鹿児島の川内原発が明日にも再稼働される見通しだ。
8月10日に制御棒の検査が行われ、翌日には運転を再開するという。
住民の避難対策の不備をはじめ、さまざまな問題が指摘されてきた。
9日には原発のある川内市の久見崎海岸で2000人規模の反対集会が開かれ、
毎日新聞などの世論調査でも、「反対」が「賛成」を上回ったというが、
それでも県と九州電力、そして政府の姿勢は変わらない。
私が問題にしたいのは、彼らの「意志」だ。
なぜそこまでして原発を推進したいのか?
もちろん、「経済優先」の発想だからと言われるかもしれない。
けれど、原発が本当は「経済的」ではないことは明らかにされている。
本来の経済ではなく、一部の人々の「利権」なのかもしれない。
けれど、いわゆる「原発村」の人々にも思考力があるだろう。
未来の子どもたちにどれほどの負の遺産を残すことになるかは、彼らだってわかっている。
今の安保法制への動きも、沖縄の米軍基地も、原発推進も、すべて一つにつながっている。
素朴な感覚でいえば、彼らは日本を滅ぼしたいのだとしか思えない。
けれど、そこに働く「意志」とは何なのか?
日本を属国にしておきたい米国の意志だろうか?
だとすれば、その意志は何を目指しているのか?
私は、そこには破壊衝動があると思う。
それも、「個人の意志」に対する破壊衝動である。
この世界には、一人ひとりの個人が自分で意思決定をし、
尊厳をもって生きることが我慢ならないと感じる勢力があるのだ。
そして、その勢力にとって、
たとえば日本政府が、本当に国民一人ひとりの生活のことを考え、
日本独自の政策を打ち出したりすることは、到底認められないだろう。
この勢力は、私たちのなかにも「衝動」として働いている。
子どもが反抗したり、
弱い立場の人が誇りをもって自己主張したりするとき、
それをまっすぐに受け止められず、苛立つのは、この衝動のゆえである。
この衝動が働くのは、自分がより強い立場にいるときだ。
生活に困窮している人、難民と呼ばれる人たち、
弱者の立場にある人たちが立ち上がろうとするとき、
自分の立場が脅かされたように感じ、怒りや苛立ちをもって反応する。
それは「権力」の作用である。
私が言いたいのは、
この「権力」は一種、霊的な作用である、ということだ。
そして、さらに注意を促したいのは、
この権力という霊的作用が攻撃するのは、
一人ひとりの個人の自立や自発性だということだ。
戦争への流れも、米軍基地や原発の問題も、
そこに共通しているのは、お金という力で現地の人々の意志を縛るという構造である。
あるいは、力で相手を圧倒したり、さらには生命を奪ったりする。
それでいて、責任者が不明なのだ。
戦争では(死刑でも)、殺す側も、殺される側も、個人性を奪われている。
戦争で人を殺しても罪に問われないのは、そのためだ。
自民党の憲法草案では、
13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という文言を、
わざわざ「人として尊重される」として、
「個」という一語を外している。
そこに見られる「個」に対する拒絶感は、今の政府の動きの本質を示している。
私は、今の政治的・社会的な流れに抗するには、どうしても「霊的」な観点が必要だと思う。
核エネルギーの「霊的」本質とは何だろうか?
それは「原子核」の破壊である。
原子とは英語でアトムというが、「分割できない」という意味である。
個人を英語でインディヴィジュアルというが、これも「分割できない」という意味である。
20世紀になって、原子はもはや物質の最小単位ではなく、
電子やクオークからできていることがわかってきた。
分割不可能なはずの原子が、電子と原子核に、
さらにその原子核を構成する陽子と中性子、
さらにその陽子と中性子がクオークへと「分割」されていったのだ。
それは物理学の発展過程の出来事だが、
その過程で「原子爆弾」が、そして原子力発電所がつくられたことを忘れてはならない。
物質のもとであったはずの原子が分割され、
原子核が破壊されて、解き放たれた膨大なエネルギーが、
爆弾として人々を殺傷し、
放射線として私たちの生体を蝕むことになった。
分割不可能な原子の破壊によって、
分割不可能な個人が攻撃されている。
そこに私のいう「霊的」な意味がある。
シュタイナーは、
放射線とは「物質が霊化」されたものだと言ったが、
およそすべてのエネルギーは霊的である。
私たちの活動はすべてエネルギーによって可能になる。
私たちの存在そのものがエネルギーである。
さて、原子と個人(アトムとインディヴィジュアル)の違いは、
原子は物質の単位として、すでに生成されたものであり、
個人は一人ひとりの人生を通じて、未来に向かって生成されていくものだということだ。
私たちの個人もまた、無数の要素によって構成されている。
つまり遺伝子をはじめ、さまざまな環境要因がそこには働いている。
けれども、それらをつなぎ合わせて、私たちは個人を出現させていく。
それが「生命」ということだ。
原子力が危険だということは確かだ。
けれど、脱原発や核廃絶への動き、
そして脱戦争への動きは、一人ひとりの個人の生成によって裏打ちされなければならない。
なぜなら、原子力推進派が攻撃しようとしているもの、
あるいは米軍基地に固執し、戦争への道を着々とつけている人々が破壊しようとしているもの、
それは一人ひとりの個人の意志だからだ。
戦争でいちばん傷つくのはいつも女性や子どもたちだと言われる。
その人たちはみな個人なのだ。
私たちのなかにある「原発再稼働」に抗する意志、
安保法制や沖縄の米軍基地に抗する意志は、個人の意志である。
私たちは、なによりも自分が自分であるために、
この一連の時代の流れに対抗しようとしている。
そして、そこに唯一の被爆国としての日本の本来の使命があると思う。
8月10日に制御棒の検査が行われ、翌日には運転を再開するという。
住民の避難対策の不備をはじめ、さまざまな問題が指摘されてきた。
9日には原発のある川内市の久見崎海岸で2000人規模の反対集会が開かれ、
毎日新聞などの世論調査でも、「反対」が「賛成」を上回ったというが、
それでも県と九州電力、そして政府の姿勢は変わらない。
私が問題にしたいのは、彼らの「意志」だ。
なぜそこまでして原発を推進したいのか?
もちろん、「経済優先」の発想だからと言われるかもしれない。
けれど、原発が本当は「経済的」ではないことは明らかにされている。
本来の経済ではなく、一部の人々の「利権」なのかもしれない。
けれど、いわゆる「原発村」の人々にも思考力があるだろう。
未来の子どもたちにどれほどの負の遺産を残すことになるかは、彼らだってわかっている。
今の安保法制への動きも、沖縄の米軍基地も、原発推進も、すべて一つにつながっている。
素朴な感覚でいえば、彼らは日本を滅ぼしたいのだとしか思えない。
けれど、そこに働く「意志」とは何なのか?
日本を属国にしておきたい米国の意志だろうか?
だとすれば、その意志は何を目指しているのか?
私は、そこには破壊衝動があると思う。
それも、「個人の意志」に対する破壊衝動である。
この世界には、一人ひとりの個人が自分で意思決定をし、
尊厳をもって生きることが我慢ならないと感じる勢力があるのだ。
そして、その勢力にとって、
たとえば日本政府が、本当に国民一人ひとりの生活のことを考え、
日本独自の政策を打ち出したりすることは、到底認められないだろう。
この勢力は、私たちのなかにも「衝動」として働いている。
子どもが反抗したり、
弱い立場の人が誇りをもって自己主張したりするとき、
それをまっすぐに受け止められず、苛立つのは、この衝動のゆえである。
この衝動が働くのは、自分がより強い立場にいるときだ。
生活に困窮している人、難民と呼ばれる人たち、
弱者の立場にある人たちが立ち上がろうとするとき、
自分の立場が脅かされたように感じ、怒りや苛立ちをもって反応する。
それは「権力」の作用である。
私が言いたいのは、
この「権力」は一種、霊的な作用である、ということだ。
そして、さらに注意を促したいのは、
この権力という霊的作用が攻撃するのは、
一人ひとりの個人の自立や自発性だということだ。
戦争への流れも、米軍基地や原発の問題も、
そこに共通しているのは、お金という力で現地の人々の意志を縛るという構造である。
あるいは、力で相手を圧倒したり、さらには生命を奪ったりする。
それでいて、責任者が不明なのだ。
戦争では(死刑でも)、殺す側も、殺される側も、個人性を奪われている。
戦争で人を殺しても罪に問われないのは、そのためだ。
自民党の憲法草案では、
13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という文言を、
わざわざ「人として尊重される」として、
「個」という一語を外している。
そこに見られる「個」に対する拒絶感は、今の政府の動きの本質を示している。
私は、今の政治的・社会的な流れに抗するには、どうしても「霊的」な観点が必要だと思う。
核エネルギーの「霊的」本質とは何だろうか?
それは「原子核」の破壊である。
原子とは英語でアトムというが、「分割できない」という意味である。
個人を英語でインディヴィジュアルというが、これも「分割できない」という意味である。
20世紀になって、原子はもはや物質の最小単位ではなく、
電子やクオークからできていることがわかってきた。
分割不可能なはずの原子が、電子と原子核に、
さらにその原子核を構成する陽子と中性子、
さらにその陽子と中性子がクオークへと「分割」されていったのだ。
それは物理学の発展過程の出来事だが、
その過程で「原子爆弾」が、そして原子力発電所がつくられたことを忘れてはならない。
物質のもとであったはずの原子が分割され、
原子核が破壊されて、解き放たれた膨大なエネルギーが、
爆弾として人々を殺傷し、
放射線として私たちの生体を蝕むことになった。
分割不可能な原子の破壊によって、
分割不可能な個人が攻撃されている。
そこに私のいう「霊的」な意味がある。
シュタイナーは、
放射線とは「物質が霊化」されたものだと言ったが、
およそすべてのエネルギーは霊的である。
私たちの活動はすべてエネルギーによって可能になる。
私たちの存在そのものがエネルギーである。
さて、原子と個人(アトムとインディヴィジュアル)の違いは、
原子は物質の単位として、すでに生成されたものであり、
個人は一人ひとりの人生を通じて、未来に向かって生成されていくものだということだ。
私たちの個人もまた、無数の要素によって構成されている。
つまり遺伝子をはじめ、さまざまな環境要因がそこには働いている。
けれども、それらをつなぎ合わせて、私たちは個人を出現させていく。
それが「生命」ということだ。
原子力が危険だということは確かだ。
けれど、脱原発や核廃絶への動き、
そして脱戦争への動きは、一人ひとりの個人の生成によって裏打ちされなければならない。
なぜなら、原子力推進派が攻撃しようとしているもの、
あるいは米軍基地に固執し、戦争への道を着々とつけている人々が破壊しようとしているもの、
それは一人ひとりの個人の意志だからだ。
戦争でいちばん傷つくのはいつも女性や子どもたちだと言われる。
その人たちはみな個人なのだ。
私たちのなかにある「原発再稼働」に抗する意志、
安保法制や沖縄の米軍基地に抗する意志は、個人の意志である。
私たちは、なによりも自分が自分であるために、
この一連の時代の流れに対抗しようとしている。
そして、そこに唯一の被爆国としての日本の本来の使命があると思う。