研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

文章事始

2007-01-23 04:41:15 | Weblog
私は文化の最果ての地に生まれたので、少年時代から読書傾向に早熟なものはなにもなかった。いや、実は生まれた地だけが原因ではなく、私は発達が遅くて、小学校三年生になるまで自分の名前を漢字でかけなかった。カタカナを全部おぼえたのも小学校三年生のおわりころだった。だから当然本も音読すらできなかった。先生に当てられても、「う・・・らし・ま・・・た・・ろ・・うは」というふうにしか読めなかった。黙読は不可能だった。だから、他の学科にはまったくついていけなかった。先生が授業で何を言っているのかまったく分からなかったのだ。ローマ字は、小学校の間はとうとう理解できなかった。

先生も人間だが、特に小学校の先生には必ずお気に入りの生徒というのがいる。なぜか私は当時のOという担任の年配の教師にとても可愛がられていた。今の社会なら絶対に許されないだろう露骨なエコヒイキを当時の担任教師は堂々としていて、例えば絵のコンクールがあると、小さな町の名士だったその先生は、その権力をもって、私の意味不明の絵を「準特選」にしてしまった。「特選」はさすがにまずかったので、おそらく特選と入選の間に、私のために「準特選」という賞をもうけたのだと思われる。絵は、小さなデパートの児童絵画コーナーに飾られるので両親と見に行った。両親は、私のやることなら何でも誉めてくれていたが、あの時だけは絶句していた。本当にヒドイ絵で、何を描いているのかわからない。実はその絵は、学芸会でやった劇「大きなカブ」の絵だった。ふっと後ろを見ると、担任のO先生が「理事」の席に座っていてこちらを見ている。O先生は有名な書道家でもあり、美術文化関連の催し物には絶大な力をもっていたので、その権力で私を受賞者にしたのだ。深々と先生に挨拶する両親の目には、「先生、ありがたいんですけど、やりすぎです・・・」という色が漂っていたと思う。周囲の絵は本当に上手く、私の絵だけが、展示場の空間そのものを歪めているほどだった。

O先生は厳しい先生で、授業中は竹刀をもっていて、生徒の言葉遣いが間違っていると容赦なく叩いた。先生は竹刀を「アメ棒」と呼んでいて、これで叩かれた生徒は、「ごちそうさまでした」と言わなければならない。同様に、鉄の箱の蓋を「鉄板焼き」と呼んでいて、これで叩かれても、「ごちそうさまでした」といわなければならない。でも、私は叩かれた記憶があまりない。ゼロではないのは確かだが、他の生徒に比べて極端に少なかったと思う。学校のスケート大会があれば必ず私をリレーの選手に選んだ。私は、氷の上に立つことがやっとなのに。だから、リレーは、私が属して3組が途中までトップでも、私のところで全部抜かれる。応援に来ていた他の子の御両親の視線が辛かったと母は言っていた。

私の何がそのベテラン教師の琴線にふれたのか分からないが、いくら思い返しても、度を越したエコヒイキを私にしていた。ただ、夏休み直前のある日、O先生は私の家にやってきて、「○○くんは、他の宿題はやらなくていいから、毎日国語の教科書のここにでてくる『ひよこ』(大きな文字で四頁くらいの詩みたいな作品。)を、毎日毎日何度も何度も声を出して読みなさい」とだけ約束させた。当時の私は、ただただ素直な上に、アタマも足りなかったから、他の学科のことはすっかり忘れて、『周利槃特(しゅりはんどく)』の如く、毎朝毎晩毎日何度も何度も『ひよこ』を音読し続けた。夏休みが終わるころには、スラスラ読めるようになっていた。この時のことははっきりおぼえている。「文字はひと塊で先に目に入れて、頭に映像として残っている文字を順に言葉にすればよい」ということと、「本を読むときは、半分は記憶を足場にしているんだ」ということである。これは、思い出話の脚色ではない。はっきりと、そう悟ったのだ。夏休みがあけた時には別人のように私の朗読は綺麗になっていた。仏教説話にでてくる「周利槃特」の話そのままである。『ひよこ』が出発点だったが、私は、他の作品も上手に朗読できるようになった。

知らない人のために、あいまいな記憶で説明すると、大昔、仏陀の弟子に周利槃特という頭の明らかに足りない男がいた。兄弟子たちがどうやっても彼にものを教えることがきでないのを気の毒に思った仏陀は、周利槃特に箒を持たせ、「心の塵をはらいませ、心の垢をはらいませ」とのみとなえながら、そこら中の掃除をするという修行を命じた。周利槃特は、仏陀の教えどおり、掃除のたび毎に、「心の塵をはらいませ、心の垢をはらいませ」と唱えながらそれを5年、10年と続け、最後にはその悟りによって阿羅漢になったのだという。

この『ひよこ』の経験が私の知的世界への入り口になった。もちろん、児童期の私は知恵が遅れていたので、相変わらず成績は悪かったが、これ以来、何かが根本的に変わった。O先生はその後、他校に転勤となったが、「○○くんが心配で離したくない。赴任地に連れて行きたいのだがそうもいかない。それで、次の先生には、よくよく目をかけるように申し送りしておきました」と言ってくれていた。2年生の担任は産休明けの女の先生だったが、彼女は「がんばりっこノート」というのをクラス全員に配った。趣旨は「なんでもいいから、頑張って勉強したことを書いて毎日提出しなさい」というものだった。私は、勉強はなにも分からないので作文を書いた。それが先生にとってはいたく気に入ったようだった。「毎日提出」は努力目標で、まして作文は義務でもなんでもなかったのだが、先生はただただ、私の作文を読みたがったので、私は仕方なく毎日作文を書いて提出した。小学校2年生には知識が無い。だから、調べモノをしてレポートを書くようには行かない。毎日の生活で思ったこと、感じたことを、本当にそのまま書いた。これが毎日である。私は毎日、先生が面白がるようなテーマを探し出し、文章に書いた。返却されると、余白一杯に真っ赤な文字で先生は作文の感想を書いてくる。先生はとうとうお気に入りの生徒である私の作文をみんなに聞かせるために、全校作文大会を企画し、私は2年3組代表として全校生徒の前で作文を朗読した。私のための大会である。当然私が最優秀賞をもらった。

当時の小学校1~2年の私はどう思っていたかと言うと、実はただ困惑し、迷惑に思っていた。出来れば何もせず、家にいたい子供だったので、先生方の心からの愛情をまったく理解していなかった。「先生、今度は僕に何をさせたいんだろう」と思うとうっとおしくも感じた。

その後、私をヒイキしてくれる教師は現れず、また中学に入るころには、ようやく脳の発達が周囲に追いついてきて、田舎ではけっこう秀才だったりするようになり、私を特別に心配し可愛がってくれていた先生方のことは忘れていった。

スタートがこんなふうだったので、私の読書習慣には、客観的必要性というのが完全に消えた。内在的に、今自分が読みたいものを自分流に読んで、自分の口の中で気に入った言葉を転がし、反芻し、自分の血や肉となるようにしか読めない。だから実は、「読書好き」ですらないのだろう。読まないですむものは読みたくない。文科系研究者としては明らかに欠点であると同時に、オリジナリティの源泉にもなるのだから、結局は一長一短なんだろう。

ただ最近になって、小学校1,2年生のころの先生方の指導が、今日の私のすべての出発点になっているのだけは確かだったと思う。両親が保管していた私の小学校のころの作文を読む機会があった。知識はゼロで、経験は圧倒的に少ないことをのぞけば、私の文章はすでに7,8歳ころで今の形に成っていた。あれから上手くも下手にもなっていない。担任の先生方が生きている間に、やっぱりお礼に行こうかと思った。