風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

子ども時代ふたたび~天皇と個人~

2015-08-16 01:43:38 | 十字架に眠る幼子
子どもが幸せな社会って、どんな社会なのだろう?

そう自分に問いかけながら、
赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』を読んだ。
たぶん私とほぼ同じ世代の人だからかもしれないが、
私自身が自分に問いかけてきた日本のアイデンティティーについての問いが、
ほぼ共通の文脈のなかで問いかけられていた。

ほぼ共通の文脈というのは、「天皇」と「神」のことだ。
そして、日本語...。

私が特に印象深く感じたのは、「消えた空き地...」というところ。
私が子どもの頃も、まだ空き地は残っていた。
自転車に乗る練習をしたのも、凧をあげたのもその空き地だった。
子ども時代の原風景と言えば、言えるのかもしれない。

私が特に共感したのは、
赤坂さんが地域の公園の改修を検討する委員会に参加したくだりだ。
結局は、だれも責任をとりたくなくて、
だから無難な「管理」へと流れていくなかで、
彼女は「大人とは責任を引き受ける人のことだ」と考え、
「私は大人になりたい、と心から願った」という。
そこに私は本当に共感した。
「『何かあったら責任は私がとるから、君らは遊べ』
と言える大人がいなかったら、子どもは殺される」という赤坂さんの言葉に。

思うに、子どもが幸せな社会というのは、
責任を引き受ける大人たちのいる社会ではないのか。

私自身、自分の責任感のなさには自分でもいやになるが、
それでも何かあったときには、歯を食いしばってでも責任をとろうと思う。
そして、この一点が、私がシュタイナーを信頼しているところなのだと思う。

彼は「教育者のモットー」として、
「自分自身をファンタジーの能力で貫け」
「真実への勇気を持て」
「心のなかの責任への感情を研ぎ澄ませ」と言った。

ファンタジーというのは、柔軟な想像力ということだ。
そして、大勢が一方向に押し流されているときも、自分が真実と認識したことの側に立つ勇気。
そして、責任感。

その三つの特性を義務としてではなく、
自分の欲求として、また感覚や感情として身につけているのが教師だという。

私はこれまでの人生のなかで何度、この「真実への勇気」という言葉を自分に言い聞かせただろうか。
言い聞かせなければならないというのは、それだけ自分に勇気がないことの証でもあるが、
それでもシュタイナーのこの言葉があったから、私は発言しづらい空気のなかで発言したり、
白い目で見られそうな場所で問いを発したりした。

それがこれほどまでに困難なのは、
やはりこの国では、天皇が戦争の責任をとれなかったことが大きいと思う。
そして、そういうことがあるから、
私は、アントロポゾフィー運動の代表的な人たちが「自分には責任がない」というとき、
どうしてもそれを受け入れることができなかった。

アントロポゾフィーがこの日本で役立つことがあるとすれば、
それは赤坂さんのいう「責任を引き受ける大人」がひとりでも増えることにあると思うから。

原発の再稼働は、環境問題にとどまらない。
安保法案=戦争法案は、平和問題にとどまらない。
それは無責任な大人たちの姿をさらすことで、
子どもたちの未来への希望を奪うことだ。
そこに最大の罪があると、私は思っている。

そう思ったとき、
私は、シュタイナーが「心の中の責任への感情を研ぎ澄ませ」という表現をしたことに改めて注目する。
そして、気づいたのだ。
これは「心的責任性への感情」と訳すべきだったと。

彼が言っていたのは、曖昧な責任感のことではなかった。
おのれの心が、何に対して責任を感じるか、
自分は何に対して責任があるか、その感情を研ぎ澄ませというのだ。

そして、私は思う。
私は、沖縄に対しても、原発再稼働に対しても、安保法制をめぐる議論に対しても、
「責任」を感じている。
それは直接的な責任ではないかもしれない。
けれど、私の心は自分の「責任性」を感じている。
それがシュタイナーのいった「心的責任性の感情」ということではなかったか。

日本の敗戦から70年のこの夏、
私はこのように考える。

私は自分が以前から唱えていた「万人天皇説」を実践してみようと思う。

近代日本の特徴は、それがプロイセンの憲法に倣い、
即席で大日本帝國憲法をつくり、その中心に天皇を据えたことにある。
それはヨーロッパのキリスト教に代わる、精神的基軸となるべきものだった。

トマス・ジェファーソンが起草したアメリカの独立宣言においても、
基本的人権の根拠は神=創造主とされている。
「われわれは以下の真実を自明のものと見なす。すなわち、すべての人は平等に創られ、
創造主によって一定の奪うことのできない権利を与えられていること、
そしてそれらの権利のなかには、生命、自由、幸福を追求する権利が含まれていることである。」

それではそういった神を信じない人々は、何を基本的人権の根拠とすればよいのだろうか?

日本の場合は、それを天皇に求めた。
だから日本の憲法は、明治憲法も現行の憲法も、天皇をめぐる条項から始まっている。

日本の天皇は、明治において西洋の一神教的な神にされ、
その後の戦争は、この神の名において戦われた。
以前も書いたように、
私は、いわゆる「人間宣言」において天皇が、
「天皇を神とし、日本民族が他の民族より優秀であり、だから世界を支配すべき運命にあるという架空の観念」を否定したことは、
天皇自身にとっても、日本人一般にとっても、いわば擬似的な「キリスト体験」だったのではないかと考えている。

急ごしらえで一神教の神となった天皇は、
原爆投下を含む太平洋戦争を経て、こんどは人間として生きることになった。
そして、憲法では「日本国と日本国民の統合の象徴」とされる。
そして、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」のである。

私たちが天皇を、私たちの象徴として認めるのである。

だとすれば、いわばキリストが一人ひとりの人間の魂のなかに生きているように、
天皇もまた、私たちがそのように意識すれば、私たち一人ひとりのなかに生きることになるだろう。

天皇は、私たちの象徴なのだから、
実は、私たち一人ひとりが天皇だということになる。

そして、もし私たちが天皇であるなら、
天皇が引き受けられなかった戦争への責任を、
私たち一人ひとりが引き受けることができるだろう、もしそれを望むのであれば。

そうでなければ、私たち日本人は、いつまでも「戦争責任を引き受ける人が不在」のまま、過去に向かわざるをえない。

責任は自我の能力である。
天皇はいわば日本国民の自我であったが、戦争の責任を取ることが許されなかったために、
日本人全体がその自我の働きを抑圧することになった。
それが現在の日本の状況なのだと思う。

天皇は、今、精一杯「象徴」としての役割を引き受けていると思う。
そうであれば、天皇の象徴としての地位を認めている一人ひとりの私が、
戦争への責任を自覚することが可能だろう、
あるいは今の天皇と皇后が感じている「痛み」を私たちが共有することが可能だろう、
「日本人はすべて天皇なのだ」という自覚をもって。

皇居に住んでいない私たちがどうやって天皇になれるのかと言われるかもしれないが、
天皇が日本国と国民統合の象徴なのであれば、
天皇は、私たちのあり方を象徴しているのである。
それは、天皇は私たちとイコールだということだ。

戦争責任を引き受けるといっても、もちろん無意味に自分を責めたり、傷つけたりするということではない。
日本人としての自覚をもって、過去に目を向け、
そこで日本が引き起こした痛みを少しでも感じ取ろうとすることだ。
それは、自分を否定するためではなく、
日本人として誇りと尊厳をもって、大人として再出発するということである。

昭和天皇が戦争責任を引き受けられなかったことは、すでに過去の事実であり、それを変えることはできない。
けれども、日本人の自我、日本のアイデンティティーを回復するための道は、
私たち一人ひとりの内面にあるのではないか、と思う。

私はなんとか、日本人として、私のなかから新しい一歩を踏み出したいと思う。