風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

大学会員の義務と責任について

2015-07-28 12:31:47 | アントロポゾフィー
このブログにいただいた「水星」さんのコメントに、
「風韻坊さまは精神科学自由大学会員とのことですが、自由大学についてかなり独自の見方をされていると思いました」
と書かれていた。

「水星」さんのように、アントロポゾフィー協会や自由大学のあり方について真剣に考えている人がいることを本当に貴重に思う。
だから、自分にとってはやや過去に属することなのだが、彼が述べている「大学会員の義務」について私の理解を記しておきたい。

私はところどころで「独自の見方」を打ち出しているが、協会や自由大学のあり方についてはきわめてシュタイナーの意図を忠実に汲み取っているつもりだ。むしろ、シュタイナーの意図を直接に理解していただきたくて、「水星」さんが言及された『シュタイナーが協会と自由大学に託したこと』という本を出版した次第である。

「大学会員の義務」に関しては、私は「水星」さんが指摘された同書162ページに加えて、その数ページ後(p.169)の次の言葉が重要であると考えている。
「自由大学に所属するということは、アントロポゾフィー協会そのものにおけると同様に、意味を持つことを基盤としなければなりません。つまり、自由大学においては、他の人々とともにアントロポゾフィーを育成する意志を持つということです。だからこそ、精神科学自由大学は、その会員たちにますます厳しい義務を課していくことになるでしょう。」

シュタイナーの意図において、自由大学の「意味」は、「アントロポゾフィーの育成」にあった。
そして、その「育成」は「他の人々とともに」行われることだからこそ、「信頼」という基盤が必要なのだ。

しかし、シュタイナーにとって、このアントロポゾフィーの育成はきわめて「真剣」な事柄だった。
その真剣さを理解できない人、あるいはまだ「アントロポゾフィーの育成」に関わる準備のできていない人には、彼は「まだしばらく待っていてほしい」と伝えた。

アントロポゾフィーは「生きもの」である。
シュタイナーのいう「育成」はドイツ語ではpflegen。「手入れ」や「世話」とも訳される。
生命体としてのアントロポゾフィーのケア(育成)をすることが、自由大学の「意味」である。
なぜなら、幼い子どもの成長を支え、保護する人がいて初めて、その子どものもっている可能性は発展するように、
アントロポゾフィーが世界の現実のなかで有効に働くためには、
そこから何かを得ようとする人だけではなく、アントロポゾフィーの世話をする側に回る人たちが必要だからである。

大学会員の「義務」は、ゲーテアヌムを信頼することではなく、アントロポゾフィーの育成である。
そして、その義務を全うするためには、ゲーテアヌムの人々を含め、他の同じ志をもった人々との「信頼」が必要なのである。

この信頼の根拠になっているのが、「世界の前にアントロポゾフィーを代表する」という信念である。
「水星」さんが挙げた162ページの最後で、シュタイナーは「信頼」との関連で、このように述べている。
「...クラスに所属しようとする人はすべて、自分自身に対して、自分は本当にアントロポゾフィーの事柄を世界の前で支持(vertreten、代表)するだけではなく、あらゆる勇気をもって、あらゆるしかたでそれを代表する(repräsentieren)人物になる意志があるのか、と問いかける必要があるのです。」

通常、組織や立場を「代表」するという言い方をするときは、
ドイツ語ではvertretenという言葉を使う。
他の人々に代わって発言したり、何らかの意見を支持したりするときに使う言葉だ。

Repräsentierenも同様の使い方ができるが、
これはvertreten以上に、組織や立場がその人のなかに体現されていること、
あるいはその人がそうした立場や組織の「典型」であることを示唆する言葉である。

私は、シュタイナーがこの言葉を使った背景には、明らかに「人類の代表」(Menschheitsrepräsentant)との関連があったと思う。
シュタイナーは、晩年に制作したキリストを思わせる彫像にこのタイトルを付けたのである。

キリストがいわば、人類の運命とみずからを結びつけ、そのすべての破壊的、否定的行為を引き受けつつ、
人類の創造に寄り添ったように、

シュタイナーもまた、クリスマス会議において、自分の意図をまったく理解しない会員たちとともに新しいアントロポゾフィー協会を設立し、
その「代表」となった。かつてプロコフィエフ氏が切実に強調したように、「シュタイナーは、協会のカルマを引き受けた」のである。

シュタイナーが協会と自由大学について語った言葉を読むと、
彼のその真剣な覚悟が伝わってくる。
そして、自由大学に入る条件として「アントロポゾフィーを代表する意志」を求めたとき、
それはシュタイナー自身とともに、アントロポゾフィーを育成する仲間を求めていたことがわかる。
それゆえに、彼は自由大学に関して徹底して厳しかった。

そこにはシュタイナーの次の確信があった。
「今日、私たちが生きている時代においては、基本的に、アントロポゾフィーは地球上の無数の人々にとって焦眉の問題になるはずなのです。」(同書p.139)

しかし、そうなっているだろうか?
一人ひとりの大学会員は、自分が身をおくその場でアントロポゾフィーを生きるのだ。
私たち一人ひとりがアントロポゾフィーそのものなのだ。
自由大学において、私たちはシュタイナーと対等である。
たとえ、どんなに見苦しく愚かであったとしても、
私たちはシュタイナーが目指していたことを、共に目指そうとするから、自由大学に集っている。

私はこの意味での「自由大学」に所属しているつもりだ。
ただし、その会員はゲーテアヌムに登録しているよりもはるかに多く、世界各地に生きていると思っている。
また、自由大学会員のなかには、数多くの「死者」がいるし、この世に生まれることのない霊的存在たちもいる。

私は思うのだ。
これまでのアントロポゾフィー運動はやはり、シュタイナーが警告した「徒党欲求」(同書p.165)に陥っていたのではないか、と。
日本は今、戦争に向かって突き進んでいる。
米国に代表される作用は全世界に広がっている。

そこでアントロポゾフィーが有効に働くかどうか、
シュタイナーのいうように「地球上の無数の人々にとって焦眉の問題」になるかどうか、
それは結局は、一人ひとりの個人において見ていくしかない。

それはきわめて孤独な作業になる場合もあるだろう。
けれど、シュタイナーが示した「信頼」とは、地上において徒党を組まなくても、
意識の深みにおいて、自分と同じ信念をもって努力している人々と連帯することができる、ということだ。

私たち一人ひとりの努力を通して、
いつか、アントロポゾフィー協会は果てしなく開かれて、一般社会のなかに解消されるだろう。
そして、アントロポゾフィーは新しい人間の知恵として、多くの人々の生活のなかに生きることになるだろう。
そこに見えてくるのは、一人ひとりの個人の無限の価値を認め、
個人の創造性によってつねに生まれ変わる社会のありようだ。

そのような理想を共有できる人々は、世界に無数にいると思う。
その人たちを「アントロポゾフィー」という名称で括る必要はない。

要は、それを単なる理想や夢物語として片付けるのではなく、
きわめて真剣に、けれど自分だけを「高尚」にすることなく、
やや滑稽な姿をさらしつつ、自分の目指すところとして努力し続けること、

それが自由大学会員の「義務」であり、
それを自らの意志として引き受けられる人が、自分で自分に課すものなのだと思う。

そのとき、アントロポゾフィーを育成すること、
アントロポゾフィーの源泉からつねに「新しいもの」を生み出していくことは、
自由大学会員の「責任」として自ずと意識されることだろう。

以上は、私自身の表現だけれど、
この理解は、けっして私の「独自の見方」ではない、
シュタイナーの言葉を正確に読み解いていけば、きっとそのような理解にいたるだろうと思っている。