はーぴー日記

イラストレーター&デザイナーはらだゆきこの日記です。

「アトミックサイト」展について:たとえ間違えているとしても、今、今、今  

2011-08-18 01:59:54 | Weblog
今日は、かなり遅い時間(閉館時間20分前)に
アトミックサイト展会場にたどり着いた。
東向島は、なんと遠いことか。(駅からも迷った)

展示の感想は、まずは混沌。
(今みたらイルコモンズブログで楠見さんもそう書いてたけど)
ふたつめは、スピード感。
しりあがり寿の「あの日からのマンガ」の帯に書かれていた
“「たとえ間違えているとしても、今、描こう」と思いました”という言葉と同質のもの。
3番目は、見終わった後に、「自分だったらこういう展示やるなぁ」とアイデアがいろいろ浮かんだこと。


ブランコ下の土たちの線量の高低は、「目で見てもなにもわからない」という
ことをあらためて実感させられ、
石川雷太の鉄ポスターは、どこか「ペルソナ」展での福田繁雄のポスター群を思い起こさせた。

デモのプラカードとか公募してた気がするのだけど、
結局どのくらい集まったのだろう(原発供養のところにあったものだろうか)。
あれは、いろんなデモに行って、いいプラカードとかおもしろアイデアの人を
ナンパして増やしていたら面白かったんじゃないかな。
デモでなにか表現しようって人は、アトミックサイトの展示を面白く
見れると思う。
あと、遅く行ったものだから映像関係が全然見られなかったのが、大変心残り。

私は、今回の「アトミックサイト」の展示のきっかけとなった
「アトミックラウンジ」(主にアーカイヴ展示)にはぴんと来なかった。
自分の読み取り能力が低いのかな、と考えてみたけれど、よくわからず。
これはイルコモンズさんのためのアーカイヴだと思った。
インフォショップが機能するのは、店主がいるからで、
訪ねて来た人と店主との対話で、インフォショップにあるモノは生かされていくのではないかと。
とすると、あそこにある情報を“生きたもの”にするには、
イルコモンズ・アカデミーをするとか、アーカイヴをセレクトした店主のことば、
あるいはナビゲーター的情報がもっと必要だったと思う。
ただ、今回の展示では、他のフロアの情報量を考えると、
アーカイヴ展示のそっけなさは、ちょうどいいさじ加減だったのかもしれない。
(※ただ、アーカイヴ展示にしりあがり寿の「あの日からのマンガ」が入っててほしかったな。)

憂鬱な未来のはじまりを感じる展示だった。
二ヶ月滞在してた北海道で減った原発ストレスが、またどんと押し寄せて来た。
でもこれがここで生きるってことなのだ。
絶望を見つめるだけか、ここから何かをはじめるかは、それぞれに委ねられている。

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スチャダラパーのBOSEは、7月のブログで書いていたこと:

いちいち言うことじゃないかもしれないけど、
あれだけ大変なことがあったんだから、
それでも行きてる自分たちには、
なんかしら生かされている理由があると思うんですよ。
だから、気合い入れて楽しもう。
「とにかくパーティを続けよう」ってことですよ。

まだまだこれからも、つらくて悲しい日々が続くんだろうし、
すでに絶望的なのはもうみんな分かってる。

でもやるんだよ!


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3月に相次いで原発が爆発したとき、ネット上では「日本終了」という言葉が踊った。
しかし、あっさりと「終了」するわけもなく、
わたしたちは、その後の世界を生きてゆくことになった。

頭は、安易に「終了」や「絶望」側に寄ろうとするが、
身体が生きることをやめないかぎり、わたしは真の楽天家でいたい。

気合いを入れて、パーティを続けたい。

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追記:しりあがり寿が「あの日からのマンガ」についてサイゾーで
インタビューを受けているが、そこで発言していることと
アトミックサイト展は、かなり重なるところがあるように思った。

BLACK BOX

2011-08-08 23:39:47 | Weblog



人が死ぬと、事務的なことが、いきなりどっと押し寄せる。

母が亡くなって数十分後には、看護士がわたしに聞くのだ。

「死亡診断書は、何通必要ですか?」

数時間後には、葬儀屋とさまざまなことを決め、
葬儀が終われば、役所や銀行でいろんな手続きをしなければならない。
15年前の父のときは、母がひとりで全部やってくれていたので、
今回は、初心者の3兄弟が右往左往しながらやっている。

そんななかで、戸籍謄本を見た。
こういう書類は全く詳しくないのでよくわからないけど、
母の出生がしっかり書いてあるものを見たのは初めてだった。

母は小さい頃、養女として蕎麦屋の夫婦に引き取られた。
そしてすぐ養父が亡くなり、養母とふたりで暮らした。
その養母も母が20代のときに亡くなり、母にとって家族とは、
結婚相手の父だけになった。

小さいころ、母に聞いた。
「おかあさんの生みの親はすごいお金持ちで、お母さんはお姫様だったのかもしれないよね」
「それはないよ。本当の親は近くに住んでいたから」

戸籍を見ると、母は「次女」だった。
てっきり子だくさんの家だと思っていたので意外だった。
空知郡三笠山生まれだった。
生みの親も養父母も石狩に住んでいたので、出生地のなじみの無さも不思議だった。

母は自分が本当の子供ではないことを、養父母に知らされる前に知っていたらしい。
どこかから聞きつけた近所の子供たちに「もらわれっこ」とはやし立てられていたからだ。

近所に生みの親が住んでる状況ってどんな気持ちだったのだろう。
私は深く聞いちゃいけないのかなと思いそれ以上聞かず、母も話さなかった。

母は、私たち兄弟によく「あなたたちは、兄弟がいていいわね。大事にしてね。」と言った。
当時は、なんだかわからなかったけど、確かに兄弟がいてよかったと思う。
兄貴の家に泊まり込みできなかったら、私は母の世話なんかできなかった。
病院へ行くときは、札幌にいる姉が3時間高速をぶっとばしてきて、毎回母と付き添った。

もう今となっては、母の出生について聞くことはできない。
知りたいとも思わない。
ただ、母はそういった出生を嘆くこともなく、
きちんと孤独と向き合って生きた人だったと思う。