武弘・Takehiroの部屋

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織田信長・日本史上、不世出の改革者

2024年07月08日 02時46分26秒 | 歴史

〈以下の記事を復刻します〉

織田信長の肖像画(三宝寺所蔵)

織田信長については、実に多くの伝記や歴史小説が出ているので、ほとんどの人がその存在を知っていると思う。 また、私などよりも、信長について詳しく知っている人は大勢いるはずである。 従って、具体的な事例を示しつつも、むしろ私の“信長観”をできるだけ語っていきたいと思う。
 一言でいって信長は、日本史上、類例を見ない改革者であり、おそらく今後も、このような改革政治家は、二度と出現することはない存在と言えよう。 そういう意味で、“不世出”の人物である。

1) 信長の奇行や残虐さはよく知られている。 父・信秀の葬儀の時に、礼装するどころか、茶せん曲げの髪に袴もはかず、抹香を仏前に投げつけて、さっさと退場したことは有名な話だ。 誰もが、尾張の大うつけ(大馬鹿者)と思ったにちがいない。その他にも、奇行の例は枚挙にいとまが無い。 若い頃の信長の狂態は凄まじいものがあったので、守役の平手政秀が割腹死して諌めたが、それでも信長のうつけぶりは治まらなかったという。

 残虐さも凄まじいもので、これも枚挙にいとまが無い。 比叡山の焼き討ちの時は、憎っくき坊主だけでなく、女も子供も含めて4000人を皆殺しにし、伊勢長島の一向一揆の討伐の時には、最後に2万人を焼き殺して、上機嫌で引き上げていったという。 まさに、“大魔王”と呼ばれる由縁である。また、お手討ちも好きだったようで、自ら血刀を振りかざし多くの人の首を切っていった。こういう時は家来が必死に止めようとしても、逆上した信長には通じなかったという。

 信長の残虐ぶりを紹介していったら、とどまる所を知らないので、もう止めにしたい。 とにかく彼は、“異常”に近い性格の持ち主だったようだ。今で言う“人格障害”だったかもしれない。 天才と狂人は紙一重と言われるが、彼の場合は、天才と狂気の両方を兼ね備えていた感がする。 とにかく、物事を極端にまで徹底的にやり抜く点においては、彼の右に出る人はいなかったのではないか。

2) 信長の極端なまでの徹底ぶりは、「合理主義」の面で最も如実に表れている。 この人の合理主義というのは、中世末期のその時期では、信じられないぐらい徹底していたのではなかろうか。 尾張の武将の子として生まれたのだから、軍略と軍事力に関心を持つのは当たり前だが、彼は父から家督を継ぐ前の満15歳の時に、近江の鉄砲鍛冶に500挺もの鉄砲をすでに発注している。

 これは、種子島に鉄砲が伝来した年(1543年)から、わずか6年後のことである。 年少にして彼は、鉄砲の威力とその大量生産の可能性を見抜いていたのだ。当時の武将及び武将見習いの中で、これほど最新兵器に着目した人間は、他にあまりいなかったのではなかろうか。 後日、数々の戦いを経て、長篠の決戦(1575年)では武田勝頼軍を、鉄砲隊の一斉射撃で壊滅させたことは有名な話である。このような大銃撃戦は、世界戦史上初めての快挙だと言われる。

 戦争の話でもう一つ特筆すべきものは、毛利水軍を撃破した大坂湾の木津川沖の海戦(1578年)である。 当時、中国の毛利軍は、信長と戦っている石山本願寺を救援するため、無敵の水軍を派遣して織田水軍をさんざん打ち破っていた。

 信長は当初、部下の進言をきいて自ら手を打たなかったが、毛利水軍に太刀打ちできないので、自分の独創で巨大な鉄甲戦艦を建造することにした。 この鉄甲戦艦は大砲3門のほか、大量の鉄砲を備える“海の要塞”であった。鉄甲戦艦などというものは、当時の先進ヨーロッパにもない最新鋭の戦艦であった。

 1578年11月6日、織田水軍の巨大鉄甲戦艦6隻が、毛利水軍600余隻と木津川沖で戦端を開いた。 鉄甲戦艦は毛利水軍によって火をかけられたが、まったく燃え上がらなかった。 やがて鉄甲戦艦の大砲が炸裂し、銃弾が雨あられと毛利水軍に降り注いだ。数の上では100倍以上の毛利水軍は、みるみる内に壊滅していったのである。 戦いは、織田水軍の大勝利で終わった。(以上の記述は、「歴史群像シリーズ・織田信長」学研発行を参考にした。)

 大銃撃戦といい巨大鉄甲戦艦といい、財力をバックにした、信長の徹底した「合理主義」の勝利である。 尾張の兵隊は“弱兵”で有名だったが、信長の合理主義による軍備編制で、戦国最強の軍隊に成長していったのである。

3) 信長ほど、神・仏や宗教心に縁のない人も珍しい。 これは、徹底した合理主義の裏腹ということだろうが、“中世の臭い”がまったく感じられない。完全な唯物論者に見える。 本願寺でも一向宗徒でも、敵であれば「クソ坊主」であり、歯向かえば焼き殺すということである。 そこには、一片の宗教心もないのだ。冷酷非情のかたまりという感じがする。

 信長が“神”の概念を認識したのは、キリシタン宣教師の話を聞いてからではないだろうか。 フロイスやオルガンチノら宣教師から、デウス(神)の存在を教えられてから、彼は地上のデウスを目指したにちがいない。 あるいは神の化身として、「天下布武」の信念を実現させようとしたにちがいない。 その神がかりが、また多くの敵を作っていったことにもつながる。

 明智光秀が主君・信長に敵意を抱いて殺したのは、数々の怨恨や個人的な恐怖からだけではない。 数少ないチャンスを生かして天下を取ろうとしたのは間違いないが、最終的に朝廷(天皇)をも乗り越えようとした、信長の神がかりに憎悪し、それに敵意を抱いたこともあったと思う。 光秀は合理主義者であったとはいえ、中世的な旧勢力の世界観を持っていたことは明らかで、彼から見れば、信長は許すべからざる新勢力の“大魔王”と映ったであろう。 いずれにしろ、信長が“神”という概念を認識したとしたら、それは自分自身のことだと理解したように思われる。

4) 信長の合理主義が花開いたのは、もちろん軍事面だけではない。 世に名高い「楽市・楽座」は、現代風に言えば、自由化と規制緩和の象徴みたいなものだ。 楽市・楽座は、自由取引を原則とする商業政策と言われるが、信長が安土城下に発布したそれは特に有名である。 16世紀後半から始まっていた楽市・楽座を、更に発展させたのが信長である。

 中世的な座の特権を廃止し、市場税や営業税を免除しようというのだから、商売人にとっては、これほど自由で素晴らしい制度はない。 商人や職人がどんどん安土城下に流れ込み、“楽園”に定住しようとする。こうなると当然、人間や物資、商品、技術が集積されていって町は繁栄していく。 こうした自由化と規制緩和の政策を、最も大胆に積極的に推進したのが信長であった。

 新しい時代に対応する能力と柔軟性を信長は持っていた。 その点が他の戦国大名、例えば武田信玄、上杉謙信らと大きく異なる所である。 信玄も謙信も名将ではあったが、『富』つまり、人間の動員力と物資の豊富さでは、信長にはるかに及ばなかったのである。

5) 新しいもの、珍しいものに飛びつく点においても、信長に比肩する戦国大名は他にいなかっただろう。 好奇心旺盛、進取の精神に富んでいるとしか言いようがない。 先に鉄砲の話を紹介したが、西洋の文物に対する関心は大変なものがある。 キリスト教を保護した話は有名だが、宣教師らから貪欲に西洋の知識を吸収している。 また、黒人(ニグロ)の男を見てびっくりするのは当然だが、彼にいたく興味を持ってしまうのだ。

 「地球は丸い」ということを、本当に実感していたのは、当時の日本人でどれほどいただろうか。 西洋の地球儀と戯れながら、信長はそれを実感していたにちがいないと思う。 地球は丸かろうが平であろうが、そんなことはどうでもよい時代だが、彼のような人間なら、地球は丸いと感得していただろう。

 48歳で非業の死を遂げなければ、信長ほどの人物であれば当然、海外への進出を考えたであろう。 新奇なものへの異常な関心、スペインやポルトガルのアジアへの侵略、当時の倭冦の侵攻などを思えば、信長にあと10年の命があれば、中国や東南アジアを中心に、日本の海外進出(侵攻や通商貿易)は現実のものになっていたかもしれない。 現に、信長の後継者である豊臣秀吉は、明国の征服を目指して朝鮮に二度も出兵したのだから。

6) 話が少しそれてしまったが、軍略の面でも政治の面でも、信長は“中世の遺物”をことごとく破壊してきたのだ。 それが良かろうが悪かろうがの問題ではなく、彼はそのために生を享け、そうするように運命づけられていたのだろう。 この時代に、どうしてこのような人物が登場したのか、不思議な感じがする。 “中世の感覚”から考えると、あまりに異常であるとしか言いようがない。 やはり、信長は天才だったのだろう。

 もし、信長が今の時代に生を享けていたら、21世紀前半の日本の改革を、4~5年で全て成し遂げていたかもしれない。 もちろん時代も違うし政治形態もまったく異なるから、勝手な予測はできないだろう。 しかし、このような人物は、それ以前にもそれ以後にも見当たらない。 もしいたとしたら、誰なのか教えて欲しい。(高杉晋作、坂本竜馬などの名前を挙げる人もいるだろうが)

 私から見れば、信長はやはり“不世出”の人間である。不世出の改革者である。 今の日本にもいないし、今後も現われないだろう。 仮に現われたとしても、旧勢力の全ての人(守旧派の全ての人)と戦うわけだから、命がいくらあっても足りないだろう。 改革の中途で非業の死を遂げる運命にあるかもしれない。 (2002年3月31日)


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2 コメント

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彼の最大の功績 (ヒデ★)
2012-08-05 23:50:10
それは「政教分離」を断行した事でしょう。
その実行が一番被害をこうむったのではないでしょうか。
身内も亡くす程の抵抗と激戦だったようです。

今の日本でもそれをできるのか・・・、できないでしょう。
そういう事を今よりそういう風潮が強い時代にやったのですから
とんでもない人です。

お役所体質の日本から彼の実行した合理性重視のトップダウン型に移行しないと
日本はずっと沈んだままな気がします。
とにかくスピード感が日本には欠けています。
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政教分離 (矢嶋武弘)
2012-08-06 04:47:28
あの時代に、政教分離を断行した信長は物凄いと思います。
今の日本で、あのような事が出来る人物がどれほどいるでしょうか。時代があまりに違いますが、あれほどの英傑はほとんどいないと思います。
民主主義社会なので、かえって難しい面があるでしょう。
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