風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

言葉による国家形成

2015-08-05 11:48:09 | 隠された科学
「国家」はすでに古い概念で、これからは「社会」が問題なのだと言われるかもしれない。
けれど、国家という亡霊がこれほどまでに政治家たちの意識を支配している今、
あえて私たちの意識のなかで「国家」の意味を問い直していく必要を感じている。

国家の基盤は言語である。
血筋や民族ではない。共通の言語を理解する人たちの結びつきが国家なのだ。
その意味では、一人の人間が複数の言語を理解することで、複数の国家に属することはありうると思う。
しかし、多くの場合、私たちはひとつの母語を選ぶ。
いくら複数の言語を巧みに話せたとしても、
自分の自己の確立のためには、母語が必要なのだ。
それは子どもの成長のためには、親との関係、
あるいは血縁でなくても、信頼できる大人が一人いることが必要なのと似ている。

ある「国」に生まれ落ちることは、
ある言語圏に生まれ落ちるということだ。
私たちは、親を選んで生まれてくるように、
特定の言語を母語とすべく選んで生まれてくる。

国家の法律はすべて言葉で記される。
憲法もまた言葉で記され、
裁判所の判決も言葉で伝達される。

その言葉は、乳幼児期に、一人ひとりの子どもの内から発生する。
そこに保育/教育と国家形成が直結する点がある。

言葉は一人ひとりの自己から発せられ、
個人の自己形成があるからこそ、国家形成もなされうる。

なぜ子どものなかに自己が育ち、内発的に言葉が出てくるのか?
そこに人間の最大の謎がある。

しかし、確かなことは、私たちは子ども時代に自分の言葉を獲得したこと、
そしてその言葉は、同じ言語圏の他のすべての人々と共有していることである。

さらに重要なことは、
私たちがしゃべるこの言葉は、私たちの世代だけではなく、
ずっとずっと前の世代、今はもう死者となった人々が語り継いできたということだ。
私たちがこの言葉を創ったのではない。
私たちは、死者たちが遺していった言葉を語っている。

そして、私たちもいずれは、この言語を遺して去っていく。
私たちが今しゃべっているこの言葉を、いつかは後の世代の子どもたちが語ることになる。

今、国会で議論している政治家たちも、この言葉をしゃべっている。
死者たちが遺してくれた言葉を使って、
彼らは言い逃れ、詭弁を弄し、嘘をつく。

私たちはそれを聞いて怒り、また失望するが、
つねに意識していなければならないことがある。
それは、今、この瞬間も、政治家たちの言葉によって、
私たちの国家が創られ続けているということだ。

私たちの国は、今は、嘘で塗り固められた、空虚な塊でしかない。
それに対して、私たちは言語を取り戻さなければならない。
そして、それは何よりも子どもたちとの関わりのなかでなされる。
家庭のなかで、保育園や幼稚園、学校のなかでなされるのだ。

私たちが母語を語るときも、
あるいは外国語を語るときも、それは国家の基盤にかかわっているのだ。
言語には、個別性と普遍性がある。
ある言語に独特の表現や言い回し、あるいは独自の発音がある一方で、
地域や文化を超えて共有できる人間としての理想がある。
そうした理想は、英語でも日本語でも、すべての言語で表現できる。
たとえば日本国憲法に記された理念は、そのような人類共通の理想なのだと思う。

翻訳可能な理念と、
翻訳では伝えきれない地域的、文化的なニュアンスがある。
そのどちらが大事とか、優れているということはない。
大事なのは、どの言語にも、そのように個別性に向かう側面と、
普遍性に向かう側面があるということだ。

そして、万人を平等に受けとめるべき国家においては、
可能なかぎり普遍的な言語が語られるべきである。
そのときはじめて、すべての地域性、個別の文化が平等に扱われる。

国家とは言葉の家である。
それは言葉で書かれる法律の家であり、
その言葉は可能なかぎり普遍的でなければならない。

だから、日本国憲法が最初は英語で書かれ、占領軍のアメリカ人と共有されたとしても、
それは憲法に記された理念をまったく傷つけることはない。
むしろ、その理念が一人ひとりの個人、一つひとつの地域性を包括できるものであるかが問題なのだ。

政治は、「可能性の芸術」だといわれるが、
何よりも言葉の仕事だと思う。
国会でも、およそすべて政治の場では、
普遍的な言葉が、一人ひとりの責任において語られる。
その積み重ねが国家をつくるのだ。

もし大多数の政治家が嘘を重ね、国家がますます空虚になっていくとすれば、
それに気づいた私たちが真実の言葉を語り始めなければならない。
それがどこまで数少ない政治家の真実の言葉と共振するか、
どこまで死者たちの思いが、現在語られる言葉のなかに流れ込むか、
どれだけの真実が未来の子どもたちのもとに遺されるか、
そこにすべてがかかっていると思う。

そうでなければ、今の国会の審議によって、
私たちの国は決定的に、精神的に崩壊するだろう。

愛国心とは何か?

2015-08-05 07:59:07 | 隠された科学
愛国心とは、子どもの親への愛情に似ている。
シュタイナー教育では、「子どもは親を選んで生まれてくる」というが、
それはただの神秘思想ではない。
愛とは何か、ということである。

子どもは、どんな劣悪な環境にも生まれてくる。
虐待され、食べ物を与えられず、紛争に巻き込まれても、
子どもは大人に身を委ねることしかできない。
いや、そこに自分を受けとめてくれる大人が一人はいてくれることを信じて、
子どもは生まれてくる。
その思いは裏切られるかもしれない。
それでも、子どもたちは何かを信じて、誰かを信じて生まれてくる。
そのあり方が「愛」なのだと思う。

「親を選んで生まれてくる」というのは、甘くて美しい考えではない。
子どもが生まれたということは、
親が選ばれたということだ。自分が無条件の愛を、子どもから向けられていることを知ることだ。
自分はその愛に応えようと努力することもできるし、
その愛を深く裏切ることもできる。その震撼させられるべき責任の重さを伝えているのが、
「子どもは親を選んで生まれてくる」という言葉なのだ。

同様に、人は「国」を選んで生まれてくる。
そこは「国家」の体をなさない場所かもしれない。
それでも人は自分の「故郷」を選んで生まれてくる。
子どもたちを受けとめる社会は、
「故郷」として選ばれたことの責任の重さに震撼させられるべきだ。

私たちの実感は、
自分は親を選べないし、生まれ落ちる環境を選べないということだろう。
それはそうなのだ。
「あなたは実は親を選んで生まれてきた、この国を選んで生まれてきた、だから親孝行をしなさい、国に奉仕しなさい」
というのは、「選ばれた側」が発する最悪のメッセージである。

選ばれた以上、私たちには義務と責任がある。
それは少しでも子どもたちの愛に応えることだ。
少しでも愛されるに価する人間になろう、愛されるに価する国を形成していこうと努力することだ。
それが「教育」なのだと思う。

教育とは、立派な大人が、未完成な子どもの人格を完成させていくことなんかではない。
未熟な人間が、子どもの傍らで、少しでも自分を完成させていこうと努力することだ。
大人の自己形成への努力だけが、子どもの人格形成を支える。

そこにおいて、人間の自己形成は国家形成と一つにつながっている。
教育は国家の礎である。
けれど、その意味は従順な人間をつくりだして国を支えるということではない。
大人の問題なのだ。
自分たちのもとに生まれてきた子どもたちが育つ環境として、
私たちはどのような国をつくっていきたいかということだ。
その意味での国家は、決して完成されざるもの、
つねに人々の努力によって変化し、生成し続けるものである。

国家は、人々のなかでつねに発生し続ける。
私たちが国家なのだ。そして、私たちが子どもたちの傍らで、
絶えざる自己形成に向けて努力し続けることを初めて意識的に誓ったのが、70年前のことだ。
日本国憲法は、未来の子どもたちに向けて、大人の誓いを記した手紙である。

私は国旗掲揚に反対ではない。けれど、国旗掲揚や国歌斉唱を強制することには絶対に反対である。
なぜなら、それは国旗や国歌を冒涜することになるからだ。
本当に国旗を大切に思う人たちが集まったところでは、国旗を掲げればいいだろう。
けれど、その思いは真実でなければならない。

別の人たちは、自分の「愛国心」をもっと別のかたちで表現したいと思うかもしれない。
ドイツ語の「故郷」(ハイマート)には独特の響きがある。
自分がもといたところ、いずれ帰っていくところ。自分のアイデンティティーの原点。

今、日本という国は、安倍政権の自立の欠如した、対米追従の政策によって、
ますます誇ることのできない、愛することのできない国になりつつある。
それで傷つくのは、私たちの、子どもたちの愛国心である。

親への愛も、
国への愛も、
人間への、自分自身への希望であり、信頼である。

そう考えたとき、
親は子どもが反抗し、自立に向けてあがくのを喜びをもって見守るだろう。
政府もまた、市民が問題を指摘し、反対集会を催したときは、
その議論を歓迎することができるだろう。

個人の自立こそが、国家形成の最大の力なのだから。