はーぴー日記

イラストレーター&デザイナーはらだゆきこの日記です。

BLACK BOX

2011-08-08 23:39:47 | Weblog



人が死ぬと、事務的なことが、いきなりどっと押し寄せる。

母が亡くなって数十分後には、看護士がわたしに聞くのだ。

「死亡診断書は、何通必要ですか?」

数時間後には、葬儀屋とさまざまなことを決め、
葬儀が終われば、役所や銀行でいろんな手続きをしなければならない。
15年前の父のときは、母がひとりで全部やってくれていたので、
今回は、初心者の3兄弟が右往左往しながらやっている。

そんななかで、戸籍謄本を見た。
こういう書類は全く詳しくないのでよくわからないけど、
母の出生がしっかり書いてあるものを見たのは初めてだった。

母は小さい頃、養女として蕎麦屋の夫婦に引き取られた。
そしてすぐ養父が亡くなり、養母とふたりで暮らした。
その養母も母が20代のときに亡くなり、母にとって家族とは、
結婚相手の父だけになった。

小さいころ、母に聞いた。
「おかあさんの生みの親はすごいお金持ちで、お母さんはお姫様だったのかもしれないよね」
「それはないよ。本当の親は近くに住んでいたから」

戸籍を見ると、母は「次女」だった。
てっきり子だくさんの家だと思っていたので意外だった。
空知郡三笠山生まれだった。
生みの親も養父母も石狩に住んでいたので、出生地のなじみの無さも不思議だった。

母は自分が本当の子供ではないことを、養父母に知らされる前に知っていたらしい。
どこかから聞きつけた近所の子供たちに「もらわれっこ」とはやし立てられていたからだ。

近所に生みの親が住んでる状況ってどんな気持ちだったのだろう。
私は深く聞いちゃいけないのかなと思いそれ以上聞かず、母も話さなかった。

母は、私たち兄弟によく「あなたたちは、兄弟がいていいわね。大事にしてね。」と言った。
当時は、なんだかわからなかったけど、確かに兄弟がいてよかったと思う。
兄貴の家に泊まり込みできなかったら、私は母の世話なんかできなかった。
病院へ行くときは、札幌にいる姉が3時間高速をぶっとばしてきて、毎回母と付き添った。

もう今となっては、母の出生について聞くことはできない。
知りたいとも思わない。
ただ、母はそういった出生を嘆くこともなく、
きちんと孤独と向き合って生きた人だったと思う。