男性が憧れる「やまとなでしこ」は、茶髪のお嬢さん達の中に潜んでいるかもしれないが、それを見つけ出すことは容易ではないのだ。

 勿論、政治体制から見れば、独裁統制の全体主義国家・北朝鮮よりも、民主主義の日本の方がはるかに良いと言える。我々はそれを誇りにすべきだ。 しかし、あまりの価値観の多様性が、文化の面でも社会の面でも、玉石混交というか混在というか、ミソもクソも一緒くたにしてしまったのである。
このように考えると「やまとなでしこ」も「ますらお」も、もはや戦前の遺物になってしまったのかもしれない。 しかし、清楚で美しく、ひたむきで純粋な“日本女性”に我々は憧れる。日本の若い男性諸君は、これからも「やまとなでしこ」を探し求めていくだろう。 
「やまとなでしこ」よ、永遠であれ!と叫びたい。 (2002年10月27日)


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